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August 31, 2009

「生かされている」では、まだ甘い

8月28日(金)夕方から参加した伊豆・天城山中の座禅道場から昨日午後帰宅した。2泊3日でも、もう3日前は、遠い遠い日のように感じる。

座禅の世界は、質素に慎ましやかに生きることの美、感動を与えてくれる。道で見かける小さな虫にさえ、宇宙の調和を感じ、愛おしく想える。

食事の前、質素な玄米の粥の椀を両手で掲げ、「成道の為の故に、この食を受く」と唱えてから、食べる。最後に、一枚の沢庵を椀に残し、お湯を注いでお椀の中を沢庵で綺麗に洗って、洗った湯でさえ、全て飲んでしまう作法が、私は新鮮に感じる。日常の驕り高ぶった人間の食生活のことを思う。質素であれば質素であるほど、心が落ち着き、宇宙と調和しているように思う。

住職は、禅の真髄を諭してくださった。「生きてるのではなく、生かされている」と感じるくらいは、まだまだ、甘いと。自分への執着の度合いが、まだまだ強いと云う。

「ただ、ある」ことを感じる境地。単純にして、美しい、世界にただ存在するような。「あるべくして、ただある」と云う穏かな境地。個々の生物としての存在ではなく、宇宙としての存在を想う。波ではなく、大海の存在を想う。

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August 30, 2009

人生観覧車

私は、人生を観覧車に例えるのが好きだ。徐々に、周りの全貌が見えて来る過程は、人生に似ている。

そして、私は、観覧車の最高地点を、死ぬ時と擬える考えが好きだ。死ぬまで、新たな驚きがあれば、人生の光景は、視界が拡がり続ける。視界が拡がるのは、人生への畏敬や感謝の気持ちに繋がって行く。

高い地点から地上を見れば、何ーんだ、そう云うことだったのかと、地形がスッキリ分かることが好い。痛快でもある。人生の観覧車は、そんなイメージを膨らませてくれる。

今日も、新しい視界が拡がる。

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August 29, 2009

「のりピー」と、「大日如来」

覚せい剤事件の"のりピー"の足にあったタトウーが、"大日如来"を意味する梵字であったことを報道で知った。

そう云へば、暴走族や、堕ちゆく人々が、梵字をよく好むのに、私は、何時も、アンバランスな不思議さを感じていた。でも、今は、ちょっと、彼等が本能的に梵字に憧れる意味が分かる気がする。

何か、得体の知れないエネルギー、衝動に駆られて、人生の軌道が逸れて行く時、深い谷へ墜ちて行きそうな時、彼等は、遠くの天空に、微かな灯りを見上げて、それを梵字に表しているのだろうと思う。

それは、人間の神性の証拠。"のりピー"の犯罪は、厳しく処罰されなければならない。彼女の人生は終わった。だが、私には、彼女の"大日如来"のタトウーには、大変大きな衝撃を受けた。彼女は、自分の犯罪を通して、自身の人生を壊して、人々に何かを伝えたのだと思う。"のりピー"の"大日如来"への憧れは、痛い程分かるような気がする。

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August 28, 2009

「いってらっしゃい」の響き

私が出勤途上、何時も通る駅への小道の脇に、山の上の家に続く急階段がある。その階段を朝、よく小さな箒で掃いている、ご年輩のおばさんがいる。掃除終了後か中休みか、時々、階段の中腹の踊り場の手すりに腰掛けて、穏かに通行人を眺めてらっしゃる。

昨日の朝も、その光景であった。私が、そちらの方に目をやると、何と、「いってらっしゃい」と声をかけて下さって、びっくりした。私は、慌てて、戸惑った感じで、会釈した。

何年も通っている通勤の小道、何度も見かける、階段を掃いてるおばさん。近所の人との立ち話が聞こえた時、確か90代なのに、元気ですねとか、云われてらっしゃったから、たぶん90代なのだろう。その表情は、とても穏かで、ちょっと、私の亡くなった母の面影を感じさせるおばさんだった。

そのおばさんから、突然、予期せぬ、「いってらっしゃい」の声には、全くの驚きに戸惑ったが、即座に、嬉しくて、涙がどっと湧いてきそうだった。そう云えば、何十年も、「いってらっしゃい」と云う言葉を聞いていなかったように思う。

今度からは、朝、通勤途上、もし会ったら、堂々と、「いって来ます」と、云えることを、とても幸せに思う。

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August 27, 2009

ちょっと不幸、微妙な塩加減

全てがうまくいっていたら、こんなに自然は美しく見えただろうか?

幸せが雪崩のように襲って来たら、気が散って、身体も心もふわふわ浮いて、たぶん、充実感すら感じない、病的なハイ状態になるのではないかと想像する。

ちょっと不幸に味付けられると、人生がキリっと締まる。

私にも、ちょっとした不幸を背負わせて貰わないと、世間様に申し訳がないなど思う精神は素晴らしい。

ちょっと不幸を感じながら、大自然に向かい合う時、とてつもなく、大きな人生の美や感謝が湧いてくるように思う。

私には、ちょっとした不幸が一番よく似合うと思うと、益々、人生に対し、穏かな気持ちになる。

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August 26, 2009

頼り、頼られる幸せ、そして巨大な不安

人は、頼り、頼られる人の存在に憧れる。それが幸せのようにも思える。頼る人が、この世から消えた時、頼ってくれる人がこの世から消えた時、精神的に立ち直れない程落ち込むこともある。その後の人生の意味を失うこともある。

配偶者が亡くなった後、悲観し後を追って自死される人の例など思う。また、明治天皇崩御の時の、乃木将軍の殉死、奥様の殉死なども想起する。それは、病的な愛に思える。「頼る幸せ、頼られる幸せ」の中に潜む、巨大な不安におののきながら生きて来られたことだろう。江戸時代の心中の情景まで浮かんで来る。

釈迦は、弟子たちに、「私に付いて来るな」とさとしたと云う。

残された人が、精神的にも自立して生きて行けるように、導くのが大人の愛。いつもくっついて、甘える人間関係は、子供の時の名残。その人が消えても、愛する人に、力強く、明るく生きて行ける術を教えてくれる人こそ、崇高な愛。

私は、母が死んでも、父が死んでも、力強く生きている。「私について来るな」と、愛情いっぱいに、遠くから見守ってくれている存在、それが私に力を与えている。

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August 25, 2009

健康と衣食住で60点、

人生を100点満点で表示してみる。健康で30点、最低限の衣食住の確保で30点、これだけで、もう勝負あり。これのどちらかを落とすと、50点を取れないことが確定。相当に修業をしてない限り、人生の苦しみは増す。

その他のことは、健康や衣食住と比べたら、どちらでも好い、大したことじゃ無い。それなのに、その他のことが、人生の中で、80点や90点を占めるくらい、大きく歪んで見ていることの多いことか?

金が多くあってもなくても大差無し。出世してもしなくても大差無し。夫婦仲が好くても悪くても大差無し。その他のことは、5点や10点の配分で、それだけで、大勢を決することは出来ない。どれだけ足掻いても、満足の行く合格点には、達しない。

そのような100点満点で人生を考えると、日常煩わされる差が、大したことでは無いと思えて来る。棒グラフや折れ線グラフの比較は、基準点をゼロから描かないと、差が拡大されて、人を惑わすのと似ている。

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August 24, 2009

2040年の人口構成に愕然

パソコンソフト、マイツールの会の夏季セミナーに参加して、マイツールを使った人口統計の推計の講演に、驚いた。30年前と、現在と30年後は、完璧に違った社会がそこに存在していることが、まざまざと感じられた。

団塊の世代と団塊ジュニアまでは、ふたこぶ山が出来ているが、団塊ジュニアの子供時代からは、もはや少子化で人口のこぶは無く、富士山のように、団塊ジュニアを頂点に右肩上がりの人口構成化して行く。

そして、団塊の世代は定年を迎えても、日本の社会は、飽くまでも、団塊の世代を中心に動いていく。

多数派(団塊世代)が、小数派に支えてもらうのは甘い。これからは、団塊の世代の、苦難の時代の到来も感じる。

健康と衣食住を甘く見てはいけない。団塊の世代は、健康と衣食住を軽んじたとき、大変なことになってしまう。核家族化、個人主義化を、押し進めて来た、社会は、大きなつけを払うことになる。

健康と衣食住がなんとかなれば、個人主義の気楽さに惹かれる。健康と衣食住を脅かされた時に、初めて個人主義の裏に潜む孤独の怖さに気付く。蟻とキリギリスの寓話を想い出す。健康と衣食住の確保、最優先課題であることを想った。


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August 23, 2009

自分の細胞として人類を眺めると、

一人の成人の細胞は60兆個の細胞からなる。この60兆の細胞と、世界の人類65億人を、同じと想定して試る。

道を歩く通行人を見て、あれは、私のガン細胞だとか、あっ善玉菌だとか、あれはどう見ても悪玉菌だとか、連想して見ると、結構楽しめる。あれは胃の細胞さんだな。ありゃ、心臓さんじゃないかなとか。

いずれにしても、全てが自分を構成する細胞なんだから、暖かく見守らなければと思う。それぞれの役割、ご苦労さまと思う。

65億の人間が、ガヤガヤ騒ぎながら、一つの生命を維持している。それと、私が、同じような存在と思えば、全ての細胞、人々が愛おしくなる。

私は、「みんな、持ち場で頑張れ!」と、内心、気合いを入れてやったりする。

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August 22, 2009

中学生は「お玉じゃくし」

昨日夕方、会社帰り電車の中で見かけた中学生の女の子達の集団が、何だか、「お玉じゃくし」のように思えて、可笑しかった。

私は、「お玉じゃくし」は、子供時代に山ほど見て来たし、成長して行く様をよく観察していた。

中学生の女の子達は、子供から成人へ向かう中間的存在だから、何だか、カエルになる前の「お玉じゃくし」みたいに見えて可愛かった。如何にも過渡期って感じで、どっちつかずの不安定さ。しかしそれは、健康的な成長過程でもある。

人間も、カエルみたいに、同じように、形態を変えながら、生きているんだろうなーと思って、可笑しかった。

電車の中にも、小さな驚きが溢れている。

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August 21, 2009

「ラマダン・ムバラク」、今日から断食月

今日からイスラム社会では、ラマダン(断食月)が始まる。約1ヶ月続く。年に一度、断食を、習慣とする人々に改めて驚く。1ヶ月間の、日出~日没までのプチ断食の連続だか、断食は大変。仕事の能率は落ちる。それでも、私は、断食の効用は大きいと思う。尊敬する。

飢えは、精神的にも、肉体的にも、大変重要な良い効果を持っている。飢えは、精神を鍛えてくれる。精神を大人にする。飽食の人に、賢人も立派な人もいない。

「飢えがあるから親は働く。親の働く、後ろ姿をみて、子は有り難さが湧いて来る」と、尊敬する住職も云った。

空腹時には、白血球も活動を活発化させ、空腹時に免疫力もアップすると云う。また、「1日おきに断食した人と、毎日2000カロリー食べた人では、断食した人が長生き」との実験例があるとのこと。ー石原結実医師著書ー

私も、神聖な気持ちで、今日は「ラマダン・おめでとう」(ラマダン・ムバラク)と云おう。

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August 20, 2009

一人が似合う人、吉永小百合さん、高倉健さん

JR大人の休日クラブのポスターに吉永小百合さんのポスターを、よく駅でみかける。吉永小百合さんは、一人旅がよく似合う。ポスターを見ていると、そのポスターの場所に旅したくなる。

自分の内奥と、外界の自然と、深い対話をしながら、旅をしているような、そんな高い精神性を感じる。

ワイワイ仲間と楽しむ旅や、仲の良い夫婦の旅とは、全く違ったジャンルの、旅のスタイル。

吉永小百合さんや、高倉健さんは、一人が、よく似合う。穏かで、強くて、暖かで、ちゃらちゃらしてなくて、凛として、堂々と自然と調和してるような感じが好い。

一人が似合う人は、安心してその人生が見ていられる。清々しい人生。


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August 19, 2009

ハバロフスクの不思議、小学生レポーター報告

昨日は、久しぶりにヒッポクラブの例会に出席。男子小学5年生のロシア・ハバロフスクへの2週間のホームステイ体験を聴いた。写真や、感想を沢山書いたアルバムをめくりながら、少人数で小学生の異国体験を聴くのはとても愉しかった。自分が、その子になったつもりで、私も、頭の中で、好奇心いっぱいにハバロフスクを旅した。

舗装してない道路ばかり、道路やバスの中に何故か、コインがよく落ちていて、それでも人々は、関心がなく、それらのコインを拾わないと云う。小銭を拾わないとは、豊かな社会なのか?彼自身も、私も、頭をかしげる社会。それでも、バスの座席などは中のスポンジが飛び出す程、みすぼらしいのばかり。

人口は約58万人。年間の気温はマイナス30℃~プラス30℃と大きな落差。冬の寒さを防ぐための二重窓のせいか、夏の冷房の無い、家の中は暑く、みんなパンツや下着いっちょの生活と云う。

新潟から2時間のハバロフスク。中古の日本車も多く、飛行機の手荷物に、車の部品を沢山持って行く人も多いと云う。車のドアや冷蔵庫まで手荷物でもって行く人もいると。これには、失笑。まいったなー。

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August 18, 2009

天丼に感涙、大牟田"志まや"

今回の大牟田帰省で、行きたかった所に、天丼の"志まや"がある。高校2年生の夏、私は肺浸潤で、大牟田市立病院に1ヶ月入院した。その市立病院そばに、大牟田で有名な、そば屋"志まや"があった。その"志まや"は、今でも同じ場所にあり、繁盛している。

退院まじかな頃、見舞いに来た母と、2人で、"志まや"に入ったことを今でもよく覚えている。私は、"海老天丼"と云ったら、「海老は云わなくても、天丼は海老に決まっとる。」と母は笑った。母と食べた、その天丼の美味しかったこと。あの美味しかった味は、一生忘れないと思った。

そして、今回の帰省の時、私は一人で店を訪れ、また懐かしい天丼を注文した。一口食べたら、涙がどっと溢れるようだった。今思えば、ちょっと甘すぎると感じる味だが、高校生の時、母と食べたあの時と、まるっきり同じだと感じた。目の前に、「美味しかかい?」と微笑む、母の顔も浮かんだ。

一人感涙にむせびながら天丼を食べてる姿は、抑えたつもりであるが、気付いた人は奇異に思ったことだろう。それでも、私にとっては、圧倒的に充実した"志まや"のひと時だった。母との再会のひと時であった。

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August 17, 2009

弟にプロレス技、そしてオリーブ先生との遭遇、2009年夏

今年は14日から16日、3日間、九州大牟田に帰省した。実家では、9歳違いの弟に、じゃれついて、久しぶりに、プロレス技のキーロックをかけて、愉しかった。そばで見ていた、弟の奥さんや、弟の子供達は、あきらめて笑っていた。子供達はもう、大きくなったし、お馬パッカパッカと背中に乗せることは出来ないし、弟が小ちゃかった頃を想い出し、プロレス技を教えてやった。弟は、兄ちゃんの相変わらずの馬鹿ぶりに、ただ苦笑いをしていた。

大牟田警察署付近のスーパー「まるしょく」に、たまたま、子供時代によく食べた、「塩クジラ」は無いか探しに入ったところ、懐かしい「塩クジラ」は無かったが、スーパーの中で、何と、高取小学校時代の女先生を偶然見かけた。とても穏かな表情で、ご夫婦で、買い物されていた。背が高く、痩せ型で、ポパイに出て来るオリーブに似てらっしゃった感じで、私は、姓名は忘れていたが、「あっつ、オリーブ先生!」と想い出した。

せっかくのこの再会と思い、神の導きと思い、近づいて、「以前、高取小学校の先生ですか?」と話しかけた。「そうです」と笑顔で答えて頂き、数分、話もすることが出来た。私が、覚えていたことを喜んでくださった。たまたま持ち合わせていたカメラで、先生の写真も撮らせてもらった。

3日間の短い帰省だったが、小学生時代を、現実のように、また巻き戻して、見る想いであった。小学生の時に聴いたように、大好きな、ワシワシ蝉の声をいっぱいに聴きながら、故郷の三池山も、微笑んでいた。

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August 16, 2009

蝉のメスになった気持ちで蝉の声を聴いてみる

蝉は、オスが鳴き、メスは鳴かない。私は、ちっちゃい頃から、蝉捕り名人だったから、知っている。

最近、蝉の鳴き声を聴くと、蝉のオスは、メスを惹きつけるために大声で鳴いているのだろうと思うようになった。そう思って、一つ一つの蝉の声を聴いていると、誠に味わい深い。

中には、民謡大会のように、すごいこぶしの効いた節回しで、鳴いているのもいるのだろう。江差追分を歌っているのもいるだろうし、北海盆唄もいるだろうか?

そう思って、自分が蝉のメスになった気持ちで、蝉の声を聴いてみると、これも笑ってしまう。

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August 15, 2009

「もう、お兄ちゃんなんだから」、「お姉ちゃんなんだから」と云う気持ち

人生が、思い通りになることを目指して、人は、お金や地位・権力、美貌など手に入れようと頑張る。

そして、結局、それらが多少、手に入ったとしても、それは役立たなかったことに気づいて、人生は終わる。自分の思い通りになるためには、余りにも些細な、多くのことが必要で、お金・地位・権力・美貌などは、ほんの気休め、猫だましに過ぎないことに気づく。

自分の人生が思い通りにならず、他人が羨ましかったら、「僕はもう、お兄ちゃんなんだから・・・」と、他人と云う弟のために我慢しようと考えれば好い。「私は、もう、お姉ちゃんなんだから・・・」と、他人と云う妹のために我慢しようと思えば好い。だだを捏(こ)ねてる、拗(す)ねてる子に譲れば好い。

他人のために、譲る気持ちが出て来れば、ちょっと神様に近づいて、思い通りにならないことに煩わされなく、結構愉しく生きていけると思う。宇宙からみれば、自分と他は、一体の存在だから、即ち、どちらでも好いと云う気持ち。

「お兄ちゃんなんだから・・・」、「お姉ちゃんなんだから・・・」、とても好い響き。

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August 14, 2009

人間を微生物に見たてる愉しみ

ナノの世界、極小の世界の、原子や微生物が、人間と考えてみると、結構愉しい。ナノメートルは10億分の1メートル、100万分の1ミリ。

そんな世界を、最新の電子顕微鏡て見たら、そこに、人間がゴニョ、ゴニョと発見なんてことを考えて試る。もう、何とも云えない面白い、別世界。

地球を宇宙から見れば、そんなものじゃないかとも思う。誰もいない地球だと見えていたが、近づいて、ズームアップしてみたら、何と、人間達が、うごめいていたとか。

微生物が、電車に乗ったり、家を作ったり、運動したり、かわいいー。

そんな風に、神様と云う宇宙意思は、ゆったりと、微生物たる人間を、眺めておられるのではないかな。 考えるだけで、愉しい。

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August 13, 2009

蝉の残業

最近、蝉が、夜遅く10時くらいでも鳴いているのに、ちょっと驚いた。

地上へ出てわずか1~2週間の命だから、時を惜しんで鳴いているのだろうかと思った。その間、子孫を残さなくてならないと云う本能で、時を惜しんで、活動しているのだろうかと思った。余命1週間の命を思った。

また、残業している蝉みたいに思って、かわいそうになったり、けな気で愛おしくも感じた。

地球にちょっと、ホームステイをしに来た旅人が、休む時間も惜しんで、そのひと時を味わっているようにも思えた。

朝になると、蝉がよく、道路の上に、仰向けに、堂々と死んでいる姿も見つける。彼等は、役目を果たし、また素晴らしいホームステイをして、逝ってくれたのだろうかと思う。蝉の一途な生き方や、潔さに感動する。

今朝も、夏らしい蝉の声を聴きながら、一日が始まる。

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August 12, 2009

美と醜さの共存、そして神性の証明、哲学カフェにて

昨日夜、哲学カフェに参加、テーマは「美について」であった。カフェの参加者の人達から、面白い視点の意見も聴け、「美の本質」についての考える刺激になった。

私は、美の根源は、調和、シンメトリー(左右対称)、陰陽バランス、プラスとマイナスのバランスなど想起した。完璧な左右対称でなくても好い、事象に調和が感じられれば、美しく見えて来るように思う。石ころなど、自然界の物も、ミクロの原子とかの単位で見れば、美しいシンメトリーの構造をしていることを思った。

調和は穏かさ、統一。そして、自然界は矛盾と統一の繰り返し。矛盾の中にも、統一への動きを想えば、全てが美にも見えて来る。

美とは、富士山を色々な角度で見るのに似ている。見る角度、バランスの見え方、自分の心の状態(穏かさ)などで、美の度合いは変化する。その美の強弱、度合いを、美醜と区別しているに過ぎないと思った。

美への感性は、人間の神性の証拠だと思う。全ての曇り、エゴ性を、取り除いて行った最後に、永遠にして安らいでいる単一の世界が広がっていると思う。


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August 11, 2009

「良いもの」、即ち「恐怖のもと」

良いもの、良いこと、良い人、夫々に、良い程、執着が生まれ、失う恐怖が生じる。

色々なものが見えることは、即ち多様性は、心の右往左往の根源。良いものに囲まれて、それを失うことを恐怖して生きるのは、予期せぬ伏兵に、討ち取られる如し。

多様性の中に、単一なものが見えれば、右往左往は無くなる。

エゴは、誤解している。エゴは、大海を、波の状態で見て、右往左往している。

一昨日、住職の、精神世界の展開を、またメモし、納得した。「多様性」、即ち「右往左往」


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August 10, 2009

洗濯器の中の渦潮からの脱出

その時はアッと云う間でも、後から想い出すと、色んなことを想い出し、結構長く感じられる時間がある。そのような時間を、私は充実した人生と呼ぶ。10代の頃、そして今、そう生きたいと思っている。

その時は、長く感じても、後から想い出すと、印象が薄く、アッと云う間に感じられる時間もある。それは、私にとって、長く過ごして来た会社での時間がその代表。

長く過ごしても、洗濯器の渦潮の中で翻弄される蟻んこのように、グルグル回っているだけの、人生もある。

私は、そのグルグル回る水流から、やっと飛び出し、洗濯器の外を眺めている心境。洗濯器の外には、おとぎの国のような、世界がいっぱいに拡がっていたように思う。

そして、ほのぼのと想い出すことの、多いことに、人生への感謝が湧いて来る。

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August 09, 2009

美男・美女の寂しさ

美男・美女と云われる人達の事件を聞く度に、醜いまでに、未熟な精神に驚かされる。満たされぬ寂しさと、貪りの餓鬼道の世界のようにも思う。押尾学事件、酒井法子事件。

外面的な美しさ、イケメンだったが故に、その内面の未成熟、醜さが際立つ。

美男・美女だったが故に、修業するチャンスを失っていたのだろうか。寧ろ、人生の大きなハンデを負っているかのように思う。

異性を渡り歩くことは、裏に荒涼とした寂しさが漂う。覚醒剤に手を出すことは、グロテスクな弱さを思う。

異性にもてたり、セレブをやったりしても、実態は、醜い程の未熟さ、地獄が存在していることに気づかされる。

自分の内面の教師と、静かに一人対話して、心の内奥の声を聞けば好い。そのような孤独なひと時こそ、人生の夜空に輝く星になり、人生が迷わぬように導く羅針盤になってくれると思う。

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August 08, 2009

荘厳で、心地好い孤独死の存在

大原麗子さんの死を「寂しい孤独死」の結末と、憐れむのは、何かぴったりこない。世間の薄っぺらな、野次馬の深く考えない人たちの浅はかさを感じる。

動物は、生物は、元々、死に逝く時は、人知れず一人、自然に死に逝くのが、寧ろ当たり前。誰かに、看取られながら逝くのは、幼児っぽい、人間社会の甘えではないかと思う。

お世話になった人達への感謝、出遭った人生への感謝を想いながら、一人で逝くのは、寧ろ、心が落ち着き、荘厳で、心地よい死に方ではないかとさえ思う。1週間後でも、何時発見されるかは、たいした問題じゃない。

何時も、パーテイーをやってるような生き方は、寧ろ、あまりにも未熟な精神で、寂し過ぎると私は思う。大切に思う人こそ、自分の死に惑わされずに、元気に生きてもらいたいと思う。だから、人知れずひっそりと逝くのが好い。寝かしつけた子供を起こさないように、ソーッと枕元を離れるのが好い。

大原麗子さんは生前、修業中に餓死で逝きたいと言っていたと云う。病気もおありだったが、徐々に衰弱して、ベットの上で、穏かに、静かに、逝かれたのではないかと、私は想像した。

それも、修業を経た精神の、荘厳な、心地好い逝き方ではないかと、私は思った。

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August 07, 2009

はかなさ、幸せのリトマス試験紙

つかの間に過ぎ行く人生とか云えば、幸せな時間がある証拠ではないか?と思う。永遠であって欲しいと思うことは、幸せな人生のひと時をもっている証拠ではないかと。

つかの間に過ぎ行く、はかなさに目を向けるのか、過ぎて欲しくないと思う幸せの存在に目を向けるのか、大きな違い。

一方、長々と続く人生とか、長い人生とか云えば、何か退屈な時間も連想してしまう。長々と感じる人生は、早く終わっても好いと思うような、不満足な人生も暗示されているようにも思う。

つかの間に過ぎると感じる程、幸せ度合いを測れるようにも思う。

はかなさの感覚は、幸せのリトマス試験紙かも知れない。


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August 06, 2009

地下鉄の窓の鏡、喜劇俳優との出会い

昨日、地下鉄の席で向かい合わせた30代くらいの女性が、対面の私の後ろの暗い窓を鏡に見たて、色々髪を整えたり、表情を微笑んだり、ニーと笑ってみたりして、こちらは、笑いを堪えるのに大変だった。

あたかも、周りに誰もいないかのように、一人の世界での振舞いのようで、可笑しかった。子供時代にやった、「にらめっこしましょ、あぷっぷ」のように感じ、もう吹き出しそうになった。

通勤時間帯、中目黒から出る地下鉄日比谷線が、9時半頃、広尾や六本木にさしかかる頃、結構乗客が減るが、堂々と地下鉄の窓を鏡にポーズを取る女性がいるのには、小さな驚きだった。

大勢の知らない人に溢れかえる大都会の地下鉄の中で、「私」と、「その他色々の他者」をこんなに、きっぱりと、滑稽なまでに愉しめる人がいるんだと思うと、寧ろ痛快で嬉しくなった。

突拍子もない喜劇俳優との遭遇だった。

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August 05, 2009

観察する生き方

自分の人生を、他人事のように、ただ観察するように生きてみるのも、力が抜けて、新鮮で、心地好い。興味深く、野次馬的に、自分の人生の展開を眺めてみる。ちょっとした映画鑑賞気分にもなれる。

自分の力で、自分の描いたシナリオで、自分の理想通りに生きようとすると、疲れ果てて、病気になってしまいそうに思う。自分の美学のために命を落とす人だっている。

「こうあるべきだ」と云う生き方の息苦しさを思う。

「ヘー、こうなってたんだ」と好奇心いっぱいに、周りを観察する生き方は、宇宙のリズムに合ってるように思う。人生に心地よく、漂うって感じが好い。

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August 04, 2009

草の香り、蝉の声

若田宇宙飛行士の、「地球へ返って来て、草の香りが、温かく迎えてくれた気がした。」と云う言葉を聞き、草の香りを想い出した。

通勤途上、道の脇にある草むらの香りに注意を凝らせてみた。微かな草の香りに、若田さんの気持ちを想像してみた。そして、「今、地球で、私と云う生物が、生きている」って云う感じを味わった。その生物が、今日は、靴をはいて、電車に乗って、会社へ行くとか思うと、妙に可笑しかった。

蝉の声も、心地よかった。今鳴いている蝉は、どんな蝉も、今年の夏だけで終わりと思うと、わいわい騒ぐように鳴く蝉も、ドンドン鳴きなさいと応援したくなった。

天まで届くほど、大声で鳴きなさいと思った。

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August 03, 2009

成功も、幸せも、未熟さが故に

成功も失敗も、未熟な故に起こることでは同じ。幸せも不幸も未熟さが故に起こるのも同じ。

不図、そんなことを想った。

未熟だから、単純だから、成功だとか、失敗だと思い込んでしまう。未熟だから、浅はかだから、喜び過ぎたり、悲しみ過ぎたりする。

成熟した精神には、成功も失敗もなく、幸せも不幸もなく、ただ、自然が坦々と存在するだけ。

でも、ちょっとした、人生の職人は、人生を60点くらいに、やや成功や幸せを感じるように、自分を慣らせて生きているように思う。ちょっと、計器をずらして生きているように思う。その60点くらいに調節している微妙さが、職人たる由縁。それは、思い通りにならないことさえも、愉しめる人生。

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August 02, 2009

盆踊りにポニョの歌、2009年の夏

昨日は、毎年恒例、町内会の祭りの手伝いした。とうもろこしの皮むき、小さな風船のヨーヨー作り、フランクフルト模擬店販売など。私は、フランクフルト屋さんとしては、熟練して来た。

公園のやぐらの周りでは、盆踊り。今年は、大好きなポニョの歌も、盆踊り曲に入っていて、ちっちゃな子供達も、はしゃぎながら踊った。みなとみらいで行われている花火が、時折、夏の夜空を華やかに飾った。私は、浴衣姿の子供達に、ほのぼのとした。

神輿担ぎ姿の、顔見知りの隣の町の青年部の連中も、地元中学の先生も、自民党地元小此木代議士も顔を出した。

私は、8時半頃、模擬店のフランクフルト完売の後、盆踊の輪にもちょっと入って、東京音頭、炭鉱節を踊った。大学時代の民族舞踊研究会で踊ったことも想い出した。

町内会の夏祭りは、私にとって、季節を感じる心地よい節目。子供時代の夏休み、路地で、「水滴がちょっと付いた、朝顔」と廻りあった時も想い出した。

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August 01, 2009

かぐや姫を送るように、

人生の出遭いと別れを、かぐや姫を送るように思えばよい。

かぐや姫を送り出した後、夜空を眺める。

この世に、この私の傍に、いてくれてありがとう。と云う気持ちで、月を眺める。

そんな、別れなら、寂しさは、いつか、隠し味となって、ほのぼのとした想い出になる。

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