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July 31, 2009

惜別の日

今日は、会社の若いアラブ人の夫妻が、3年半の任期を終え、本国に帰任出発する日。

この半年、一緒に、色んな場所に、沢山行ったなーと振り返る。アラブ音楽を聴きながら、伊豆・富士、日光・房総などドライブしたことを想い出す。渋滞でさえも、談笑しながら、愉しかったなー。北海道の雪も見れて良かったなーと思う。

本国では、彼等の両親兄弟姉妹が待っている。彼等にとっては、いずれ帰る故郷。一番自然な場所。

日本の想い出は、遠い異国の想い出として、人生の忘れえぬシーンとして残るだろうと思う。私も、人生の一つの忘れえぬシーンになった。

今日は、人生の節目で、自分の子供を送り出すような気持ち。私の両親がそうであった様に、晴れやかに送り出したい。

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July 30, 2009

大失敗、大成功

大失敗した自分を想像してみる。そして、「参ったなー」と、途方にくれて、つぶやいてみる。また、大成功した自分を想像してみる。ガッツポーズを取り、ニンマリと笑ってみる。

そして、自分の人生を思うと、「結構、器用に、真ん中を歩いているじゃん」と思う。

大失敗も大成功も、そう思った時は、全体が見えてなく、身体が宙に浮き、危険そのもの。

私は、サーカスの曲芸の様に、手に持った棒でバランスを取って、器用に歩いている様に思う。時折、神様の拍手も聞こえそうな気がする。

大失敗も大成功も、大差ない、世界がある。

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July 29, 2009

小石を見つめる

どこにでも転がっている、小さな小石。

そんな、小さな小石でさえも、何十億年と云う、地球の誕生以来の歴史を持っていると思うと、愛おしくなる。

今、何十億年の歴史の頂点にいる。それが、今日と云う日。

可笑しなくらい、信じられないくらい、もったいない時間を感じる。

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July 28, 2009

鎌倉・円覚寺で聴いた川柳

今年の円覚寺・夏季講座でメモした川柳がある。足立老師の講話の中にあって、思わず笑ったり、なるほどと、思ったり、あるいわブラックユーモアとも感じた。

「ほどほどの信仰心で、この平和」

「鎌倉は、聞いて極楽、見て地獄、慈悲無き里の寺の多さよ」

「見てみたい、教祖集めた座談会」

今朝は、雨上がりの曇り空。このような川柳は、俗っぽくて、寧ろ、清々しい。まさに二元に遊ぶ。

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July 27, 2009

新鮮な自発的労役

昨日は、町内会の夏祭りの準備に、朝8時半から、作業奉仕。リヤカー運搬、材木やパイプ運び、やぐら設営、テント設営、など、汗だくになった。

町内会には、大工さんも、とび職さんも、電気工事さんもいて、頼れる棟梁がいる。こちらは、労役のみでも、愉しかった。時折、「バカヤロー、何やってんだ」とか聞こえてきても、私には、心地よい響きだった。

棟梁が、屋根の上に登って、梁の上を猫のように歩く姿、屋根の上で、休息する姿に、博物館のアトラクションを見るようだった。「鳴駒屋ー」とか、内心、掛け声をかける想いに内心、微笑んでいた。

昔、隋・唐時代から日本に渡って来た税制の租庸調に、庸と云う労役があった。年20日間の労役のこと。現代は労役は無いが、租庸調の時代に比べれば、町内会の労役なんぞ、寧ろ、レクレーション。何だか、労役を楽しんでる自分が可笑しく感じられた。新鮮な夏の日の、小さな驚き。

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July 26, 2009

「通訳ガイドがナビする"東京歩き"」出版記念会

昨日、通訳ガイド、松岡明子さんの著書、「通訳ガイドがナビする"東京歩き"」の出版記念の会に出席した。

外国人への東京案内には、最新の、このような、臨場感溢れる本の出版が、私はとても嬉しく、松岡さんへ、拍手喝采の気持ちで、出版記念の会に行った。

松岡さんは、通訳ガイドの会の副理事長も務められ、時折、顔は合わせていたが、この本を出版される経緯やエピソード、そしてこの本にかける想いを直接聴けて、またこの本を読むのが愉しくなった。

何よりも、松岡さんの、素直な可愛らしい好奇心に溢れた、捉え方に、また、私も東京を、生き生きと見なおすことができるような、気がした。


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July 25, 2009

「私はどうなってもいい」の境地

心を魂を、身体を、清々しくしてくれる境地がある。それは、「私は、どうなってもよい。他が良ければ。」と云う境地。

この境地の存在と、この境地の想像は、心が震え、圧倒的な感動に覆われ、喜びのマグニチュードは何にも及ばない。

「あの人が幸せになれば、周りが救われれば、私はもうどうなってもいいんです。」、こんな境地を、何故私は、憧れるのか。それは、母や父が、私に、この気持ちを持っていたことを想像するからです。

そして、私は、母や父を、宇宙や自然に置き換えて考えて、ものすごく穏かな気持ちになることもあります。

「私が、幸せになる」これが、全ての苦しみ、悩みの根源。「私」への執着を捨てるところに、見えて来る世界は、光輝く、調和の世界。私への執着は、他との軋轢となる。大海に気づかず、波と波がぶつかり合うが如し。

「自他一如」「自他不二」の世界。「私」と、「他」が統一された世界。波が大海に気づく瞬間。波にこだわることはない。私は、人生に、穏かにただようように生きたい。

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July 24, 2009

戦国九州三国志、大友家の猛将・高橋紹運

大友、島津、龍造寺の戦いに明け暮れた、九州の戦国時代のことを知った。(学研、「九州三国志」)

私の出身地、大牟田のシンボル的な山"三池山"にある普光寺は、私が子供時代から慣れ親しんだ場所。最近帰省の度に、大牟田の散策を楽しむ中で、戦国時代、地元で活躍した武将、高橋紹運のゆかりの地でもあることを知った。

大牟田は、大分・大友家の領地。大友家は、佐賀長崎の龍造寺家、鹿児島の島津家と、熾烈な戦いを繰り広げた。高橋紹運は、柳川の立花宗茂の父親。1586年、大宰府北の岩屋城で、わずか700の手勢で、押し寄せる島津の5万の大軍を15日間もくぎ付けにした男。秀吉の九州入城を前に、筑紫を平定したかった島津の戦略を打ち砕いた男。壮絶な死を遂げた高橋紹運を、九州平定後、秀吉は、「乱世の華」と惜しんだと云う。

今度、帰省する時は、高橋紹運を、もっと知りたいと思う。そうだ、私は、大友宗麟の領地にいたんだと、感じることは、小さな驚き。今度のお盆の帰省の自由研究のテーマになる。心の中の「夏休みの宿題」にしよう。

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July 23, 2009

「ちいちい蝉」を鎌倉・円覚寺に葬る

先日朝、自宅から駅へ歩く道すがら、路上に、懐かしい「ちいちい蝉」の亡骸が落ちていた。拾い上げ、子供時代によく見慣れた、「ちいちい蝉」の姿が、たまらなく懐かしく、愛しかった。私は、蝉を、ハンケチの中に、そっと包んで、ポケットの中にいれて、その日は家へ持ち帰った。

翌日、鎌倉・円覚寺の夏季講座に参加するため、早朝、円覚寺へ行く時、そうだ、この蝉を、円覚寺境内に葬ろうと思って、蝉の亡骸を持って円覚寺へ行った。そして、境内の木のふもとの茂みに、その蝉を無事葬った。そして、ちょっと、ご本尊へ参拝する時に、心の中で、その蝉のことを報告、弔いを頼んだ。

その後、夏季講座のある方丈へ向かう、小道脇で、ワーと、「ちいちい蝉」達の鳴く声がこだました。うっそうと茂る木々の中に、チーチーチーと、あの懐かしい声々が響いた。

「ちいちい蝉」達と、私の魂の交流のひと時であった。

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July 22, 2009

フラミンゴ・鳩の驚き

鳩は、口バシの中に食道が変化したお乳があり、チーズに近いような、ピジョン・ミルクを出すと云うことを、初めて知った。フラミンゴは、食道で作る、赤いおっぱいで、赤ちゃんを育てると云うことも知った。

鳩やフラミンゴは、口の中にある、おっぱいで、子育てをする。上野動物園の元館長、中川志郎さんの講演を先日聴いた。

鳩と云う身近な生きもののことでさえ、あまり知らなかった自分に、小さな驚きを感じた。

それは、情けない自分の無知ぶりに気づくと云うより、身近に存在する自然の神秘に対する発見でもあった。自分の人生の周りでも沢山存在する神秘の世界への気づき、神秘への畏敬と、神秘に接することの出来る人生の喜びの発見でもあった。

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July 21, 2009

父親の言葉の情景

私が子供の頃、父はよく、私や、姉、妹、弟が家から出掛ける時に、「ハンカチ・チリ紙持ったか?」と、口癖のように、またちょっと茶化したように云ってニヤニヤしていた。

また私が大学時代、横浜から大牟田にたまに帰省すると、何か話したいのに、モジモジして、ぎこちなく、周りに近づいて来て、「福岡空港行きのバスは、東新町発・・時・・分ばい」とか、突然、脈絡のないことを云っていた。

私が、18歳以上になると、「酒は、飲み習うたかい?」とか云っていた。酒を飲むことを習うとか云うのは、如何にも、田舎っぽく、年寄りっぽく、可笑しく感じた。「酒は飲みなろうたかい?」とか云ってたのは、実は、私と飲みたかったんだなーと、今は痛いほどわかる。

何気ない、遠い日に聴いた父の日常の言葉が、何故か、モジモジした愛情を感じて、懐かしい。

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July 20, 2009

アラブ人夫妻、日本での最後のドライブ、安房の旅

昨日は、会社のアラブ人夫妻との最後のドライブに鴨川シーワールドに行った。今月末の帰任、帰国前にと、この数ヶ月は、よく、東京近郊の色々な場所に、週末よく出掛けた。

昨日は、最後とあって、私の娘も加わって4人のドライブだった。ちっちゃい子供達に混じって、シーワールドのシャチや、白いイルカ(ベルーガ)のショーも見た。館内の展示では、大きなマンボーも見た。マンボーってSun Fish(太陽の魚)と云う英語が面白い。アメンボーは、Pond Skater(池のスケーター)と云うのも、傑作英訳だと、私は笑った。

近くの勝浦にも行って、風速18メートルの大波の中、勝浦海中公園の海中展望塔(水深8メートル)にも入って見た。強風の中、海の上を、展望塔へ歩くブリッジが、ドキドキする面白い体験だった。

アラブ人夫妻にも、また私の娘にも、私にも、生涯の忘れえぬ、楽しい想い出のドライブになったと思う。毎回、ドライブの度に作った写真のCDを、彼等も娘も私も、将来、人生の幸せな時として、微笑ましく想い出す日が来ることだろうと思う。

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July 19, 2009

抗ウツ剤500万人服用時代への警鐘

この数年で、抗ウツ剤を使う人か激増して、現在、日本では約500万人が服用していると云う。安易に抗ウツ剤を、使うことの危険に警鐘を鳴らす講演を聴いた。

「栄養から見たウツの原因」について、薬学博士の生田哲先生の講演の中で、次の原因が挙げられていた。
(1)興奮性伝達物質不足:セロトニン・ドーパミン・ノルアドレナリンなどの脳内伝達物質不足。
(2)脳内必須脂肪酸不足:脳は脂肪で出来ていて脂肪は大事だが、固まる動物性脂肪は脳に危険。
(3)ビタミン・ミネラル不足:人体の酵素を動かすのは、ビタミン・ミネラルの働き。
(4)砂糖の過剰摂取:低血糖症は、砂糖の過剰摂取への反動から起こる。
(5)エネルギー不足

抗ウツ剤SSRI(セロトニン利用効率アップ)は、よく使われるが、上記の(1)の物質を造るのではなく、効率をあげるだけ。他の原因を残したままでは治らない。また脳内伝達物質を造るのは、良質たんぱく質(大豆など)を食べるのがウント安く、薬より効率絶大。ましてや、抗ウツ剤(化学物質)には、敵意や・他害事件を誘発する副作用のリスクもある。薬は、緊急・重大な症状の時こそ使うべきで、500万人が、安易に常用すべきではない。

セロトニンは、朝日を浴びたり、毎朝散歩するだけでも、脳内で多く造られる。規則正しい生活もウツを防ぐ、大効果ありと再認識した。

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July 18, 2009

ジオラマ・蟻ん子・シルバニアランド

自分が見ている世界を、模型の立体地図・ジオラマのように想像してみる。そして私は空中から、そのジオラマを見ている。家々や、人、ビル、車、犬など、全てミニアチャーで精巧に造られている。

人が皆、"蟻ん子"のようにも見える。自分は、もうガリバーになった気持ち。

シルバニア・ファミリーのような、ウサギの家族の国、シルバニアランドの小さな模型を想い出す。

人生で、私が見ている光景は、シルバニアランドのような、可愛らしいジオラマ。

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July 17, 2009

ダイヤモンドと石ころ

「ダイヤモンドと石ころが同じに見える」境地。これが修業の度合いを知れる境地だと思う。考えるだけで、嬉しくなる境地。

大自然、宇宙にとっては、ダイヤモンドも石ころも、差はない。宇宙を構成する一物質。原子の世界では、組み合わせの違いに過ぎない。波と大海のようなもの。波に惑わされれば、大きな差として見えるだけ。

それぞれの存在に、大きな価値や少ない価値を付けるのは、人間のエゴの所産。滑稽な、惑わし。

「ダイヤモンドと石ころ、大差なし」、私はそんな、生き方をしたい。

エゴ性の放棄も、これで測れる。

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July 16, 2009

世代をつなぐ共同修業

修業とは、自分の人生だけのことではなく、親達の世代から、引き継がれて来た道のり。今の私は、過去の親達の修業の集大成。

修業とは、エゴ性の放棄。南極の氷のように分厚い氷を、一つ一つ、取り除いて行く作業。母も父も、作業してくれた。その両親が、修業してくれた後を、私が、シャベルで、またコツコツと、エゴ性の氷を取り除く。両親の体験は私の体験。一緒に作業しているように感じる。

エゴ性は、全ての苦しみの根源。エゴ性の放棄の先には、永遠にして安らいでいる世界がある。全てが私であると感じられたら、永遠にして安らいでいる世界が垣間見える。波である自分が、大海であることに気づくことと同じ。

何世代にもわたり、一緒に作業していると思えば、嬉しくなる。修業は、ただ、一所懸命に、氷を、曇りを、取り除いて行くこと。単純な作業。でも崇高な、愉しい修業。母と父と、心の中で、作業歌でも歌おうかと思う。

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July 15, 2009

「一度」

「一度」と云う言葉の意味を、これほど深く、感じたことがあっただろうか。

ピアニストの辻井伸行さんの言葉だと云うのを聞いた。

「一度だけ、僕の目が見えるのが叶うなら、また、すぐ見えなくなってもかまわない。僕は、お母さんの顔を見たい」と。

またすぐ見えなくなってもかまわない、一度、お母さんの顔をみれば、長い人生、一生、その面影は脳裏に焼きつく。

一度だけ見た光景でも、人生に強烈に残るシーンがある。

「一度」と云う言葉に、秘められた覚悟や憧れ。人生の美を想った。

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July 14, 2009

奴隷開放のような開放感体験

私は長年いた会社を7年前に早期退職した時、奴隷開放のような、何とも云えぬ開放感を味わった。

男性の場合は、開放されるべき重荷は、仕事であると云う。

女性の場合は、開放されるべき重荷が、何と「夫」であるとの、週刊誌の記事に、内心大笑い。余りにも、滑稽な人間関係の存在。

男は、進んで仕事を見付け、あげくのはては、奴隷の気持ちで開放を願うか。女は、進んで伴侶を見付け、あげくのはては、奴隷の気持ちで開放を願うか。

共に、傑作な人生展開、人生の悲劇・喜劇。

「重荷にならぬ仕事」、「重荷にならぬ夫」。これが、良い人生のわかり易いキーワードだな。なんて、妙に納得しながら、考える。

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July 13, 2009

「物欲消滅」

今朝の新聞の経済雑誌の宣伝に、「物欲消滅」とあった。私は、内心、この「物欲消滅」の持つ心地好い響きに拍手喝采を送った。

「物欲消滅」度合いは、精神性の高さ、円熟ぶり、修行の度合いを示す崇高な物差し。

続いて、その経済雑誌の宣伝文に目を移すと、「買わない消費者の3つの攻め筋」とあり、内心、大笑い。「駄目だ。こりゃ。」

物質、経済至上主義の方々の雑誌だったかと、我に返った。それは、ちっちゃな子供が、おもちゃで遊んで、それを手離さないで、駄々をこねているようにも思えた。滑稽であり、不憫でもあり、経済への身勝手な執着の醜さも感じた。慈悲の心も。

「物欲消滅」に内心"万歳三唱"。 何と、心地よい、清々しい響きなんだろう。

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July 12, 2009

地曳網の光景

昨日、朝、茅ヶ崎のサザン海岸で行われた地曳網に、知人の紹介で初参加。大海原を見ながら、ビーチのテントに陣取り、ビール・バーベキユーも楽しめた。

ちっちゃな子供達も沢山いて、波打際で、はしゃぐ子供達の光景にも、心が休まる思いだった。ビーチから、有名な烏帽子岩も初めて見た。野口宇宙飛行士が宇宙から見た烏帽子岩。

砂浜で、地曳網の二本のロープを、50人づつくらいで、よいしょ、よいしょと引っ張った。子供達と一緒に引っ張るのが無性に嬉しく、愉しかった。波打際と10往復くらいしながら、ロープを徐々に手繰り寄せて、ずっしりと重い網が手繰り寄せられて来て、中身の獲物を見た。それは、おびただしい数の小魚、シラスだった。

人間にとっては、愉しい穏かなレクレーションで、子供連れの優しい家族達の歓声の中、大量に捕まったシラスにとっては、大虐殺の光景とも思った。「金子みすず」さんのイワシの弔いの詩を思い出した。

人間も、シラスも、宇宙においては、「波」。ともに、大海に帰る存在。人間もシラスも、愛おしい仲間。

そんなことを想いながら、午後は、座禅会のため、東京・芦花公園駅へ向かった。

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July 11, 2009

遠足の前日の子供のように

生も死も、喜びでもなく、悲しみでもないと思う、ただ自然の営み。

生は、朝の光の清々しい輝き、小鳥の声。

死とは、一日の終わりに、追憶の中で、オレンジ色に輝く夕日を眺めるような、穏かな安らぎ。明日の遠足を夢見て、そわそわして、枕元にリックを置いて寝る子供のように、床につけばよい。

毎日、生と死を繰り返していて、その集合体が人生なのではないかと、私は考えてみる。

朝に、生まれる清々しさを感じ、夕べに、終わり逝く夕日の輝きを見て、次の日の新たな朝を感じて眠る。

生とか死とかは、大自然のリズムやうねりのようなものではないのかとも思う。

私は、死を考える時、「遠足の前の日」と云う響きが好きだ。

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July 10, 2009

東京23区内、最高峰の山

東京23区内の最高峰、愛宕山、標高25.7メートル。最近、観光雑誌で読んで苦笑した。

会社の昼休みに、私がよく散歩する場所。山頂のレストランで昼食をすることも多い。

江戸時代には、江戸中が見渡せ、江戸時代の東京タワー的存在だったと云う。

江戸時代にも、地方からのおのぼりさん達が、必ず上って、頂上から江戸の街並を眺めた場所。

その、東京のマッターホルンに、急遽四国から上京した親友を、得意気に、昨日ちょっと案内した。

水戸藩士が桜田門外の変の前に終結した場所、西郷と勝海舟が江戸無血開城を話し合った場所、そんなことを話ながら、標高25.7メートルを思った。

身近な場所の、意外な発見に、何か得したような、「うふふ」と知的に興奮した。子供っぽい驚き。また苦笑。

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July 09, 2009

人生職人

科学者は、何か興味のあるテーマを、深く掘り下げて研究して行く点では、偏執狂的にも思える。

芸術家は、人間の五感の生み出す「心のさざなみ」のような動きを、大きく拡大して表現する。これも云わば、偏執狂的にも思える。

そこへいくと、職人と云う響きは、健康的で好い。職人的なこだわりは、科学者や芸術家と違って、無邪気な健康的な響きを感じ、極自然な、可愛いこだわりのように思える。

「人生職人」、「人生マイスター」。病みを感じさせない、たたき上げた人生観。時を経て、飴(あめ)色に輝く木目を感じさせるような人生観。そんなことを連想した。

私は、人生と云う家を造る「職人」になりたい。

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July 08, 2009

神様の性格

神様と云う存在を、時折イメージして見る。

「久しぶり!」と声をかけたくなる時もある。「最近顔出さないね」など、こちらは、飲み屋のママさんのような時もある。

「あん時は大変だった。あれは何のつもり?」と神様に抗議したくなることも多かった。でも、神様が、ひょんきんに見えることも多い。「そんなことして、何の意味があんの?」と、意味不明も多い。

危機一髪で救って貰ったと思う時は、「役者やのー!」と、有難く、関心する時もある。時折、神様は手荒。

結局、今は神様に、「全部お任せ」、無責任な「丸投げ」の気持ち。細かい注文は、もういい。貴方の性格がわかったから。

神様と道で出遭ったら、言葉は交わさず、じっと会釈して、数秒後、お互いに、声を出して笑い合いたい。そして、それで十分。波である私が、大海である神様を確認する。

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July 07, 2009

ネッシー、Nessie伝説

英国・ネス湖にネッシーがいると、報道されたのは1933年の6月9日であったと云う。

ネッシー伝説は、大人になっても、何か人々を、神秘的な存在の世界へ誘ってくれる。

写真で見るネッシーの幻影は、遠い太古の世界と、現在を繋いでくれている。

ネッシーは、実際に見た人はいないのかも知れないが、人々の想像の世界では、時々、「こんにちわー」と優しい顔を覗かせている。

そんな気持ちで、旅先の湖を眺めるのも、旅のロマン、旅の輝き。


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July 06, 2009

「五感は粗雑」、滑稽な真実

バケツの中の水を掻き回すと、中心は激しく回っても、外は中心より、ゆっくり回っていく。

物も、ミクロの原子の世界で見ると、猛烈な速いスピードで変化していると云う。

そう云えば、人間の60兆の細胞も、毎秒、何億と死に、毎秒何億と生まれて、入れ替わっている。

猛烈なスピードで、激しく変化して行く世界を、人間の五感では感じることが出来ない。

何たる鈍い、ポンコツ五感、粗雑な五感。

繊細で、感受性の強い人と、人間どうしで云っても、大芸術家であっても、自然界から見れば、トンマな鈍い五感に違いない。

生物として生きて行くためには、そのような粗雑な五感の装置でよかったのだろう。ちょっと、口惜しい、人間の粗雑振り。でも、それでも、「まーいっか」と思う。

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July 05, 2009

48粒の米

シベリア抑留された人が初日に、渡された食料が、一人48粒の米であったと云う。

シベリア抑留体験の方のご縁の人から聴き驚いた。私は、自分でも毎朝食べる米粒を、48粒数えて試た。

10個づづ数えても、48個にしても、それは、余りにも僅かで、靴に付いた砂ほどにしか見えなかった。

48個の容量から目分量で推定すると、毎朝、私が食べる1合の米は、たぶん、6~7万粒はあるのではないかと思った。

子供の頃、親達の世代が、どこの家庭でも、よく云っていた。「米の一粒一粒を大事にしなさい。お百姓さん達が一所懸命に作っているのだから。」

子供時代に見た、誰かの口元や頬に付いた米粒を、愛おしく想い出した。

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July 04, 2009

電車のホームでの滑稽シーン遭遇

昨日、会社帰り、夜8時半頃、東急線、中目黒から横浜方面へ向かう途中。

学芸大学のホーム、屋根があるホームなのに、気づかずに、堂々と傘をさして歩く中年女性を発見して、思わず失笑。

気づかないのか、呆けなのか。道路を歩いている様子と全く同じ。

あっけにとられるような傑作シーンに、「だから人生やめられない」と思った。

しばらく、想いだし笑いにさいなまれるかも知れない。

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July 03, 2009

想像の中で語りかける人の存在、人生の喜び

現実に会わなくても、心の中で、いつでも自由に話せる人がいることは、幸せなこと。

既に亡くなった人でも、それは関係ない。よく会う人か、余り会わない人かも関係ない。結局、もう今生では、二度と会えない人であるかも知れないが、そんなことも関係ない。

今までの人生で、会えたことで、とても影響が大きかった人、影響のマグニチュードが大きかった人。

想像の中に親しい人がいれば、心の中で、いつでも自由に語り合える人がいれば、それはとても幸せなこと。嬉しいこと。人生の喜び。

物理的に、誰かと一緒にいることにこだわらず、心の中の自由な世界に、そのような親しい人がいることが、人生の喜び。それは、物理的に一人でいる時間でも、全然孤独を感じない境地。

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July 02, 2009

人生、遠くから見るのも好し

人生を、遠くから見るような気持ちは好い。

遠くから、人を見るのも好い。

余り、近づかなくて、遠くから、人生も、人生で大切な人も見るのも好い。

ちっちゃい子なら、好奇心で近づいて行く。

近づいて見ると、遠くから見る景色には及ばない。

遠くから見ると、一人でいても、音楽や文学や絵画が、益々彩りを添え、心を癒してくれる。

それは、心の余裕のようなもの。

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July 01, 2009

ネバーランド

最近亡くなったマイケル・ジャクソンが云っていた言葉をTVで聞いて、メモした。

「自分に近づく人は、何でも、むしり取ろうとする」と彼は云っていたと云う。

貪り(むさぼり)は、人間の苦しみの根源。貪る人々の地獄。

成功すればするほど、質素になり、その成功の成果を惜しみなく、貧しい人々へ与えることが出来たら、どれだけ穏かな人生になっていったことだろうと思う。

彼の夢の邸宅、ネバーランドは、人間の貪りの象徴のように思える。

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