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February 28, 2010

隣合わせの過酷な人生、白楽駅踏みきり

一昨日夕方17:30頃、東横線白楽駅踏みきりで16歳の女の子が電車に跳び込んだことを、昨日、ジャズ喫茶のママから聞き絶句した。幸い一命は取り留めたとも聞いた。私が毎日通勤で渡る、慣れた踏みきりで起こった悲しいシーン。

26日(金)のその頃、私は小雨の降りしきる中、芝の日本料理屋でアラブ代表団と日本の元売幹部の会食へ向かっていた。華やかな会食の場面と、その電車に跳び込んだ女の子の気持ちが、大きくダブって感じられ、人生のこのような場面の共存に絶句した。

その踏みきりが窓から見える程近くのジャズ喫茶で、昨日夜のジャズライブは、追加補助席まで満杯になる盛況であった。私は、ジャズを聴きながらも、その女の子の入院先での様子を思い浮かべ辛かった。

身近に壮絶な、過酷な人生が、隣り合わせにあることを思った。

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February 27, 2010

異文化、関心事の差、強烈な3日間

今日を含めて、この3日間は、大変な渦潮、異文化の価値観の渦潮の中に巻き込まれていたように思う。

アラブからの代表団の中にポツンと一人いる日本人の私は、巻き込まれぬ様に、しかし離れぬ様に距離を保ちながら行動した。

アラビア湾岸の石油輸出国も、石油の発見の前は、貧しくインドへ出稼ぎに行っていた歴史がある。急激に豊かになった国の為か、色んなところに、私は極端さを感じてしまう。

改めて、静寂・質素な禅の精神が、私にはピッタリなことを思った。アラブ人に対しても、私は、そんな精神を静かに、表現し続けようと思った。

そして、今日の夜は、開放されて、「絶対にジャズのライブを聴くぞー」と思う。

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February 26, 2010

アラブからのVIP来日、アテンド

昨日から、アラブの国営石油社長が来日、明日まで私もフルにスケジュールに同行。ちょっと、日頃の余裕は無い状態に入った。

石油会社数社の首脳を訪問後、嵐のように、次のアジアの国へ移動して行く。

明日の夜は、このアテンド業務から開放されて、近所の行き付けのジャズ喫茶でジャズのライブを聴けるのを愉しみに、今朝も、早目に出社。

今朝、TVアラビア後で、変な可笑しなアラビア語を覚えた。"ハル アジャパートカ ヤバーニ"(日本は気に入りましたか?""アジャパー"には思わず笑った。

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February 25, 2010

「子グマのエペレ」の物語

6人兄弟・姉妹だった私の子供時代には、家で語り継がれて、泣かされて来た物語があった。クマの親子が野に遊んでいた時、母クマが猟師に銃で撃たれ、母と子の別れのシーンを描いた物語りであった。

姉や母から聞かされて、私も、私の妹も弟も、みんな子供ながらに泣きながら話を聴いていた。

母クマは子グマに云う。「お母さんは、もうダメだから、早く逃げなさい。一人になっても、元気に生きなさい。」そう云って、子グマに云い聞かせる母グマのシーンが、辛くて辛くて、心の中はいつもオイオイ泣いた。妹や弟は、鼻をヒクヒクさせて、泣いた。

その話をよくしてくれた3番目の姉は29歳の若さで、幼子を残して、ガンで亡くなった。「子グマのエペレ」、その話は、その後、どこにも、誰からも聞くことは無かった。「子グマのエペレ」、何かアイヌっぽい響きの名前にも感じる。私の子供時代に、強烈な印象を残した「子グマのエペレの物語」

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February 24, 2010

会社帰り、自宅近くで二人の人から大きな声で挨拶に嬉しい驚き

昨日、会社帰り、夜8時半くらい、駅から自宅へ帰る道で、後ろから走って追い越して行く、近所の奥さんが大きな声で、「お疲れ様」とか、挨拶して通り過ぎた。

ちょっと、疲れ気味に、ゆっくりと歩いていた私には、ビクッと、気合いが入った。「あっ、どうも」と声を返した。

そして、今度は自宅前で、近所の家の娘さんが、「こんばんは」と声をかけてくれた。

会社帰りの、フラフラと疲れて帰る道すがら、近所の人達に声をかけられて、何だかちょっと元気がでる思いだった。

挨拶って、愉しいことだなーと改めて驚いた。

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February 23, 2010

多少の不幸、質素の効用

世界を見渡すと、悲惨や不幸な出来事が沢山ある。社会にも、悲惨や不幸な出来事が沢山ある。

そのような事も含めて、自然の摂理、宇宙は調和しているのだろう。人間の身体の中の善玉菌、悪玉菌の様に、相対立する存在があるから、共に役割を果たし自然の摂理が機能しているのだろう。

そう考えると、私にも多少の不幸があってこそ当然で、寧ろその方が、自然の摂理にあっていて、寧ろ落ちつく様にも思う。私にも、それ相応の不幸を背負わさせてもらってこそ、自然と調和して穏かに生きて行けるのだとも思う。

質素は、自分が生きて行くのに、なるべく自然を乱さず、生きて行くのに役立つ。質素は、心の平穏のもと。

「多少の不幸、質素と共に生きる」、これが、成熟した人生のコツではないかと思う。

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February 22, 2010

としょかん、紙芝居の貸出し

昨日昼、東神奈川の横浜市立図書館に、借りた本を返しに行った。また、新しくアラビア語や健康、ビジネスなどの本6冊を借りた。

「ようこそ、としょかんへ」と、ひらがなで、子供達向けのパンフレットが置いてあるのに、気づき、「としょかん」と云うひらがなが、妙に、私をメルヘンの世界へ導いた。

そうだ、娘が幼児の頃、武蔵小杉のアパートの近くの中原図書館へよく行ったものだ。紙芝居を借り、家へ持って帰り、家で紙芝居を読んだっけ。図書館に入ると、娘はすぐ、子供図書のコーナーに、駆け出していた。

図書館の入り口横には、小さな池があって、赤い鯉が泳いでいた。


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February 21, 2010

池の水を澄ませるようなもの、坐禅

昨日の住職の言葉のメモを読み返す。

坐禅は、何かをやると云ったものではない。池の水を、そーっと澄ませるようなこと。無色透明になること。水が澄めば、見えてくるものが違う。

生きながら、開放される境地を、「大死」(だいし)と云う。両手でぶら下がっている松の木の枝から、右手も離し、そして、左手も離してしまう気概・勢いを、「大死」と云う。ぶら下がっている松の木は「エゴ」と云う自分。

一緒に住職の話を聴いてた人が、雑談の中で、自分が感動した言葉を披露してくれた。「あると豊かになる。無いと安心する。」

昨日は、そんなことを考える日であった。

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February 20, 2010

拡大と縮小は自由

深刻に悩みたい時は、悩みを拡大すれば好い。

ちょっと、ゆっくりリラックスしたい時は、悩みを縮小すれば好い。

拡大も縮小も自由自在。会社のコピー機を連想する。2倍、4倍、10倍、縮小1/2,1/4,など。

私は、コピー機だったのか?何たる自由。滑稽な自由。

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February 19, 2010

回想の中のシーン

今、今見ているシーンを、回想の中のシーンだと勘違いしたら、それはすごい。何と素晴らしい、勘違い。

追憶の中のシーンが、今ここにあるとしたら、それはすごい。

時折、街を歩いていても、普通に通勤していても、今と、回想の中のシーンとは、同じ様に見えることもある。

そうすれば、電話をかければ、まだ両親は生きていると、また勘違いできるような気がする。

今と過去の境が、薄らぐことは、心地よい。

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February 18, 2010

混ぜご飯人生

決して幸せでは無い人生。

決して不幸でも無い人生。

人生は、幸せと、不幸が、適当に混じり合った、混ぜご飯みたいなものじゃないのか?

そんな事を思った。

「混ぜご飯人生」、そんな発想は、結構、力が抜けて好い。

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February 17, 2010

地球が浮いていることの不思議

余り意識はしなく、深く考えたことの無いことに、「地球は何故落ちないのか?落ちるとしたら、何処に落ちるのか?」と云う命題がある。何度か、この話を、住職から聴き、答えに窮し、深刻に、苦笑した。

虚空世界に浮いている地球を想像して、神秘に包まれる。

地球が、浮いていることの不思議さ。

その地球に、へばりついてる人間の可愛さ、滑稽さ。やはり、人生は、面白い存在。

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February 16, 2010

二人三脚の限界

二人三脚の息がピッタリあってとか、運動会で、二人三脚の実際の様子を何度か見た事がある。

だが、如何に二人で、二人三脚で息をピッタリ合わせて走っても、一人で走るのとは、月とスッポンくらい全然自然さの度合いが違う。

人間関係に於いても、二人三脚の様にと云う表現をよく耳にするが、私は、二人三脚をやる時の、緊張やぎこちなさは、自然な動きとは、かけ離れている様に思う。

やはり、一人を楽しむ気持ちがあって、たまに限界を知りつつ、二人三脚を楽しむ位の気持ちが大切だと思う。誰かと、ピッタリ息が合うように過大な期待を夢見て生きるのは、大人の考えではないと思う。

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February 15, 2010

韓国に中華料理屋は無い?

先日、友人と食事していたら、韓国は中国とは歴史的に、支配・対立抗争などの特別な関係があり、韓国には中華料理屋が無いでしょうと云われてハッとした。

世界中に中華料理屋があるのに、確かに韓国では、見掛けないな。と思った。

高句麗は、歴史上、確かに確固たる大国で中国との緊張関係が続いていたのだろう。色々な両国の歴史の中で中国への特別な感情が醸成されたのだろうか。

何気なく見逃している事にも、不思議なこと、意味の深い背景が隠されている。

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February 14, 2010

端っこから世界を見る境地、

人生が自分のことで、頭が一杯になって、将来こうして、ああして、世の中はこうあるべきで、など若い頃は、考えることが多かったなーと思う。自分を中心に、全てが回っている人生。

勝負も白黒、ドンドン明らかになり、人生の勝負に疲れて、また意外な展開や伏兵にボロボロになる。

そして、一旦、自分が、そのシーンから退場してみると、それは穏かな、のどかな光景が広がっていたことに気づく。

退場までしなくても、世の中の中心に自分を置かず、頭の中の関心事の中心に自分を置かず、端っこから、そーっと社会や人生を、傍観者のように見て試ると、それは、面白くさえ見える世界が広がる。

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February 13, 2010

地味なジャケットの想い出

私が高校3年の頃、母とジャケットを買いに、大牟田の四山(よつやま)と云う所にバス(西鉄バス)で行ったことを想い出す。

とても地味な色だったが、ジャケットを着ることが大人っぽく感じ、嬉しかった。

でも、そのジャケットは、全く、とても地味だったなー。

「炭鉱の街、大牟田の四山、高校生と母と連れ立って、初めてのジャケットを買い物に行く」か。

"想い出の人生の情景"ではないかと、時々回想する。

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February 12, 2010

「人生で何をを残すか?」など考えず、

「人生で何を残すか」など考えると力みが入り、不自然な人生になってしまうと思う。

「自分を、どう自然に演じ切るか?」と云うのが、力が抜けて、丁度好い。

私は、大自然の一部を表現している存在に過ぎない。私が、何かを残すかなど、不自然・滑稽な考えは止めよう。

大自然は、遥かに雄大で、永遠なる存在。ジタバタするのは止めようと思う。

ただ、自然の中に、穏かに漂うように生きれば好いと思う。

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February 11, 2010

魚釣りの情景

魚釣りの様子を見てると、釣られた魚はさぞ大変なパニックだろうと、いつも思う。

エサだと思って食べたら、針で吊り上げられるとは、なんたるドンデンガエシ。

何かを得ようとして、行動している先に潜む、とんでもない災難。

生物は、何かを食べねば生きていけない。

だけど、静かに生きる為の最小限で良いのではないか?

色々な欲望に任せて、行動してると、魚のように、吊り上げられるリスクは高まる。

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February 10, 2010

年間利用客ゼロの国内空港7ヶ所に唖然

国土交通省がまとめた国内空港の2008年度の利用客データが昨日、日経夕刊に載っていて、驚きの余り、笑ってしまった。

1位は羽田空港約6500万人、2位は成田空港約3000万人、最下位の90位に次の7ヶ所の空港が、何と年間利用客ゼロと記載されていた。

礼文空港(北海道)、弟子屈空港(北海道)、八尾空港(大阪伊丹空港そば)、岡南空港(岡山)、上五島(長崎)、枕崎(鹿児島)、下地島(沖縄)、合計7ヶ所。弟子屈は昨年9月廃止、礼文は昨年4月から休止中と云う。

「そんなアホな、何ぼ、何でも???」、と開いた口が塞がれない滑稽さ。どれか、一つでも、私が旅して、利用客の1人になれば好かったとか、悪のりして考えたりもした。

とにかく、人生には、色んな予期せぬことに遭遇する。いまだに、信じられない。

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February 09, 2010

人格

今朝、日経新聞の投資・財務欄("一目均衡")に、米金融王ジョン・ピアポント・モルガンの言葉が紹介してあった。
「融資の基準は相手の資産や財産ではない。何より人格だ。」

ビジネス界も行き着くところは、「人格」かと、ちょっと意外だった。

重大な選択は、結局、相手の人格を見分ける力だと思う。

例えば、結婚など、まさにそうだったことを知る。若い頃は、まだ未熟で当然だが、人格の向上への意欲がある人か否かを見分けるのが、人生の知恵だったのだと思う。

私は、「人格とは、自分を捨てることが出来る度合い」だと思う。「自分が、自分が・・・」と云う人には、人格のイメージが徐々に消えて行く。

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February 08, 2010

光のスイッチ

光は、身体へのスイッチだと想う。光が人間の身体の60兆の細胞のスイッチを一つ一つ入れて行く。横浜の快晴の朝、光が、徐々に私の身体のスイッチを入れて、私は、今朝、目ざめた。

私は、また、人は自ら光を放つ存在でもあると思う。夫々の人の曇りはあるけれど、人は、確かに、一条の光を放っていると思う。

今朝は、シンガポールで買って来た音楽CDをかけてみた。インド・アラブ系のポピュラーソングが、妙に、新しい気分の朝に似合う。今日、また、いつものように出勤する。「今、ここ」を感じながら・・・・・。

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February 07, 2010

今朝、シンガポールから帰国

今朝、予定通り、1週間のシンガポール出張を終え帰国した。シンガポールの温度28℃から、今朝の成田はマイナス2℃であった。

早朝、機内の窓から見える、オレンジ色の日の出は、何か、宇宙の荘厳さ、凄さを感じさせた。すぐに住職の顔が目に浮かんだ。これが住職が伝えたい世界であろうと思った。時間も空間も消滅する世界。ただ、「今 ここ」を感じる自分が不思議なくらい、嬉しいと云う感覚。

快晴の横浜へ、また、日常とは違った別世界に返って来たように思う。

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February 06, 2010

10歳年下の弟の凄さ

10歳年下の弟だが、凄いと思った。母が亡くなる数日前に、病院から、母を抱いて、自宅へ連れ返って来た時。

母に、自宅で死なせて上げようと思って、制止する病院側を抑えて、タクシーで、意識の無い、母を抱いて連れかえった。弟は、母の死を悟ったから、毅然として、母を自宅へ連れて返って来た。

当時、私は、仕事では自信のある、会社では働き盛り・分別盛りの副部長であった。しかし、このような、大切な、母への優しい行動が、出来たであろうかと、弟が、とても偉く思えた。

母から、私よりも、もっと可愛がってもらったであろう弟が、母の死を目前に悟った時の行動は、もはや覚悟が出来ていた。その時の弟は、神々しかった。10歳も年下の弟なのに。

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最後まで残る聴覚の想い出、母との別れ

人間が死に際して、最後まで聴覚は残ると云う。話せ無くなっても、耳は聞こえているので、死に際して、嬉しい言葉をかけてやれば良いと云う。

私は、母の死に際して、相変わらず、ひょんきんなことをしゃべっていた。数日間、東京から会社を休んで九州へ来ていたので、一旦東京へ帰るよと、昏睡状態の母に云って、大牟田駅から博多行きの特急に乗った。

博多まで約1時間の特急電車の中で、このまま、死に際した母を置いて、私は仕事へ東京へ帰る事が、人生で、何か大きく、優先順位を取り違えているように感じ、博多に着くや否や、また特急電車で、大牟田へ引き返した。実家へ引き返し、母の枕で、母の手をとって、「また帰って来たばい」と云って、その1時間後に母は他界した。

母は、ずっと私の行動、言葉を聴いていたのだと思う。一旦東京へ帰ろうとした私の行動が、母はどんなに辛かっただろう。別れが辛かっただろう。その後、私が、また帰ってきて、「母ちゃん、また来たばい」という声が、どんなに嬉しかっただろうと思う。一旦東京に帰ろうとした私の行動が悔まれ、そしてかろうじて正気を取り戻した私に、責めてもの救いを感じたり、そんなことを想い出す。

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February 05, 2010

塩クジラ、呉汁

私は、育った九州の実家で、子供時代によく食べ、好きだったものに、「塩クジラ」と「呉汁」がある。

ずいぶん長く、食べてなかったが、最近、九州に帰った時、塩クジラを買って横浜に持って来た。呉汁の元も、確か、横浜駅前の物産店で買って、久しぶりに食べてみて、とても懐かしく、嬉しかった。

呉汁は、今度、大豆をすり鉢で摺って、自分で作ってみようと思う。

塩クジラは、私が東京の大学から帰省する度に、父や母がいつも忘れずに、食卓に用意してくれていた。

塩クジラと呉汁は、両親との想い出。

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February 04, 2010

「100万本のバラ」のシーンから、

100万本の花を、恋した人に捧げたいと云う歌は、私にとって、とても好きな歌の一つである。

この100万本のバラを捧げたい人とは、希望が叶う訳でも無く、一人寂しく歌う結末に、私は、人生の深い味わいや、人生への啓示、人格の向上のきっかけとなる気づきが、生まれて来るようにも思う。

もし、100万本のバラを捧げて、ハッピーエンドに結ばれて、細かいすれ違いを経て、その時の感動を、憎たらしく想い出す事になったとしたら、100万本のバラは、もはや喜劇の勘違いソングになってしまう。

悲劇と、世に云われる事は、決して単なる悲劇では無く、人生を輝かせてくれる、感動的な人生のための舞台装置のようなものだと思えば好い。悲劇も、成熟した人生には、決して悪いことでは無い。

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February 03, 2010

何歳の自分にでも、自由自在

私は、何歳の時の自分にでも、自由自在に返れるし、なれると、内心思う。

2歳の頃、10歳の頃、20歳の頃、40歳の頃など、勿論将来の年老いた自分にも。

それは、私と云う魂、"エネルギー体"として、私を捉える様な感覚が芽生えて来たからだと思う。

時間の変化には関係の無い、"私"と云うエネルギー体が、その年々に、色々な形態を見せる。

たぶん人生は、そんなことだろうと想う。

"エネルギー体"は宇宙の存在の一形態。「生ぜず、滅せず」の宇宙的存在の一形態かと思う。

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February 02, 2010

マハトマ・ガンジー、「七つの大罪」の感動

最近、鳩山総理が引用した、マハトマガンジーの「七つの大罪」について、調べて感動した。

鳩山総理は、「労働無き富」と施政方針演説に引用すれば、すぐ野次られることは承知の上だったことを知った。副官房長官が、「労働無き富」と云えば、それは貴方だと非難・野次が飛びますから止めた方が良いと事前に進言したそうですが、鳩山さんは「ガンジーが云ったことが間違っているんですか?」、私は野次られても良いです。とキッパリ云って、壇上に上がったそうです。鳩山総理は個人的には好きなタイプではありませんが、人間の神の部分を垣間見ました。

それにも増して、七つの大罪のの他の項目にも感動した。「犠牲無き信仰」「良心無き快楽」「人間性無き科学」「人格無き教育」道徳無き商業」「労働無き富」「理念無き政治」の七つでした。「犠牲無き信仰」には、特にジーンと来ました。

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February 01, 2010

ブランド品への懸念

私は、海外出張の度に、娘に、何か欲しい土産あるか、必ず聞く事にしている。娘に土産を買って来るのは、楽しみでもある。

だが、時々、小物なのに、ブランド品の写真をメールで送って来て、これを買って来て欲しいと云う。

私は、娘が、ブランド品を求める嗜好は、ちょっと心配をする。

若者は、外見にこだわるのかな?、人間の魅力は、身に付けたブランド品で測るのは、薄っぺらに思えてしまう。内面に自信を持てるように、人格を高めるのが先決で、ブランド品嗜好は、ちょっと、父親としては、意見を云いたくなる。

今度、二人で飲んだ時に、それとなく話そうと思う。

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