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September 30, 2009

運命と立命、あい半ばする人生

一昨日は、異業種交流の会で、「早期退職の人生の展開」について、私が話す役だった。早期退職とは、どう云うものなのか、改めて、自分の考えを整理してみた。我ながら、一時間くらいが、何と一気に、演奏のように話せて、小さな驚きだった。

私は、漠然とした「人生への違和感・焦り」のようなものから早期退職した。その時の心理が我ながら、今思えば不思議でしかたがない。遺伝子のなせる、時限爆弾のような、運命の行動だったのかも知れない。そして、運命を変える立命に生きる自分も十分に感じる。運命と立命、あい半ばするのが人生。

会社を辞めなかったら、生活習慣病だらけだった私は、もう数年で病気で倒れるところであったと思う。今頃、病床か死だったかも知れない。一方、会社を辞めても、その後の人生の展開・出会いがなければ、死んでいたかも知れない。食育との出会い、禅との出会い、再就職の機会を与えてくれたアラブ人との脚本に書いてあったかのような出会いなど、これらのどの一つが欠けても、私は死んでいたかも知れない。

食と健康については、姉から。禅は、偶然の異業種交流会で講演された住職との出会い、アラブ人は、いとも簡単に、出会ってすぐ採用してくれた。住職の禅を語る姿に、私は両親からのメッセージのようなものを感じる。再就職先のアラブ人は、3年前に初めて会った時、何か、貴方を助けに来ましたと云ってるような、優しさを感じた。会社を辞めてからの人生の出会いは、一瞬の切れ味の出会い。一期一会でも、清々しい、感謝の出会いに感じる。

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September 29, 2009

信州・「無言館」への旅への憧れ

戦没画学生慰霊美術館「無言館」、別所温泉は信州・塩田平にある。私が、旅したい場所を、家裁の調停委員のOB会の秋季バス旅行で10月半ばに一泊二日で企画されていて、私は心が踊った。富岡製糸場、諏訪湖畔の服部美術館もコースに入っている。

まだ会社を休んで、行けるかどうか定かで無いが、以前家裁調停委員を2年半やった私は、調停委員の人達との再会もしたいし、また信州の旅の組み合わせに惹かれる。「無言館」は、静かに人生の意味を自己に問える場所。富岡製糸場も女工哀史を偲ぶ旅。人生の修羅場の調停に関わって来た人達が、このような場所に旅するのは、とても似合うと思う。

別所温泉は鎌倉時代の北条氏が別院として使っていて別所と名前が付けられたと云う、信州の鎌倉。そして、真田の庄に、苦難の中でも勇猛に生きた真田一族のことを想う。諏訪湖畔・服部美術館には、本阿弥光悦の名作茶碗「不二」があると云う。考えれば考える程、心惹かれる旅の組み合わせ。

無理かも知れないが、何とかして、会社を休めないか切望する。


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September 28, 2009

旅の出会いの回想

今回のインド旅行で、シンガポールへ行く飛行機の中で、日本の海運会社勤務のデンマーク人の青年と隣の席になり、彼が勉強中の日本語教科書を見せてもらい面白かった。デンマーク語も傑作で、「おはよう」はグモ、「こんにちわ」はグデ、おやすみは「グナ」「グニャ」。英語を縮めただけ。とても可笑しかった。

カリカットからコーチンへの4時間の列車の旅の中で、同じ寝台車の座席に、バックパッカーの英国人女子大生が2名。座席付近をうろつくゴキブリを、「フレンドリー・コックロチェ」と云って、平気にあしらっていた。私は、いつの間にか、私が感じるインド哲学の魅力を熱心に話していた。一緒に私の娘も、英国人女子大生と共に、私のインド哲学の英語の説明を、驚いたように聴いていた。こんな所で、旅の英国人や娘に一元論を説く自分に、苦笑。

カリカット駅では、ベンチの隣に、インド南部のトリバンドラム大学の先生がいて、ほんの5~6分の会話だったけど、「ヒンドウー教は宗教ではありません。哲学です。経典もなく、教祖もいません。」と教えてくれた。

旅の出会いは、驚きの宝庫。目を真ん丸くする自分がいる。

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September 27, 2009

哀しみの裏打ちされた幸せ

「幸せの根源は、哀しみの裏打ちと見つけたり」とは、私なりの人生観。

哀しみの裏打ちが無いと、幸せは、味を失ってしまう。

裏に哀しみがあるからこそ、幸せの輝きは増す。

哀しみと縁の無い幸せは、無機質な、機械的な幸せ。それは、薄い表面だけの、感動の無い幸せのように感じる。

哀しみは、幸せの、大切な味付けなのだと思う。

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September 26, 2009

映画、「余命1ヶ月の花嫁」

9月18日インドへ行く時、シンガポール航空の飛行機の中で、偶然、「余命1ヶ月の花嫁」を見た。

ヒロイン知恵は、乳癌で死期の直前に、恋人へ密かにビデオレターを作っていた。

「私、約束守れたかな?褒めてもらえるかな?今は太郎ちゃんに、感謝しかありません。太郎ちゃん、初めて会った時のこと覚えています。不器用だけど頑張ってるところがすごくカッコ好かったよ。私は、太郎ちゃんが好きです。太郎ちゃんに、ゴハン作ってあげたかった。太郎ちゃんと、もっと話がしたかった。私は、空の上から、ずーっと太郎ちゃんが幸せになるまで、見守っています。じゃーね。イエイー(Vサイン)」

母もガンで亡くした知恵は、一時自宅へ帰った日、父のそばで寝る時、「お父さん、ゴメンネ。ガンになんか、なっちゃって。」とつぶやいた。「知恵、病気が治ったら、何がしたい?」と父が聞くと、「お父さんと旅行、行きたい。」と云った。

私は、涙が込み上げ、機内の隣の席で眠る娘の顔を見ることが出来なかった。

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September 25, 2009

インドの光景

インドでは数々の遭遇があった。物乞いは、私が行った所が、大都会ではなかったせいか、思ったより少なかった。、田舎の集落だと、まだ助け合って生きるせいか、物乞いは少ないことに妙に納得した。

町の駄菓子屋で、娘が、中東でよく子供の頃食べた玉子型のキンダーサプライズのチョコレートを見つけて、娘はいたく感動していた。その店の前で、中年女性の物乞いが私に近ずいて来た。私は、10ルピー紙幣(約25円)を手渡して、思わず合掌した。物乞いも同時に、お互いに合掌した。店の前で、物乞いと立ったまま合掌した。私は、この人に、この世で、この様な物乞いの役をさせて、申し訳ないと云う気持ちが湧いてきて・・・。

車でベンガルの山々の道を走った時、一面の茶畑を見た。野生の猿が、道路脇に沢山いた。猿は凶暴ではなく、行儀よくものをねだった。山々では、九州でよく聞くワシワシ(クマゼミ)の声も聴けて驚いた。牛や水牛は、いたるところで沢山見掛けた。山道では、以前野生の象も出て危険なので、夜は閉鎖されるとも聞いた。

私が見たインドの光景。これも私が送っている私の人生の光景であることが、何故か嬉しく、小さな驚きの発見であった。

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September 24, 2009

インドの凄さ、人生の旅

インドへの旅から無事、昨晩帰国しました。6日間の旅が、6ヶ月のようにも感じる。6年のようにも。

先進国からみれば、大変遅れた、貧困と喧騒の国だった。貧しさや、貧富の差や、カースト制なども、身をもって、感じられた。

だが、私が感じたものは、人生の喜び、素晴らしさだった。インドは思った通り、精神の国だった。物質文明の対極に存在する、堂々たる、荘厳なる精神の国であった。

貧しくても、子供たちの目が輝いていた。あの、美しい目の輝きは、随分見ていなかった気がした。遠い遠い日に見たような、懐かしい目の輝きだった。

私も娘も、毎日、小さな驚きに、お互いに驚きを語り合いながら、一緒に、目を輝かせて、インドを旅した。さすが、インドだと、ただ、ただ感動だった。

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September 23, 2009

身近な悟り

私は、悟りは、修業に修業を重ねないと得られないものではないと思う。悟りを邪魔しているのはエゴ。

日常の中でも、自然の美を見て、うっとりする瞬間は、我を忘れて、その時は、エゴもへったくれも無い。

その様な、我を忘れる瞬間が多くなった人が、世に云う、"悟りを啓いた人"と云うのだと思う。

悟りは、誰でも身近に感じる瞬間がある。ただその、悟りの時間の面積が大きいか、小さいかだけの問題だと思う。

悟りは、とても身近なもの。

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September 22, 2009

芸術家の哀しみ

芸術とは、共感することにあると思う。同じと感じることが芸術の喜び。

それは、人格の向上や完成とは、関係なく、自分の内面を表現すること。

そう思うと、芸術家は、自己表現する喜びはあっても、苦しみから逃れる訳でもなく、さぞ辛いことが多かろうと思った。

表現することは、幸せの第一歩。だが、その表現する自分の内面を向上させる修業の方が、もっと大事なことと私は思う。

世に、不幸な芸術家、精神的に未熟な芸術家の多いことの所以を思う。

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September 21, 2009

仏道川柳

面白い川柳を聴いた。

「幼子の しだいしだいに 知恵づきて 仏に遠く なるぞ 悲しき」ー詠み人知らずー

確かに、人間は成人するにつれて、一時、仏から遠い存在になって、また、後年、仏の道に縁するように思う。面白いプロセス。

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September 20, 2009

生老病死は苦と云われるが、

生老病死は、人生の苦の元と云われるが、その時こそ、道元禅師の「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」の歌が、人生への凄い指針を与えてくれる。

その時、その時に、徹すれば好い。老は若を羨めば苦、病は健康を羨めば苦。それぞれの時にしか味わえない人生の味わい、美がある。選り好みをしてはいけない。全てが揃って故の人生なのだから。

そう思えば、全ての時が、人生の華の時ではないかと思う。「今、ここ」に生きる。

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September 19, 2009

全てのことが、"こっぱ微塵"、法悦

色んな人生の憧れがある。愛する人と幸せに暮らしたいなど。

だが、住職は、その様な喜びも、「法の喜び、宇宙の真理を知る喜びの前では、こっぱ微塵ですね」と仰った。

「法悦の前には、世俗的な喜びなど、こっぱ微塵」。この言葉に、確かに、その様な素晴らしさが、神(宇宙の真理)を知ることの中にあるような気がする。

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September 18, 2009

テノール、滝賢一郎さんの衝撃

先日、テノール歌手、滝賢一郎さんの歌を聴く機会があった。

彼が、美空ひばりの「りんごの故郷」を歌った時、衝撃だった。一挙に、その津軽の情景の中に、引き込まれてしまった。母と二人、畑のあぜ道を歩いているような気持ちにもなった。

彼の声は、歌の前に精神性の高さが、滲み出る歌であった。

彼の、「ロミオとジュリエット」の歌も、イタリアのベローナの中世の街並みが目に浮かび、ただ憐れむばかりの、病むほどの、純愛の世界を感じることが出来た。

素晴らしい歌手の存在に驚いた。


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インドへの旅出発

今朝、初めてのインドへの旅へ出発します。シンガポール経由でインド南西部のコーチンへ。娘とは成田で待ち合わせて、娘との二人で行くインドの旅。

ブログの記事は23日の帰国までの分を出発前に、自動アップをセットして行きます。


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September 17, 2009

平凡な、"人生の大失敗"

誰しも、多い体験だと思うことがある。平凡だが、"人生の大失敗"。

それは、親が生きている間の、親との時間の価値に、十分気付いていないこと。

あれも聴いておけば好かった。これも聴いておけば好かった。こんなことをしてあげれば好かった。こんな話をしたかった。あんな所に連れて行けば好かった。数々の出来なかったことが思い浮かぶ。

平凡な、"人生の大失敗"。

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September 16, 2009

感謝と懺悔

時折、人生を振り返ると、救って貰った人の数々を想い出す。

そして、私が、目の前でも、救えなかった人の数々も想い出す。

不器用な自分の生き方を嘆くことも。

感謝と懺悔。

救って貰った人の数々を想い出す。

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September 15, 2009

悟りへの道、神と我との距離

神と我とを隔てているのは、エゴ。

エゴを一つ捨てれば、私は神へ一歩近づく。神も一歩近づいて下さる。エゴを二つ捨てれば、私は神へ二歩近づく。神も二歩近づいて下さる。

お互いに近づいて、一体となったとき、私も消え、神も消え、ただ宇宙の真理があるのみ。住職の言葉を想い出す。

神と私が向かい合って、一歩づつ、ゆっくりと近づく様子をイメージしてみる。嬉しくなる。

エゴを捨てる感覚は、それは、母の気持ちを想像するのと似ている。「私のことを忘れる境地」、「私は、もうどうなってもいいです」と云う境地。

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September 14, 2009

「時の花」、万葉集の言葉

昨日、朝TVで万葉集の番組をたまたま見た。大伴家持の歌に、「時の花」と云う言葉があり、解説を聴き驚いた。それは、時が咲かせる花のようなひと時を歌っていて、その時、その時の、一期一会的な味わいを詠んでいることを知った。大伴家持が天皇を慰めるために詠んだ歌だと云う。

私は、道元の「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり」と云う歌を想い出した。人生のその時のおりおりに、時の華が咲く。そして、秋は春を羨ましがらず、春もまた秋を羨ましがらず。

それは、時の持つ美学。

生老病死も、時の移ろい。ただその時を、そのものとして、味わえば好い。夫々に真剣な時であり、美しく、また味わい深い。

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September 13, 2009

同郷の画家の個展

昨日、午前中、同郷の友人から紹介してもらっていた、同郷の画家・高田青治展を初めて見に行った。高校時代は、知らなかった同窓の人が、このような素晴らしい画家になっていようとは。驚きであった。

静かに、修業するように、描かれている作品が好い。心地好い静寂を与えてくれる。一人森の中に佇んでいるような感覚にもなる。禅の境地と通じる、世界を感じた。

小冊子には、三池高校時代、私が属した1年8組の担任の先生、鷹尾和敏先生(美術)の言葉が添えられていた。余りにも懐かしい。

高田青治さんの絵を見て、何故か、筑後の画家、青木繁、高島野十郎の絵画も想い出した。

駒沢大学前下車7~8分の、伊佐ホームズのギャラリーと云うのも、不思議な縁であった。伊佐氏は、大学で同じクラスの同窓でもあった。

東京での大学時代の同窓の持つギャラリーに、九州の高校時代の同窓が個展を披いて、両方の同窓である私は、不思議な縁に包まれた。

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September 12, 2009

雀(すずめ)っ子

昔、中東勤務から帰任してすぐ、新子安に1年くらい住んだ時がある。娘が朝、子安小学校に通う時、私も通勤途上、一緒に歩いた。

集団登校の集合場所に小学生達が集まって来る。その中に、「すずめっ子」と、娘と二人であだ名を付けてた子がいた。今でも、付近で、集団登校の小学生達を見ると想い出す。

本当に、すずめみたいなイメージの子だった。娘と二人、今日は「すずめっ子」は、どうしたかなーとか会話しながら歩いた。娘と私だけしか通じない言葉の一つだった。

「すずめっ子」、何か、とても好い響きの言葉。あの時の「すずめっ子」は、今、どうしてるかなー。

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September 11, 2009

アジ(鯵)の無念、イカの無念

昨日、朝食にアジ(鯵)の開きやイカの塩辛を食べた。

通勤途上思った。鯵(アジ)にしてみれば、さぞかし無念だったかもしれないなど。鯵(アジ)が、ある日、群れて泳いでいたら、網にごっそり、仲間と共に捕まって、バケツに入れられ、切り開かれて、干されて、最終的には私と云う人間の食卓にのぼり、ぐちゃぐちゃに食べられて、残りは生ゴミの袋に入れられて、一貫の終わり。何で?と思ったかもしれない。

イカも、捕まって、刃物で解体され、内臓と身体を一緒に漬けられ、標本みたいにされて、保存され、そして、最終的には、私と云う人間に、ご飯にのせて食べられた。何たる無念であったろうか。

気付けば、鯵(アジ)とかイカの無念を、一身に背負って、通勤していた自分。清々しい、一日の始まりと思っていたが、見方を変えれば、このような他の生物の不幸を一身に背負っていた自分に驚いた。

バナナや果物は、食べられて無念と云うより、食べられて本望と云う感じが好い。他の動物に食べられることを前提として、自分の種を保存しているように思う。食べられて、寧ろ、食べた動物に「美味しかったか? ざまーみろ。」とさえ云ってるようにも感じる。

生きることへの気付き。神妙に考える。

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September 10, 2009

「縁(えん)」について

先日、哲学カフェで"縁"と云うテーマで話し合った。その後、縁について、自分の考えを深めてみた。

「雨の一粒、一粒でさえ、落ちるべきところに落ちる」と云う言葉を想い出した。また、「人は逢うべき人には、必ず逢う。早過ぎず、また遅過ぎず」と云う先人の言葉も。

一生に一度だけしか逢わなかった人も、縁が無かった人と云うのか、縁があった人と云うのかは、その人の人生観のなせる技。

自分の方に、引き寄せるのを縁と思っては、世界観が狭いと感じる。寂しがり屋さんだとも思う。

同時代に、同じ日本で、同じ人間として生きてることも、一つの愛おしい縁。

私を離れて見れば、見る程、大きな神(宇宙)の縁に守られているように感じる。ただ、身を任せれば好い。ゆりかごのように。

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September 09, 2009

地味地獄、週刊誌の自民党総裁選評

今朝の日経で、週刊誌の宣伝がしてあって、記事の見出しに思わず、笑った。「自民党総裁選、本命谷垣、対抗石破、華も実も無い"地味地獄"」とあった。

見出しの文章の、娯楽性に、改めて関心。社会面には、「自民バラバラ"学級崩壊"、怒号、大荒れの総会」と、続いていた。

何だか、自民党を、夏休みに遊び放けて、宿題を何も手を付けず、新学期にパニックになってる馬鹿学生みたいに感じた。

民主党も、今後の暗雲は、トンチンカンなゴリ押しの滑稽さではないかと懸念する。未熟な政治家の政策は、権威をかさにかければかける程、滑稽になって行く。

このような、滑稽な政治の後に、ちゃらちゃらしない、新しい政治家の出現を待ちたい。

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September 08, 2009

初めてのインドへの旅、娘との旅、精神の旅

ついに実現の見込みとなった。25歳の娘とのインドへの二人の旅。今度の9月末の連休を利用して9月18日~23日、インド南西部、ケララ州のコーチン・カリカットへ旅する。

中東・アブダビ駐在時代にオフィスのドライバーだったインド人の友人を訪ねる旅。当時、アブダビ日本人学校の小学一年生だった娘は、そのドライバーによく遊んでもらった。

インドは、いつか行ってみたい所だった。今回の娘からのインドへの旅の提案は、娘からもらったインドへの縁だと想う。インドは、貧富の差が激しくて、街中の貧しさとか、観光には似合わない場所かもしれない。

だが、禅の思想の元になったインド哲学の発祥の地を見ることは、私にとっては、大事なこと。一生のうちで必ずやらねばならないこと。人間社会を知る衝撃の旅になるかもしれない。人生を知る衝撃の旅になるかもしれない。

娘との二人の旅も、忘れ得ぬ人生の旅になると思う。インドの、深遠なる精神世界を感じる旅になると思う。

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September 07, 2009

禅の言葉、「喫茶・喫飯」

お茶がでれば、お茶を飲む。飯がでれば、飯を食べる。

人生をそのまま味わう境地。

損得・良し悪し・好き嫌いを消滅させれば、至道無難(道を極めるのは、難しく無い)と云う。

もの事を分別しない。心の作用を止める。五感六識の運転を止めれば、何があるのかと、神秘に包まれる。

父母の未だ生ぜざる世界の奥の奥、虚空世界を思う。名称と形態なき、虚空世界。永遠にして安らいでいる世界。

心の作用を止滅することが、禅。宇宙のリズムと共鳴・調和する。

「喫茶・喫飯」、人生はかくありたい。

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September 06, 2009

思わず合掌したくなる気持ち

全ての人が、何か宇宙の真理を、色々な形で伝えていると思うと、思わず合掌したくなる。電車の中の人々にも。それぞれの人が、宇宙の真理の、小さなある部分を強調して表現している。

全ての事象も、同じ。

余りにも、リアルに、それぞれの役を演じていることに敬服する。

そして、それらの万物の事象が、集まって、この宇宙は、永遠に、調和して存在している。

思わず、合掌したくなる。

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September 05, 2009

小さな善行の愉しみ、木枯紋次郎みたいに

昨日、通勤電車の席にやっと座れて、メモに目を通していたら、電車に妊婦さんが乗って来た。私は、ちょっと、気付くのが遅れたが、まだ座れたばかりの席を、即座に譲った。席を譲られた妊婦の方は、喜んで会釈して座った。

そして、私は、恩着せがましくならないように、また照れくさいので、わざと遠くに移動して立った。善行をして、さっとその場を立ち去る、すがすがしさ。「通りすがりの者でござんす」とか、木枯紋次郎みたいに思った。

そして、私は思った。あの妊婦さんは、きっと、「世間も優しい人がいる」と思ってくれただろうと。そうすると、穏かな、元気な良い赤ちゃんが生まれる。それで、日本の将来も安泰だとか・・・。

電車に乗りこんで来て、一瞬、誰も席を譲る気配は無かった中、私が席を譲って、妊婦さんにとっては私が神様に見えたかもしれないと思うと、内心、微笑んだ。大人げなく、クレヨンしんちゃんのように、「それほどでもー」とつぶやいた。

席を譲って、立ったままになっても、結局、気持ち晴れ晴れ。二宮尊徳の言葉、「譲って損なし」を想い出した。通勤電車の中で、一人芝居の大ヒーローって感じだった。好い一日の始まりだった。


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September 04, 2009

「算数・国語・理科・体育」、小学生の響き

明日の予定と言って、「算数・国語・理科・体育」など、つぶやいてみると愉しい。脳裏に、ランドセルも浮んで来る。

学校へ歩いて通った道も想い出す。教科書のにおい。いいなー。

明日の時間割を、適当に想像してみると、また愉しい。「国語・算数・図工・社会」。

今なら、当時の人生は、おとぎ話の世界の中にいたように感じる。メダカの学校だったんじゃないか?とか。

待てよ、今のひと時も、将来、おとぎ話のような世界に感じるかもしれない。


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September 03, 2009

母の失笑の想い出

私が幼児の頃、犬を怖がって、よく裏山から脱兎の如く、駆けて逃げ帰って来ていたと云う。母が何事かと見てみると、それはそれは小さな可愛らしい子犬で、母は大笑い、吹き出したと云う。

私が、何か悪いことをして、母に叱られて、今度から「もうしませんと」云うか?と云われると・・・・、私は、「云うぞ」と答えて、「父ちゃんに云うぞ」と続けたと云う。その時のことを、想いだして、母はよく大笑いしていた。

当時、私は真剣だったのに、今考えれば、私も可笑しくてしようがない。

母の失笑する顔、声を想い出し、私も時々、愉しくなる。 ああ吉本新喜劇の人生。

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September 02, 2009

お金は醤油とそっくり

はっと気付いたことがある。お金と、醤油が似てること。

醤油は、味付けに無くてはならないもの。だがそれは、少量で好い。

醤油だけ集めても、何になる?と思ってしまう。

また、大量にいっぺんに飲んだら病気になる、死に至ることもある。

大量に使う人は、寧ろ下品に見え、品が疑われるし、味が分からぬ人と、内心、馬鹿にされることも多い。

全く、お金と醤油は、そっくりだと思う。

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September 01, 2009

猫も武将、蝉も武将

猫は死が近くなると、どこかいなくなって、人目につかないところで死ぬと云う。何か、武将が、敵の手にかからず、果てるのと似ていると思う。織田信長は、本能寺の変で死ぬ時、誰も入れるなと言い残して、奥の部屋で自刀して果てたと云われる。戦場で死ぬのを避け、戦場を離れ、人目に付かぬ場所で逝く武将のように感じる。

蝉は、思いっきり戦って、敵の前であろうが、戦場の真っ只中だろうが、堂々と戦ってその場で果てる武将のよう。余りにも、なりふり構わぬ、潔い戦いっぷり、堂々たる死にっぷりに、敵も天晴れと心打たれるくらい。戦場で、大の字になって死ぬ。道路で、大の字に転がって死ぬ蝉に、私は、すがすがしささえ感じる。思いっきり鳴いたであろう蝉の声が聴こえてくる。

猫も武将。蝉も武将。堂々たる、腹の座った覚悟の死に方に心打たれる。孤独死だの、寂しい人生だったのだの、騒ぐ世間は、その潔い、堂々たる死など、分かるまい。私は、猫にも蝉にも、共に、右往左往しない、カッコ好い死に方だと感動する。それは、寧ろ、人生が満足であったこと暗示しているかのようにも感じる。

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