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January 31, 2010

吉永小百合さん的、生き方

一昨日、吉永小百合さんが、TVで「おとうと」と云う映画について、インタービューで話している番組を見た。

彼女は、JR東日本の大人の休日クラブのポスターの一人旅がとても似合う。彼女は、一人でいても、寂しさが漂わない、一人の成熟した人間の魅力がある。

誰か頼るべき人を求める様子も無く、誰か大切な人を失う恐れを持っている様子も無く、ただ、淡々と、自然に自分の生命を咲かせているように思える。

誰かが居ないと幸せになれないと云うのでなく、ただ、「私を、淡々と生きる」ところに、彼女の花がある。

悲しさに沈まず、嬉しさに驕らず、ただ静かに、自然界の一部のように、穏かに生きている人のように思える。「まさに、野に咲く小百合ではないか」と思う。

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January 30, 2010

時折の海外出張、明日からシンガポール

明日、早朝からシンガポールへ出張に出発予定。アラブからの出張者と合流、アジアの顧客との石油製品の価格交渉。2月7日(日曜日)帰国予定。

成田エキスプレス、航空会社のラウンジ、海外のホテル、海外の友人達、時折の海外出張は、生活にメリハリがついて好い。仕事は、早めにスムーズに終わって、なるべく一人になれる時間があればと願う。

静かに、一人、もの想いに耽りながら、シンガポールの街を歩きたい。

ブログの記事は1週間分、考えておいた素材を下書きにアップしておいて、現地のインターネットから掲載しようと、いつも海外出張時にやっている手法を準備して出発します。

今日は、洗濯をして、書類・荷物など、出張の準備に専念。昔、海外を飛び回っていた頃を、想い出す。

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January 29, 2010

7ヶ国語でも、人間の方言と考えれば

宇宙人から見れば、地球上の人間のしゃべる言葉は、英語とか日本語とか区別なく、「人間語」と云う一つの言語と聞こえるかも知れない。韓国語、中国語、フランス語、スペイン語などは、単なる人間語の方言に過ぎない。

鹿児島弁、東北弁のように、世界の各国の言葉を考えたら面白い。

7ヶ国語の勉強など考えれば、気が遠くなる難業と思うが、単なる方言への理解と思えば、気楽に関心が持てる。

ヒッポクラブで知った、語学に対する革命的考え方の一つ。

今朝もTVで、アラビア語、イタリア語の講座を、バック・グラウンド・ミュージック代わりに聴いた。

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January 28, 2010

「社会的包摂」、人との精神的な繋がりの志向

昨日朝は、早朝6時半に家を出て、大手町で8時から、経済産業省の審議官の朝食勉強会に出席した。

色々な政策テーマを聴く中で、「社会的包摂(ほうせつ)」と云うテーマが、これからの産業政策の一つとして、議題に上っていることに、ちょっと、驚きを感じた。現代社会の人間の心をテーマにした考えであり、役所もその様なセンスもあるんだと、ちょっと嬉しくも思った。

高度成長、世界第2位のGDPの先進国になった日本が、今、何か精神的に求めているものがある。それは、孤独との戦いのような、人との繋がりをどう取り戻せるかと云う、命題のようなものではないかと思う。

昔、貧乏の象徴だった"長屋暮らし"は、個を保ちながら、同時にトイレ・炊事・風呂は集団生活。それが、案外、贅沢な生き方だったのではないか?とか私は、内心考えながら、この「社会的包摂」と云う、耳慣れない言葉を聴いた。

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January 27, 2010

元バックパッカーさん達からの近況メール

昨年秋、娘と4人で、六本木でカラオケを楽しんだ英国のバックパッカー女性から、無事、英国帰国報告のメールが昨日、届いた。9月にインドで会って、11月に六本木で会って、今、やっと本国へ帰国、これから仕事の社会に入ると云う。早速、その時に撮った写真を送らなきゃと想い出した。

また、昨日は、偶然もう一つ海外からの嬉しいメールが届いた。ノルウェーの友人の娘さんが、今、会社を半年休んで、ニュージランドとか諸国の山々を旅している写真をメールで送って来た。彼女は2006年春来日時、小田原の妹の家、名古屋のいとこの家に、短いホームステイに案内し、楽しい旅を一緒にした。

二人からのメールは、早速、私の娘にも今朝、転送した。

何だか、こんな、メールのやり取りが、世界とつながっていて、そして、同時に娘の友達と話していて、嬉しく想う。

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January 26, 2010

酢の効いたチャーハンの想い出

九州の実家で、飲食店をやっていた頃、母は稲荷寿司が売れ残ると、その稲荷(油揚げ)を剥がして、ご飯の部分を再利用しチャーハンを作って、我々子供達によく食べさせていた。

稲荷寿司だったが故に、酸の効いた、ちょっと硬くなったご飯が、チャーハンになった時、決して美味しくはなかったが、その味が、何故か懐かしい。ケチャップを一杯かけて食べたっけ。

そんな生活が、何だかおとぎ話のように、人生の、子供時代のメルヘンへ誘ってくれる。

あの味が、わかるのは今では、妹や弟だけだろうか。兄弟・姉妹の幸せな仲間意識の証。酢の効いたチャーハンの想い出。

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January 25, 2010

子供が、ただ食べる様子だけで嬉しいと云う気持ち

両親の離婚で、幼くして、母と離れて暮らすことになった住職が小学生の時、母が隠れて、小学校に訪ねて来た時の話を想い出した。授業中だったが、門の外で待っている母のもとへ、すぐ行くように、担任の先生に云われ、母に会って、近所の飲食店に入ったとのこと。

「そこで、うどんか何かを食べさせてもらったが、母は、何も食べずに、ただ私を見ていた。食べ終わると、またポケットから何十円かを出して、もう一杯食べるかと聞いた」とのこと。「母は、お金が無く、僅かなお金を全部出して、私が食べるのを、ただじっと見ているだけだった。」と、住職から聞いた。

子供が、じっと食べている様子を見て、親として、ただ嬉しかったのだろうと思う。それが、住職と母の最後の面会だったのだろうか。

私が、何かを一人食べている時、私の母はただ、じっと私を見て、嬉しく想ってくれているだろうと、今でも想う。

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January 24, 2010

遠慮の美学

「遠慮」って言葉には、自分の欲を品格で抑えるようなイメージがある。

ちょっと寂しさを感じながらも、うつむきかげんに、「もう、いいんです。」と云う抑制。

何故、このような、生き方に、人間としての美を感じてしまうのだろう。

それは、「貪欲」の対極にあるからなのだろうか。

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January 23, 2010

修業の意味

人間は、あるエネルギー体である。何世代も前からも、今まで蓄積して来た、印象・気分の総合計、カルマ(業、執着)の総体と云う。

もし、人生が、三毒(貪欲・怒り・愚痴)に溢れた印象・気分に包まれたら、地獄の苦しみ。

死んでしまったら、もはや理性でそれらに対抗することは出来なくなり、それらの強烈な印象・気分に、身体ごと持って行かれてしまうと云う。

自分が先祖からも受け継いで、蓄積して来た印象・気分を、生きている間に、修業により、浄化・高揚させるところに人生の意義がある。死んでしまったら、ただ、その、印象・気分の強烈な渦潮に飲み込まれて、更に、新たな生命を得て、生まれ出ると云う。

生まれ変わり、死に変わり、一つのエネルギー体は続いて行く。

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January 22, 2010

毎日、5000勝0敗の勝負

昨年9月の中川恵一東大医学部教授の講演録を読んで驚いた。

「癌細胞は1日に約5000個誕生し、リンパ球が、その癌細胞を異物と判断して、その都度殺している。免疫側から見れば、5000勝0敗の戦いを毎日続けているお陰で、取り合えず私達は癌になっていない。」

「人間の60兆の細胞の1%に当たる6000億個の細胞が、毎日死んで、生まれ変わっている。」

その死ぬのが当たり前の細胞が突然変異で死ななくなってしまうのが癌細胞。死ななくなった細胞が増殖して、人間と云う個体を滅ぼすのが"癌による死"と云うこと。

人間の身体の壮大な営みに驚嘆。毎日の5000勝0敗の戦いが、我々を健康に生かしているのかと、ちょっとヒヤヒヤもする。免疫力の大切さを想う。

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January 21, 2010

時に弱く、貧しくとも、

人と人と繋がっていられるには、適度に弱く、貧しくなければならない。強く、裕福な人は必ずしも幸せではないと思う。

弱くなければ助けられない。

弱く、貧しくなければ、助けられた時の幸せを味わうことが出来ない。

時に、弱く、貧しくとも、人間には、寧ろ幸せへの隠し味。

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January 20, 2010

大人になったら、したい旅。

私は、駅で旅のポスターに惹かれて、時々立ち止まることがある。

吉永小百合さんの一人旅のポスター。

「例えば八戸の横丁を歩く。幾つもの露地に、小さな店がぎっしり軒を連ねる。初めて聞く言葉や、初めて会う人達。旅の想い出は、意外と、こんな、ちょっと横道へ逸れたところにあったりするものです。」と書いてある八戸の横丁。

大人になったらしたいこと。自分の生きて来た人生を、キョロキョロと眺める旅。子供としての目、大人としての目、そして心の中の両親と一緒の旅、人生への圧倒的な感謝の旅、時々、駅で旅のポスターを見ると、そんな気持ちにさせてくれる。

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January 19, 2010

線路を渡る楽しさ、江ノ電・稲村ガ崎にて、

昨日の夜は、友人知人数人の新年会。鎌倉・江ノ電の稲村ガ崎駅下車、線路そばのアトリエ風レストランが驚きだった。

店へのアクセスが、線路を渡るのに、踏み切りではなく、ただ単に、線路を跨いで渡る野生的な渡り方で入るしか方法が無い店。よくTVなどで見るバンコクやフィリピンなどで、線路脇に民家が立ち並び、人々が線路を生活道路のように行き来する情景を想い出した。

江ノ電は昔の、路面電車の路面が、今、線路専用になって、このような家々が残ったのだと云う。

絵画や彫刻などの芸術家御夫妻が、時折、営業されるという店の、アトリエの中の会食は、それはそれは、異次元であった。

それぞれの人には、気のエネルギーがあり、またそれぞれ場所にもそれぞれの気がある。新年を、とても穏かな気持ちにさせてくれる、ご縁の新年会であった。2010年、稲村ガ崎の小さな驚きの発見であった。

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January 18, 2010

指一本の立て方で、修業の度合いがわかると云う

右の人差し指一本を立て、「今ここ」と想う境地を、「一指頭の消息」と云う。

修業が進むと、この指一本立てる情景が、自分の内面に現れると云う。

指一本立ててみると、その指一本の勢いがわかる。解脱しているかも、わかると云う話を住職から聴いた。解脱とは執着無き世界。

「行くも帰るも余所ならず、歌うも舞うも法(のり)の声」、白隠禅師の言葉を想い出す。

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January 17, 2010

世界の貧困層40億人

昨日の日経の夕刊の記事に驚いた。世界の貧困層40億人。途上国で、年間3000ドル(27万円)以下で暮らす人はボトム・オブ・ピラミッド(BOP)と云われ、世界で約40億人もいるとのこと。世界の人口65億人の中の、62%。

年間2万ドル(180万円)以下で暮らす人の数になると、更に14億人が加わり、54億人となる。世界人口の83%になる。日本では、考えられない別世界が、この地球なのだと思った。

自由・平等・博愛など、吹っ飛んでしまう人間社会の強欲・搾取社会ぶりを思った。六本木の2万円のハンバーガーのことを想い出した。

「猥褻なくらいの金持ち」と云う表現は、まさに当を得ている。金を持つことは、寧ろ、人生を罪深く、人間を醜くするとさえ思う。質素な、清潔な生活をしている人の美しさが、際立って心に浮かんだ。

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January 16, 2010

「見つつ、見ず」

坐禅の境地に、「かくの如くに、それを見ない」、「見つつ、見ず」と云うのがある。

目には見えているが、その背後を見る境地が、すごい段階に入っている境地だと思う。

波にとらわれず、大海を見ることと同じ。

ダイヤモンドも石ころも、同じに見える境地。

単純にして美しく、永遠にして、安らいでいる世界。

「見つつ、見ず」、こう考えるだけで、心に心地よい風が吹く。

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January 15, 2010

歴史の一場面の臨場感

今朝の時点で、気になる大きなニュースは、ハイチの大地震、民主党・小沢幹事長疑惑。

ハイチの被害の大きさに驚いた。突然の自然災害と人間社会の関わりを思った。自然界の中に於いては、人間も物も区別は無いことを想った。人間の持つ所有物の脆さを、改めて思った。

小沢幹事長疑惑には、平家物語の栄枯盛衰を想起した。行き過ぎた驕りの反動が、彼には、噴出す時期が来ているのだろうと思う。彼は、自分にしか通じない理性で、社会や人を、むきになって説得しようとするところに、人生に対する哀しいほど大きな、錯覚があると思う。

色んなニュースがある中で、世間の歴史はこの様なことを、淡々と記録して行く。考えて見れば、私は、少なくとも自分の人生分は、色んな歴史の一場面を、目撃していることになる。余りにも臨場感のある歴史への立ち合いに、私は、小さな驚きを禁じ得ない。

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January 14, 2010

それぞれの勘違い、錯覚の芸術

大人から子供を見れば、子供達は何かにとらわれ、何か勘違い、錯覚して見ているようで、それが子供っぽく、可愛くも思える。

宇宙から見れば、それぞれの成人した大人も、そんな子供達と同じような勘違い、錯覚に生きているのだと思う。

人間の五感がその勘違いのもと。それぞれの勘違いが、それぞれの人生の模様を創り出している。

人生は、勘違いの芸術なのではないか。そう思うと、それぞれの勘違いの模様を楽しめる。

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January 13, 2010

韓国の祭日、3月1日

昨日、仕事で、アラブからの代表団の韓国訪問期日設定をワーク中に、3月1日(月)が韓国の祭日であることを聞き、当初案を、大きく変更をせざるを得なくなった。そこで、私は、因みに何を記念する祭日ですかと、韓国の会社の人に聞いた。すると、韓国の独立運動を記念した祭日であることを教えてもらった。後で、ハッと、この祭日の意味は、日本人として、知るべきことであることを直感した。

会社から夜、帰宅後、インターネットで調べたところ、1919年3月1日、日本の統治下にあった韓国で、大きな独立運動へ発展して行ったことを記念する日であることがわかった。インターネットの説明は続いて次のように書いてあった。

「韓国の民族代表33人がソウルで独立宣言書を朗読した後『大韓独立万歳(マンセー)』を三唱し、逮捕された。それをきっかけに、全国各地で『独立万歳運動』が発生し、参加人数は延べ200万人を超えた。多くの人々が、日本によって殺された。独立運動に16歳で参加して拘束された当時女子高生だった柳寛順(ユグァンスン)さん が、監獄の中で日本政府の拷問に耐えられず、17歳で死んだ。死ぬ直前まで決して日本の圧力に屈することなく『大韓独立万歳』を叫び続けた」。

韓国の人は、その17歳の少女・柳寛順(ユグァンスン)のことを忘れない。意外なことから知った、韓国の3月1日の祭日の意味であった。

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January 12, 2010

父親の病気を祈る少女、

昨日、中国・重慶市で、「パパがずっと病気でいますように」と作文に書いた、小学2年生の女の子の話のニュースに、どんな恐ろしいことだろうと、身構えながら内容を読んだ。

パパが病気で家にいる時は、一緒にご飯を食べたり、宿題をしたり、買い物に出掛けたり、お父さんが病気で会社を休んでいると、ずっとお父さんと一緒にいられるからと云うことだった。

パーと、目頭が熱くなり、私の心はうろたえた。その幼い女の子の気持ちを想った。

人生って、なんて、哀しいくらい幸せなんだろうと想った。

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January 11, 2010

箪笥にドナルドダックのシール

私の部屋の整理箪笥には、ドナルドダックやミッキーマウスのシールが貼ってある。

娘が、幼児の頃、私の箪笥にいたずらで、貼ったシールが今もそのまま。

シールを見ると、懐かしい。

私が幼児の頃、実家の部屋の戸棚に七色仮面の絵をクレヨンで描いていた。

クロマニヨン人の壁画のように、その後かなり長い間、その絵は、残っていた。

幼児であった頃の、世界観が面白く、そして愛おしい。

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January 10, 2010

縁起は全て

縁は全てと繋がっていて、布的であると云う。

何か特定の物と縁があると云うより、縁に於いては全てと繋がっていると云うことを、住職から聞いた。

そう考えると、全ては私だと云う、”自他一如”を、近く感じることが出来る。

個としては、何一つ存在してはいないか。ちょっと安らかな気分になれる。

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January 09, 2010

自分の幸せ、他人の幸せ

自分の幸せを中心に考えるならば、親とでもないかぎり、人との繋がりは保てない。

他人の幸せを中心に考えるならば、いつも人と繋がっていられる。

自分の幸せを考えた時、孤独と云う感覚が生まれる。他人の幸せを考えた時、孤独と云う感覚は消える。

物理的に一人でいることや、孤独死などと云う概念と、人と繋がってる精神的な豊かさとは、全く関係は無いことに気づいた。マザーテレサが一人でいる時間を孤独と云うだろうか。

物理的に一人であるかどうかは、どちらでもよいこと。ちょっとスッキリした気分。

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January 08, 2010

家庭内ホームレス

単身世帯でなくとも、家族で複数で住んでいながら、お互いに無視していれば、云わば"家庭内ホームレス"状態。私が考えたジョークっぽい社会批評の造語。

物理的に屋根はあるが、精神的には、野外生活と同じ。月や星が友。

単身世帯が増えているとは云え、この様な家庭内ホームレスも入れれば、かなり多くの人が、孤独かも知れない。家族と一緒に住んでいるのに、異変があっても、すぐ気づかれない例は、滑稽な悲しさ。

家の中で、ダンボールに入って、寝てみれば、寧ろ、滑稽さが際立ち、大笑い出来るかも知れない。

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January 07, 2010

単身世帯、"無縁社会"へ向かう時代の源流

昨日は、たまたま報道で、単身世帯急増中で、2030年、日本の単身世帯数は全世帯の37%に達するとの予想をしていた。このような社会を称して、"無縁社会"とネーミングされていた。

人の助けを必要としない、思い通りに生きたい、気楽な、"豊かな生き方の象徴の一人暮らし"が、年を取るにつれて、"孤独死"を連想させるように変わる。人間の様々な想いの中の"気楽さ"を極端に追求して行く先には、人と繋がっていたい欲求が破壊されて行く。

煩わしい人間関係に慣れて、自分の精神をちょっと鍛えて、いやな人間関係にも耐性をもって、生きることは、生物としての人間の自然の法則なのではないかとも思う。周りに助けを求めることは、人間としてカッコ悪くない、助けたり、助けられたり、煩わしかったり、気楽だったり、色々あって、それが生きることの起伏、即ち楽しさでは無いのだろうか?

私も、実質単身世帯のような生き方なのに、こんな評論をして、我ながら笑ってしまう。

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January 06, 2010

2010年、仕事初めのころ

昨日は今年の出勤2日目、石油連盟の賀詞交換会が経団連会館で昼にあり、私も出席した。久しぶりに、昔の友人・知人との再会があった。時に、予期せぬ再会は楽しい驚きがある。何も食べる暇も無く、会場を回った。

会社終了後、今年初めてのヒッポクラブ例会に参加。ちょっと、初めてヒンドウー語での自己紹介の挨拶をトライした。昨年、インド旅行中、インドの人に教えてもらったヒンドウー語のメモを最近暗記してみた。ちょっと面白かった。

今年も、小さな驚きを感じながら、私の"人生の模様"を出した生き方をしたいと思う。

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January 05, 2010

冬の朝、練炭の想い出

冬の寒い朝、不図、昔の練炭のことを想い出す。

九州の家では、昔、父や母が朝早く起きて、新聞紙に火をつけて、練炭の火を起こして、七輪に入れ、それを掘り炬燵の中に入れていた。時に、私もやっていた。

炬燵に火が入る前は、冬の朝の寒かったこと。顔を洗う水も冷たかったこと。全てが、何かピリッとして、何か懐かしい。

寒い朝は、練炭が懐かしい。あの蓮根のような黒い泥のような円柱。愛おしくさえ想う。

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January 04, 2010

人生の不思議

ある人の年賀状に、"人生の不思議"について、立川昭二氏の著作から引用されて文に、心惹かれた。

「人生の幸せとか安心とかを目標に生きて行くより、"人生の不思議"を中心に考えて行くと、人生が違って見えて来る。今、生きていることの不思議。その不思議を見詰めて生きて行くと、気も心も楽になる。」と。

"人生の不思議"な展開に、キョロキョロしながら、好奇心一杯に生きるなんて、なんて素晴らしい境地ではないかと想う。

2010年は、どんな自然な展開をするのだろう。 周りをキョロキョロ見ながら探検する子供みたいに、周りに広がる世界に不思議を感じながら生きて行きたい。

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January 03, 2010

京都途中下車、2010年の始まり

今年は帰省から横浜への帰りに、京都へ立ち寄り、昨日は初めて、上賀茂神社・銀閣寺へ参拝した。

上賀茂神社では、白馬を見た。神社で、大きな焚き火に暖まりながら甘酒を愉しんだ。銀閣寺は、地味なところが好い。参道の店々の風情を愉しんだり、近くの哲学の小路が好かった。西田幾多郎が哲学を愉しんだ小路と云う。

午後は、太秦の映画村のセットにビックリ。歌舞伎の中村座のセット、池田屋のセット、江戸の町人の家々のセットに、心が浮き浮きした。

ギリギリで、16:35分の新幹線で京都を立ち横浜へ向かった。久しぶりに帰る横浜。2010年の始まり。

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January 02, 2010

正月の小雪

昨日、故郷を出発する時、私が着けようとした白いマフラーを見て、姉が特攻隊のマフラーのようだと云った。私がインドから数年前、ビジネスで取り寄せたリンクルの入った綿のマフラー、特攻隊のようだと云われて、小さな驚きだった。新年を、そのような覚悟で生きれたら好いと想った。

夜、京都へ着くと、京都もパラパラと小雪だった。京都で降りる前、新幹線も京都から三河安城は、減速運転で25分の遅れとのアナウンスだった。正月は、雪か・・・・・。何故か、小雪が、綺麗で、嬉しかった。

昨日、珍しく、2007年、私にハルピンの街を案内してくれた中国の友人(日本在住)から携帯に電話があり、嬉しかった。是非、今年は会いたいですねと話した。母が住んだハルピンへ行けた事、どんなに、私の人生で大切な旅だったことか。

正月、「小雪に、真剣なひと時の輝き」を想った。2010年の正月の私の"心の風景"。

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January 01, 2010

2010年正月、九州・大牟田

明けましておめでとうございます。

昨日早朝、大牟田は、久しぶりに見る牡丹雪。今朝、正月の朝は、細雪。そう云えば、去年の正月の朝も雪だった。

今年はどう生きて行きたいか、「大死一番」の境地に近づきたいと思う。木に、手一本で、ぶら下がった身体で、そのかろうじてぶら下がった手を離せるか?

宇宙に身を任せるとは、そんな境地だと思う。

自分から遠ざかる程、その穏かに調和している宇宙を感じる事が出来る。

修業は続く、それが人生。運命と立命を織り成しながら、私は歩く。

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