「生かされている」では、まだ甘い
8月28日(金)夕方から参加した伊豆・天城山中の座禅道場から昨日午後帰宅した。2泊3日でも、もう3日前は、遠い遠い日のように感じる。
座禅の世界は、質素に慎ましやかに生きることの美、感動を与えてくれる。道で見かける小さな虫にさえ、宇宙の調和を感じ、愛おしく想える。
食事の前、質素な玄米の粥の椀を両手で掲げ、「成道の為の故に、この食を受く」と唱えてから、食べる。最後に、一枚の沢庵を椀に残し、お湯を注いでお椀の中を沢庵で綺麗に洗って、洗った湯でさえ、全て飲んでしまう作法が、私は新鮮に感じる。日常の驕り高ぶった人間の食生活のことを思う。質素であれば質素であるほど、心が落ち着き、宇宙と調和しているように思う。
住職は、禅の真髄を諭してくださった。「生きてるのではなく、生かされている」と感じるくらいは、まだまだ、甘いと。自分への執着の度合いが、まだまだ強いと云う。
「ただ、ある」ことを感じる境地。単純にして、美しい、世界にただ存在するような。「あるべくして、ただある」と云う穏かな境地。個々の生物としての存在ではなく、宇宙としての存在を想う。波ではなく、大海の存在を想う。
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