池の水を澄ませるようなもの、坐禅
昨日の住職の言葉のメモを読み返す。
坐禅は、何かをやると云ったものではない。池の水を、そーっと澄ませるようなこと。無色透明になること。水が澄めば、見えてくるものが違う。
生きながら、開放される境地を、「大死」(だいし)と云う。両手でぶら下がっている松の木の枝から、右手も離し、そして、左手も離してしまう気概・勢いを、「大死」と云う。ぶら下がっている松の木は「エゴ」と云う自分。
一緒に住職の話を聴いてた人が、雑談の中で、自分が感動した言葉を披露してくれた。「あると豊かになる。無いと安心する。」
昨日は、そんなことを考える日であった。
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