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October 31, 2009

「百万本のバラ」への想い

約20年弱前、アブダビ駐在時代、日本人社会のパーテイーで、ある商社の単身赴任支店長が歌った「百万本のバラ」に、私は、いたく感動した。

最近、阿佐ヶ谷ジャズ・ストリートで小田陽子さんの歌を聴き、百万本のバラの原曲は、旧ソ連のラトビアの、「マーラが与えた人生」と云う歌であることを知った。原曲も素晴らしい。

百万本のバラのメロデイーは、哀しさの中に、瑞々しく、生命が輝いているように私は感じる。

「人生がこんなに哀しいのに、海が余りにも碧いのです。」遠藤周作さんの文章を想い出す。

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October 30, 2009

想い出に散りばめられた日々を創る

私の20年弱前のアブダビ駐在時代の知人が、移住先のカナダ・バンクーバーから、たまたま今、日本に旅行で一時帰国されていることを知った。アブダビとは何の関係も無い弟が、仕事で知り合った方が、何とその私の知人の義理の弟にあたられると云う。

私は、昨日朝、その来日中の知人と約20年ぶりで、電話で話せた。カナダへ帰国する前に会食ができるチャンスは11月2日夜しかないことがわかった。私は、大あわてで、約束し、当時親しかったであろうアブダビ時代の同世代の友人へ連絡を取った。即日の連絡で、約15名の同窓会ができそうな展開になった。11月2日夜は、1990年のアブダビが再現する想い出の日になると思う。先週末、11月1日~3日の私の台湾出張がキャンセルになったことも、人生の展開、人の縁を不思議に、また新鮮に思う。私は、そのような、自然の力学に身を任せたような、人生の展開が好きだ。

去年、病気で亡くなった大学時代の先輩の奥さん・息子さんが、仙台から11月末の大学学園祭見学のために上京される。私は、昨日、"はとバス"のナイトツアーのパンフレットを仙台へ郵送した。先輩を偲んで、ご家族に色々東京をご案内することも、想い出の日になると思う。私は、想い出に散りばめられた日々を創る。

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October 29, 2009

マリオ鈴木さんの詩、姉へのクスリとなった

離婚して30年くらいにもなる姉に、ギタリスト・マリオ鈴木さんの詩集「独り言の余韻」を先日送った。昨日電話で、私と同じように感動して読んだと聞きほっとした。

郷里で一人暮らしの姉は、離婚して、別れて来た子供達のことが気になって、ずーっと生きている。病気をした自分を責めたり、子供達との再会を、死ぬ前にもう一度だけでもと願って生きている。

その姉に、両親を知らないマリオ鈴木さんの詩を送ることは、私にとって賭けであった。姉の心を乱し、更に悲しませ、自分を責めさせるのではないかとも心配した。でも、マリオ鈴木さんの詩、命の叫びは、余りにも素晴らしく、私は、姉にも是非読んでもらいたいとも思った。

昨日、夜電話したら、姉が、「心が洗われ、自分の日頃の悩みが、ちっぽけに見えてくるくらい感動した」と云った。素晴らしい詩が、姉の心を浄化したことを悟り、私は、どんなに嬉しかったことか。

人生を変える詩もある。10月4日、たまたま聴いたマリオ鈴木さんのコンサートが、姉の人生に、ちょっとした救いをもたらした。

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October 28, 2009

「いただきますに15秒をかける」素晴らしさ

今朝、日経新聞朝刊の書籍の宣伝に、ちょっと、心に残る表現を見付けた。

心が豊かになる習慣として挙げてある項目の中に、次のような項目があった。

「いただきますに15秒かける」、「お金は自分以外の誰かを喜ばせるために使う」

先日、「言語の脳科学」の講演を聴いた酒井邦嘉先生は、「目に見えないものが好きです」と云う信条をお持ちだと云うことも思い出した。「目に見えないものへの尊敬を忘れない」と云うことも、素晴らしい。

ちょっと、一味違った、精神性に、時折、とても心惹かれる。

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October 27, 2009

「学ぶ冒険」、安藤忠雄さん、養老猛さんの言葉に感動

先日、たまたま「学ぶ冒険」と云うTV番組で、建築学の安藤忠雄さんが云っていた。「成功が年をとらせる」と。ワー、すごいと思った。成功体験は、人間を怠惰に、また深く学ばなくしてしまうことは、確かにと、とても納得した。

解剖学の養老猛さんの言葉は、「ものを考えるには、長い間、疑問を貯めておいて、自分なりの答えを出さなければならない。それが考えることで、安易な回答で考えることを止めてはならない。"学ぶことは、即ち自分が変わること"で、世界が違って見えること」と云うのが、素晴らしかった。

知識は暗記しても、人生には大して役立たない。対象を自分なりに考え抜くことで自分の人生を変えてくれる知恵になっていく。「自分が変わらなければ、学んだことにはならない」。学ぶことの感動は、”人生における新大陸の発見”のようなもの。

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October 26, 2009

自然科学としての言語、酒井邦嘉氏講演

昨日、Hippo Club の行事で、初めて東大駒場へ行った。そこで、初めて、酒井先生の「言語の脳科学」の講演を聴いた。

言葉を自然科学ととらえる考え方が、とても興味惹かれた。母語として獲得したものは、大人が作ったものでは無い。赤ちゃんが作った自然なものと云う考えが好い。「言語に規則があるのは、人間が言語を規則的に作ったためではなく、言語が自然法則に従っているためだ。」と云うのが圧巻。

彼は、物理学、生理学、心理学、哲学など数々の学問に魅せられて、言語学に辿りついている。

「全く違うように見えることの間に、共通性を見出すことに究極の(探求の)醍醐味がある。」と彼は云った。彼は、禅の修業の行き着く世界と同じものを、感じているのではと思った。

私にとって、自然科学としての言語への興味が拓けた。

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October 25, 2009

阿佐ヶ谷ジャズストリート2009

昨日は、阿佐ヶ谷ジャズストリートへ出掛けた。横浜ジャズプロムナード、旭ジャズフェステイバル、本牧ジャズフェステイバルなど、私の楽しみの一つ。運動靴で、気ままに、会場を回るのが好い。

阿佐ヶ谷は、商店街のフェステイバルって感じが、気取らなくて素晴らしい。小さな区民センター、会館、病院、工務店、教会、学校など、如何にも住民の手作りって感じが好い。アーテイストも、色々あって、可能性に溢れている。

"小田陽子とエスタシオン"演奏を聴いて、すぐその場でCDを買ってしまった。スペイン語の"コム・デイセ・ル・ポエット"と云う、底抜けに明るそうな曲に、その裏に、人生の哀愁を感じたり・・・・・。

"峰厚介・フオーサウンズ"と云うのも、すごい顔ぶれの4人だった。ピアノ板橋文夫、テナーサックス峰厚介、ドラム村上寛、ベース井野信義、ジャズ界の巨匠達の共演にしびれた。彼等は友情出演とのことで、還暦前後の悪ガキ中年の友達グループのように見えて、面白く、新鮮に感じた。

阿佐ヶ谷の街は、ケヤキ並木が好い。街中が、ジャズのメロデイーに、溢れていた。

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October 24, 2009

「他人のままで、そばにいて」

新宿の哲学カフェで時々お会いする、作詞家の方が、歌で、「他人のままで、そばにいて」と云う題名の歌詞を書かれたことを、ご本人から聞いた。

「他人のままで、そばにいて」と云う心理は、私は、何故か、素晴らしい表現だなーと想った。

"引っ付き過ぎず、離れ過ぎず"、と云う人間関係は、理想的な人間関係のようにも思える。1日の6万もの想念が去来すると云う、夫々の人間には、一定の距離感覚が無いと、精神の安定は保てないと思う。

肉親のような近い人と、まるっきり縁の無い他人との、中間に属する人間関係に、「他人ではあるが、そばにいて欲しい人」と云う感覚の人がいることは、何か素晴らしい、人間の感情を表しているように思う。

"他人"と云う響きが、"そばにいて"と云う響きに打ち消されながら、人の繋がりの切なさと喜びのミックスしたような、何とも云えない味わいを出している。そんな言葉に出遭ったことを想い出す。

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October 23, 2009

想い出になる東京案内の予感

去年3月、ガンで亡くなった大学時代の仲の好かった先輩の、奥さん・息子さんが、11月、仙台から、三田祭に合わせて上京し、亡くなった先輩の大学時代の下宿のあった街など行ってみたいとの連絡を受けた。

亡くなった先輩は、さぞかし、嬉しかろうと思った。亡くなる数日前、仙台の病院に見舞った私の手を、しっかり握って、特攻隊の別れの場面のように、目で合図して、今生の別れをしたことを想い出す。

先輩の、大学時代のゆかりの地を、色々案内することは、とても嬉しい。武蔵小山の下宿のあった場所、商店街、大学の校舎、好きだった靖国神社もどうかななど、思いめぐらす。

先輩の同期だった人もちょっと声をかけて、数人で、会食する機会もあったらとても好いとアイデアが膨らむ。ご家族に東京を案内することは、私にとっても、先輩の大きな供養にもなると思う。

このような、予期せぬ人生の、展開が、私は大好きだ。生きている実感を感じる。先輩と、冗談云いながら、酒を酌み交わした日々を想い出す。今度、息子さんとも、一緒に飲めるのも、光栄に思う。素晴らしかったお父さんのことを、沢山、話してあげようと思う。

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October 22, 2009

芸術家と云う病い

芸術家に対して、これでもか、これでもかと思うほど、人間の煩悩・執着を描いて、何になると、私は思うことがある。それだけ、バランスを欠いて、生きて、さぞ苦しかろうと思う。

人の持つ煩悩・執着も、バランスを保ってさえいれば、本能として、生きて行くために役立つもの。

相対立する煩悩・執着を、均衡したシーソーのように保っていないと、偏った煩悩・執着は、苦しみの度合いを増していく。自然界は均衡を保とうとする。極端は、均衡に帰ろうとする。

一つの偏った煩悩を、描き尽くしても、それは病的でしかないと思う。

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October 21, 2009

意外な発ガン物質の生成を防ぐビタミンC

風邪・インフルエンザ予防には、ビタミンCとは、もうかなりの人が認識している。そのビタミンCのガン予防効果について、村田晃先生の著書「新ビタミンCと健康」(共立出版)に書いてあった。

それぞれ単独で食べても、発ガン物質ではないが、同時(アミンと亜硝酸)に食べると、反応して発ガン物質(ニトロソアミン)になる組み合わせがある。その、発ガン物質の生成を、強力に防いでくれるのがビタミンC。

(但し、ビタミンCは、単独で摂っても吸収率悪く、食事などで他の栄養素と一緒に摂らないと効果が少ない、吸収率が低い)

(1)アミンの入った食品例: (アミンはたんぱく質の分解過程、肉・魚に含まれる):タラコ・スジコ・ヒダラ・イカの燻製・削りぶし・さきイカ・イワシの油ずけ・イカの味付。

(2)亜硝酸の入った食品例:野菜の漬物: 野菜の中の硝酸が漬物細菌の作用で亜硝酸に変わる。ハム・ソーセージ(食肉・魚肉製品):食品添加物として亜硝酸使われている。

意外と、知らず知らずに、このような組み合わせは、日常、気にせず食べがちで、即ち、発ガン 物質の生成を、平気で放置している可能性がある。万一、そのような組み合わせをうっかり食べた場合でも、発ガン物質の生成を、ビタミンCで防ぐことも大事。

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October 20, 2009

感謝と云う武器

どんな強力な敵、どんな悲惨な境遇にも立ち向かう武器があったことに気付いた。それは「感謝」。

あらゆる事象との出会い、打撃・衝撃は、何かを訴えている。そんな事までして、神が私に伝えようとしているメッセージは何かと思えば、感謝が湧いてくる。

感謝で立ち向かう時、戦況は一変する。感謝は、人生の最終兵器のようなもの。

感謝で武装した人生は、余りにも力強い。憧れの不滅の帝国。

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October 19, 2009

利他遺伝子からのメッセージ

自分の為にと生きる時、人は孤独の世界に吸い込まれて行く。人を助けた記憶の無い人は、人に助けを求められない。

宇宙の成り立ちは、個としての存在は無く、全てが関わり合って、作用・反作用の反応の全体のつながりの中で存在していると思う。個体の幸せを追求する本能・遺伝子と、他を助ける本能・遺伝子が両立して、生物には組み込まれて宇宙は成り立っていると思う。

個としての幸せを追求して行く時の、あの空しさは何か?個の幸せの追求は、他から孤立を深めて行く。

あらゆる生命に組み込まれた利他遺伝子は、空しさを通して、宇宙の調和のメッセージを知らせている。

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October 18, 2009

生物の定義、自然界の三つの力、奇妙な一致

古代インドのアーユルヴェーダ(世界の医療体系に影響を与えた科学的思想)では、自然界には、三つの力があると云われている。(1)創造力:新しい生命を誕生させる力、(2)保存力:誕生に必要なものが貯えられている、(3)変形力:保存力を創造力に変える力、

高校の教科書に、生物の定義とは次の三つ、(1)自己増殖能力、(2)自己の個体維持能力、(3)エネルギー交換能力。この三つが揃えば、それは生物と云われる。人間の60兆の細胞も一つ一つが独立した生物と云われる。

私は、最近、アーユルヴェーダの本を読んで、高校の教科書の、「生物の定義」と、奇妙に一致していることに驚いた。生物の定義とは、生物が生まれる前の次元の、虚空世界の力と同じ。

住職が云う、"死を越えた、永遠にして安らいでいる世界"が存在しているように感じた。

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October 17, 2009

築地で書生談義も好し

先週は、高知から高校時代のヒッチハイクの親友が仕事で上京した。四国へ帰る前日、新橋駅SL前で待ち合わせて、築地へ行った。彼に、初めての築地を案内した。そして、昭和30年代のような築地の居酒屋で一杯飲んだ。

店の人に、この鯖はどこから来たですか?と彼が聞くと、「海です」っと云うのも好かったなー。

私は、インドの旅の事、座禅の哲学の事、九州の戦国時代の事、最近知ったマリオ鈴木さんの詩の事など、高校時代のように、熱っぽく話した。彼も、高校時代のように、共鳴してくれた。彼は、私より20年くらいも前に、逗子のヴェーダンダ教会にも行った事があり、彼もヴィーベカナンダの講演集を読んでいる事を知った。

ガンジー、タゴール、ロマンローランなども絶賛したと云う、ヴィーベカナンダの哲学。私が住職から学んでいる哲学に彼も惹かれて熱心に何年も前から勉強している事が分かった。

築地の後、彼に、歌舞伎座前を、外から案内しながら、夜の銀座を通って、有楽町駅まで歩いた。夕立のような雨上がりの銀座の灯りが、想い出の日を彩った。

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October 16, 2009

「貪り、愚痴、怒り」人生の三大悪原因、それと「自由」との関連

10月13日の新宿・哲学カフェのテーマは「自由」に就いてであった。その時、交わされた議論を経て、私が、今日、整理した境地は、次のような新たな気づきであった。

自由とは、思い通りになる事、即ち、自由とは「貪り」の温床。これには中庸で、ブレーキをかけないと人格も人生も破壊される。

不自由とは、思い通りにならない事、即ち、不自由とは「愚痴」の温床。これには、努力で、ブレーキをかけておかないと、人格も人生も破壊される。

予期せぬイヤな事には「怒り」が湧き、予期せぬ好い事には大きな「喜び」を感じる。「怒り」には学びで応じ、「喜び」には、感謝で応じるのが好い。

自由は、意外と、人間を陥れる、「貪り」の入り口だと思う。適度な不自由がブレーキとして如何に大事か、今は改めて感じる。自由を求めつつも、適度な不自由も楽しむ境地が、人生の達人だと私は思う。

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October 15, 2009

電柱に登る女

一昨日行った哲学喫茶、昨日の高知からの親友の上京など、書きたいことが沢山あったのに、昨日の朝の、「電柱に登る女」のニュースに唖然とした。

中国武漢市で、ギャンブル好きな夫が27万円当たったのに、妻に一銭もくれないことに怒った妻(40代)が、怒りの余り、電柱に登ってしまったと云うニュース。

爆笑。何だか、猿を想い出して、・・・。怒りの表現に、電柱に登る行動がすごい。

さぞかし、口惜しかったのだろう。どこに激しい怒りをぶつけて良いか分からず、電柱に登ったのだろう。片手で電柱に抱きつき、片手で拳を天に突き上げたのだろうか?

通勤途上、電車の中で、思い出す度に、笑いを堪えるのに大変だった。本人には、申し訳無いが、動物的な本能の表現の可愛らしさ、笑いの天才ぶりに、降参。

吉本興行は、こんな人を即、スカウトすべきだ。

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October 14, 2009

東京オペラシテイー初訪問、男性合唱団コンサート

一昨日は、知人の紹介で、初めて男性合唱団(東京農大OB)"コール・ファーマー"の演奏を聴きに行った。コーラスも、全体として一つの人格のような調和が、心地よく、新たな魅力を感じた。ちょっと、「自他不二」の禅の世界にも通じるような、荘厳な気持ちにもなった。

東京オペラシテイーは、巨大でまた美しい最新の文化施設で、驚いた。今年の夏、書道展を見に行った六本木の新東京美術館にも、その規模の大きさと、最新の高級な建物に驚いたが、このような高価な建築物が次々と出来る現代の豊かさを思った。それは、現代の貧しいワーキングプアーや、増加する低賃金の派遣労働者のことと、奇妙な社会のアンバランス、コントラストを感じた。

初台のオペラシテイー13:30に行く前に、ちょっと先の笹塚駅に初めて下車して探検してみた。笹塚10号通り商店街と云うのは下町っぽく、新宿の高層ビルとのコントラストが、面白く、情緒を感じた。たまたま入ったレストランで、隣の席の、母と20代らしい娘さんとの会話も心地好かった。

笹塚の商店街、初台の東京オペラシテイー、男性コーラスの美、これらが、その日、私の求める"小さな驚き"を運んで来てくれた。

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October 13, 2009

「New Voyage」「新しい航海」

そう云えば、今年の横浜ジャズプロムナードのテーマは"New Voyage"と書かれていた。何故か心惹かれる言葉の響きであった。

毎朝、夜の明けぬ、暗い内から出航準備をして、今日の海を往く。人生を考えると、「そうだなー」と、うなずく。

毎朝、新たな水平線を見て、夕べに、街の灯りを頼りに帰還する。一人の航海でも、生きている実感を感じる時間。

私は、私の人生のCaptain、船長であったことを思う。豪華客船のような船のかっこいい船長ではなく、小さな漁船の、職人のような、親方のような船長。今まで、無我夢中で操船して生きて来たことを思う。

憧れは、日に焼けた、上半身はだかの、海の男のような、船長でありたいと思う。そして、海もまた、神の手の平の上と思う。

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October 12, 2009

2009年・横浜ジャズプロームナードの頃、

昨日は毎年行ってる、横浜ジャズ・プロームナードに出掛けた。快晴の中、運動靴を履いて、山下公園付近や、みなとみらいの会場を、気ままにジャズのハシゴをして周った。道の脇にはベンチが並ぶ、海の見える歩道を歩きながら、この場面は、人生の大変な幸せなひと時であることを思った。

昼から、開港記念館、県民ホール、レンガ倉庫、ランドマークホール、みなとみらいホールと渡り歩き、夜21時に、秋吉敏子さんのピアノで終わった。もう横浜ジャズプロムナードに通って、10年くらいなる。私の、人生の、季節のアクセント。

ジャズプロムナードから帰って、不図TVをつけると、永山則夫死刑囚(1997年死刑執行)の人生を、ドキュメンタリー風に描いている番組の途中であった。極貧への糾弾の書、「無知の涙」のことも知った。どう生きて行くか判断も出来ない子供が、極貧の中で、感じる心理が痛いほど分かった。彼の獄中の心理、精神の変遷は、私が学ぶ、禅の修業にも似ていた。

ジャズプロムナードでは、ミュージシャン達が、生命の喜び・哀しみを歌いあげていた。そして、その日、私は、偶然、永山則夫死刑囚と云う、僧に出遭った気がした。全てが"私"であることを想う。 

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October 11, 2009

波動と粒子、生死問題への示唆

宇宙一杯の波動に放出されることが死。その波動のエネルギーが凝縮して、粒子になることが生。私は、このイメージが大好きになった。

虚空世界のエネルギーが、波動を生み、波動が、時に摩擦を起こして、粒子に変わり、またいずれ波動に返って行くことの繰り返し。

「生ぜず、滅せず」の意味が、分かる。

「生きているようで、死んでいる」、「死んでいるようで、生きている」ことが、波動の存在を感じれば分かる。波動は目に見えないから死んでいるようなもの。その波動が、物質的な目に見える粒子を生みだす。そしてまた、波動に返って行く。波動も粒子も同じもの。

人は、死して波動を残す。どのような色の波動を残すかが、人生の選択。波動になり、粒子になり、ただ続いている。

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October 10, 2009

因縁において、無我なり

貴方が無くなっても、因縁は続く。私とは関係なく、因縁は続く。

「因縁において無我なり」とは釈迦の言葉だと云う。何たる、大安心の境地。

私は、宇宙の現象の一部を映す、小さな鏡に過ぎないことの気楽さ。私の身体は、一つの因縁を乗せる器に過ぎない。

時に因縁は、ガンジーやマザーテレサと云う花も咲かせる。

「因縁において無我なり」、昨日の座禅会での、住職の渾身の示唆。

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October 09, 2009

今、アラブは?

昨日は台風の中、朝から中東協力センターの中東講座を聴講。

NHKの出川展恒・解説委員の中東の政治解説に、イランの核問題の深刻度合いの認識を新たにした。イランの執拗な核開発意欲に比例するように、政治の玄人の間では、時を追って危機は深まっていることを感じた。

中東ビジネス・経済関係の著書も多い畑中美樹氏は旧来の友人だが、久しぶりの再会だった。今でも、月のうち10日程度は中東で過ごす彼の生活の中から感じとる、中東の変化の息吹は、とても面白かった。

テレビ・アラビア語講座(NHK)を5年担当していたエジブト人のアルモーメン・アブドーラさんの講演は、"アラブ人取り扱い説明書"と題した資料も面白かった。彼は日本の特徴を、日本人の持つ"自重"(じちょう)の精神だと見ていることも興味深かった。他人目線の日本人と、自分目線のアラブ人を対比する彼の分析が新鮮だった。

中東に長く関わって来た私も、とっても興味をそそられる、多くの新たな示唆を頂いた。台風の中の、中東講座への小さな旅は、新鮮な一日にしてくれた。

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October 08, 2009

人間が生きていたいと思う条件とは何か

ギタリスト・マリオ鈴木さんの詩の中にある。「人間に、生きていたいと思わせるものは何かと、人間が生きていたいと思う条件は何かと」。その問いを、私にも問うて試る。

目覚めて活動している時の自分の行動の源泉は何かと問うと、「半分は社会の中にあって、こうすべきと云う私の義務感・使命感、そして半分は自分の楽しみ・生きている喜びの体感のため」と思う。夜、寝ている時は、本能が何もしなくても生かしてくれている。

自然界が、その個体を生かし続ける背景は何か?と思うと、精神的には、「ちょっとした使命感と、ちょっとした楽しみ」であった。

それは、人間の60兆の細胞の一つ一つの中に組み込まれた、大自然の摂理のつまった遺伝子からの指令だと思った。60兆の細胞は夫々助けあって、個体を維持し、自己再生・増殖している。

そう思うと、その指令が嬉しくなった。生きる条件とは、大自然の摂理に、ただ身を委ねて従うことだと思った。それは、大自然のままに、云わば「無条件に生きる境地」にも思える。神の手の平の上を旅するような境地にも思える。

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October 07, 2009

気功のもたらす感覚、大安心

気功をやっていたら、不思議な体感を感じた。

身体を通る気の道を感じると、何か身体が、スカスカの、密度の粗い物体のように感じて、結局、虚空世界に漂うような自分の存在を感じた。

それは、一人の人間の身体は小さいながらも、宇宙と一体化した存在であると云う感覚。

座禅で得られる境地と、似ている境地。大安心なる境地。

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October 06, 2009

仏像の表情

前田行貴著、「瞑想のヨーガ」の中に、次のような表現があった。

「心とは、人間の精神作用のもとになるもので、知識・感情・意識の総称である。自分の心から出た波動は、それに相応しい現象を伴って必ず自分の身に返ってくる。この波動が、周辺を変えてしまうのである。

瞑想して一心に仏を思う時、その心は作となり、その心は仏となる。この動的行法が、具現化して仏像として出現したのである。」

仏像の表情に惹かれる所以が分かるような気がした。

静かに、己の出す波動のことを想う。修業への憧れを想う。

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October 05, 2009

中南米の調べ、そして詩、マリオ鈴木さん

昨日は、感動したことがある。ギタリストのマリオ鈴木さんの詩と演奏である。

詩"遠い灯り": 「母を恨むでもなく、父を恨むでもなく、宿命と云う足かせを、天は私につけたのだ。 真っ暗な部屋を 出口は何処かと まさぐりはしても 幼な子に 分かるはずもない。 自分で灯りを ともすしかないことを知らされた幼な子は 一点の針の穴の 灯りでも そこが出口ではなかろうかと さまようのみです 遠い灯りを求めて 」

この詩の朗読の中で、中南米のフォルクローレギターの演奏が流れる。 彼のギターは、その哀愁と生きる力とを、静かに、しみじみと歌いあげている。これは、感動せずには聴けない、精神の奏でる調べであった。

私は、詩集を読み進んで行くと、途切れ途切れに休まなければ、涙で曇って読めなかった。

彼の作品は、自作ばかり。彼は、彼の人生を歌いたく、彼の真実をこの世に残したいのだと思った。彼は、見ることの出来なかった両親を、音楽の中に見出し、彼の詩は両親に語りかけてるのだと思った。昨日のマリオ鈴木さんとの出会いは、何気なく不図訪れた、感動の出会いだった。

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October 04, 2009

「あるべきように、ある」境地

執着が無くなれば、ものが、ものごとが、「あるべきようにある」ように見えると云う。

土も石もダイヤモンドも同じように、あるべきようにある。幸も、不幸も、ただあるべきようにある。存在を差別しない境地。

執着とは欲のこと。変化するものに、執着するのは辛いこと。全ては変化する。

「永遠なるもの」なら執着しても好い。そして、「永遠なるもの」は、執着から解き放たれた時にしか見えない。

全ては、「あるべきようにある」、何と心地よい響きであることか。

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October 03, 2009

早稲田の街の感傷

昨日は終業後、早稲田大学26号館で行われた、中東総合研究所の発表会に出席してみた。

三田線御成門から巣鴨、巣鴨から山手線で大塚、大塚から路面電車の荒川線で早稲田。この行程が、楽しかった。荒川線の大塚は、小説「ノルウェーの森」にも出てくる場面も想い出した。「鬼子母神」や、「面影橋」と云う駅名にも、文学の世界に惹きこまれて行く。

荒川線・早稲田駅から、早稲田大学へ行く道は、八百屋さんに聞いた。道沿いには、学生相手のような飲食店が軒を並べていた。講演を聴くのを止めて、すぐ、店に入りたい気持ちにもなった。

大隈講堂前で、学生に26号館の場所を聞いて、学生との会話も新鮮だった。

講演終了後、私は、今度は、早稲田から高田馬場までの道を歩いてみた。学生の入るような居酒屋で、一杯飲んで、すっかり早稲田を味わった。遠い昔、受験でも来たところ、大学時代、英語会(ESS)活動でも来たところ。

時折見る、銭湯なども似合う早稲田の街、小雨の降る、薄暗い照明の早稲田の商店街を、私は感傷に耽りながら歩き、一瞬、心は、大学時代に返っていた。「田舎の母に電話しなくちゃ。」とか、両親が生きてる時代がそこにあった。

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October 02, 2009

ピーナツの袋、旅の想い出、

娘とインドへ旅した時、飛行機の機内でおつまみに出されたピーナツの袋を、私は、捨てずに、そーっと持ち帰った。

そのピーナツの袋をみると、長く飛行機に乗って、娘と旅したことを想い出す。機内の隣の席に座っていた娘のことを、想い出す。

こんな、小さな、ゴミのようなピーナツの袋が、私にとっての旅の想い出にもなる。将来も、ずーっと、このピーナツの袋をみると想い出す。

私だけにしか価値の無い、大切な想い出の品。

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October 01, 2009

思い通りにならなくても楽な境地、

人は、思い通りになることを幸せと呼び、そのために色々もがき、思い通りになるための方法を得ようとする。思い通りになるための手段が、お金・地位・権力などでもある。

しかし、実際は、そのお金・地位・権力を得てみても、それは、勘違いであったことに気づく。

人の持つ思いが、複雑過ぎて、結局は、そのようなお金・地位・権力などでは、大して役立たなかったことに気づく。

60兆の細胞からなる人間は、それぞれの細胞が、お互いに牽制したり協力したり、バランスの上に成り立っているのだろう。思いも、一つの極端な思いが実現すると、次にまた新たな極端な思いが出て来て、バランスが崩れ、異常をきたしてしまうのだろう。

むしろ適度に牽制された、ブレーキの効いた思いがあってこそ、その思いが放置されてこそ、人は安定し、健全たりえるのかも知れない。極端に思い通りになると、次に大変な展開が始まり、人生はむしろ、危ないのかも知れない。

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