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May 31, 2009

鎌倉時代、比企家の悲劇

先日、鎌倉の妙本寺と云うお寺に行ってみたら、北条に滅ぼされた比企一族の館あとに造られた寺であった。

源頼朝との縁戚になった御家人、北条家と比企家は、勢力争いをしていた。比企家は、乱を起こしたと云うより、謀反の疑いで、先手を打って、北条が比企家のあった比企谷の館を攻めて、討ち滅ぼしたことがわかった。

妙本寺へ行くと、比企家の惨劇の、無念の想いが、残っているような感じもした。

数日後、川越の小江戸町並みを見学に行った時のこと。たまたま入った本川越駅前の居酒屋で、出された減塩醤油、「金笛」のラベルを見て驚いた。埼玉県、比企郡、川島町とあった。

関東武士の比企一族は埼玉を根拠に活躍、頼朝に認められ、鎌倉に来て、1203年、悲劇にあったことが、わかった。ほんの数日の縁で、比企家のことが、手にとるように見えて来るような気がした。

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寝たフリする乗客が多い電車の話、可愛い発見

横浜市営地下鉄は、電車の中で、寝ている人が圧倒的に多いのだそうだ。何故だかと云うと、全席年配者等への優先席であることに関係があるあらしい。

若い乗客でも、目を開けてると、あとから入って来た年輩者に席を譲らねばならない。良心の呵責に悩まないために、寝たフリをしている人が多いとの説である。そんな乗客も、寝てる割には、目的の駅が来ると、目が覚めて、スゴスゴと降りて行くと云う。

席を譲りたくない自分に、良心の呵責に悩まないために、寝たフリをしておくと云うのは、自分の中に神様がいる証拠ではないか。これは、普通の人間に対する、可愛い発見だと思った。

普通の人間の中に、密かに潜む神の発見。曇りを取り除けば、見えて来る神。可愛い神の発見ではないか。

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May 30, 2009

モンゴル帝国と米国の共通点、そして滑稽な石油価格

28日、大手町での朝食勉強会で、産経新聞の田村論説委員の講演を聴いた。

1972年のニクソンショックで、米国ドルは金との兌換を廃止したことを契機に、徐々に、歯止めの効かない過剰金融、通貨乱発への道を歩み始めたと云う。世界のGDPの10数倍のお金を生み出してしまった世界。金融危機は当然の帰結だった。そしてその危機を、乗り越えるために、再び、徐々にではあるが、またドルを増刷して経済を活性化させるしかないアメリカ。

金融工学と称して、仮想現実空間のお金を、無制限に作りだし、今回のバブル・金融危機を招いた。電気のスイッチを切った時のように、そのお金は現実ではなかったことに気づいた世界。

金との兌換とかの制約もなく、ただ通貨を乱発した帝国は、世界史上、モンゴル帝国と米国との二つしかないとの指摘であった。モンゴルは通貨乱発で滅んだと云う。マネーの拡大に頼らざるを得ない米国は、更に、世界を混乱に陥れるかも知れない。

マネーの暴走が、商品市場も石油も上げて行く。石油が余っていても、再び市場に増加するマネーが石油市場に溢れて、また石油価格が上昇しようとしている。現在の滑稽な石油市場の風景を思った。


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May 29, 2009

人身事故

一昨日の朝、通勤の時、東横線が人身事故で、白楽駅から、東神奈川駅まで歩いて、会社へは30分遅れて行った。妙蓮寺の踏み切りで、男子高校1年生の自殺だったことを、昨日、行きつけのジャズ喫茶で知った。

電車の人身事故による遅れは、最近は、よく起こり、年間自殺者3万人との統計のことを想い出した。

1日に約100人が自殺していることになる。私の知らないところで、死を前にして、呆然と、彷徨って生きてる人が、沢山いることを想った。助かるためには、どういう方法が残されているのだろうか、何がいるのだろうかと思った。

そのとき、「もう安心、貴方の顔が見えたから」と云う言葉を想い出した。

一生のうち、短い期間、出会っただけでもよい、その人を想像するだけで、死をとどまらせてくれる人の存在。

それは、私にとっては、母であり、父。亡くなって、なお、私の生命を、支えている、絶対的なゴールキーパーであることに気付いた。

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May 28, 2009

八女茶、ネパール茶

最近、知人から九州・八女茶の新茶の小さなパックを頂いた。少し前は、ネパールに旅した人から、ネパールの茶を頂いた。

時折、出勤前に、そのお茶を楽しんでいる。お茶は、何故だか、気分を穏かにしてくれる。

九州の八女は、故郷・大牟田の近くの場所。お茶を飲みながら、西鉄大牟田線の車窓から、緑の畑を眺める。

ネパールは、行ったことは無いが、敬虔で素朴な人々の表情と、ヒマラヤの光景を想う。

お茶を飲みつつ、「サー、今日は、どのような日が展開するのか」、「どのような風景が広がって来るのか」と、ちょっと新鮮な、旅の気分になる。

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May 27, 2009

ロンドン出張準備

昨日、月末からのロンドン出張が決まり、早速出張準備。5月31日~6月7日まで8日間の、ブログ記事を考えてから出発しようと思う。

時折の海外出張も、特に望みも、避けもしないが、私の人生に、ちょっと新しい視点を与えてくれる調味料みたいなものにも感じる。

30日ー31日と参加予定の、館山での哲学カフェ合宿を、途中切り上げて、31日の朝は、館山から成田へ向かわねばならない。そのような、段取りを考えることも、寧ろ、新鮮でチャレンジングに感じる。

子供時代に感じたような、毎日が、ちょっとした冒険の日々を想う。

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May 26, 2009

人生を俯瞰する想い、そして手製の羅針盤

自分の人生を鳥のように上空から、俯瞰して見れたら、さぞ面白かろうと思った。

「ああすれば、良かった。こうすれば良かった。」と云う思いがあるかと思えば、どちらでも良かったようにも思う。

これから起こるであろうことも、俯瞰して見る。見えるようで、ちょっと霞んで見えにくいようにも思う。でも、若い頃のように、どちらに進んでいるのか、皆目見当が付かないと云うことはない。ちょっとした手製の羅針盤も作ったし。

適度に幸せを感じ、適度に試練をあたえられ、季節がめぐるように、自然に、自然に、生きていきたい。

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May 25, 2009

雨の東京、日帰り脱出

昨日の朝、横浜から出掛ける時は強い雨、またアラブ人夫妻と観光来日中の彼らの従弟と日光へ出掛ける日だった。雨でも、予定決行で、愛宕のアラブ人夫妻のマンションから車で出掛けた。アラブ人夫妻は、来日中の従弟に、是非、日光江戸村の忍者ショーを見せてやりたいとのことで、江戸村へのリバイバル旅。車の中は、いつもののスターバックの飲み物、アラブ音楽、愉しい会話。江戸村では、初めて手裏剣投げに4人で挑戦したり、面白かった。

夫妻は7月末の帰任は決まっているし、何度か旅に同行しても、名残惜しい気持ちになる。ウマがあっていて、何だか弟夫婦のようにも感じる時がある。5月10日、娘が袋田の滝に同行した時は、後部座席で、同じ20代女性どうしの会話で盛り上がっていた。傑作だったのは、デパートの話で、彼らが新宿のオイオイが良いとか云って、それが丸井だったことがわかった時の娘と私の大笑い。

昨日の日光は、路面は濡れてなく、曇り空ではあったが、江戸村も東武ワールドスクウェアも、雨はなく、傘なしで観光出来た。また東京に帰って来ると雨だった。横浜へ帰る時は、大雨。日帰りドライブで、雨を避ける観光が出来るなんて、これは「小さな驚き」だった。

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May 24, 2009

人生の場面、巻き戻し・早送り

昨日は、三池高校の大同窓会だった。市ヶ谷アルカデイアに、今年は約270名集まったとのこと。姉の同窓、妹の同窓、義兄、なども、例年この時には会える。いつも、大牟田の草木饅頭がでる。蒼穹万里♪の校歌も歌える。

私は、人生のそれぞれの時期を想い出させる同窓会は、いつも楽しみにしている。想い出の場所に旅するようにも感じる。

1学年500人以上いるくらいの大きな高校だったのに、この同窓会では、同じ学年では、集まるのは7~8人。それでも、当時話したことはなく、見かけた程度の同窓が、今では長年の友人のようになって語り合っている。

それは、当時の風景と語り合っているようなものにも感じる。三池山や万田山、築町、記念グラウンドなど、背景に浮かべながら。

同窓会は、人生の場面を、巻き戻したり、早送りしたり、自由自在。

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May 23, 2009

信長も西行も、ほどほどに

力強く、冷徹に、伝統を打ち破った織田信長を尊敬する人は案外多いのには驚く。仕事中心の人に多いのかも知れない。

闘いの世界、世俗を捨て、旅に出た西行を好きな人も多い。仕事や社会の重圧から開放を願う、中高年に多いと思う。

共に極端な生き方は辛いと思う。

極端な行為・作用は、極端な反作用を呼び起こす。そのような生き方も、反作用の一環であったのかも知れない。

信長のような生き方は周りを残酷に処し、そのエキセントリックな生き方では、自分も息切れして辛かろう。

西行のような生き方では、身勝手過ぎて、本人も、周りの人も辛かろう。

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May 22, 2009

ピカピカの1年生

昔、「ピカピカの1年生♪」と云う宣伝がTVであった。

坊主頭で、あどけなく、笑顔で、はしゃぐ、新小学1年生の姿が、まさに、朝日を見る時のようにすがすがしく感じた。

そう云えば、人生に於いて、毎日は、「ピカピカの1年生」と同じじゃないか。

何が起こるかわからないが、これから起こることは、ピカピカ。

まさに、いつまでたっても、人生は1年生。田舎のイガグリ頭の小学生を想い出して密かに微笑む。

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May 21, 2009

裏を見るか、表を見るか、どちらでも好し

表を見るとき、幸せで、裏を見る時、不幸せと云う感じなのかなと思う。

表ばかりを見たがり、表しか見ない人もいる。必死で、幸せと、自分に言い聞かせる人もいる。

裏ばかり見てしまう人もいる。どうもがいても、自分が不幸に引き込まれて行くと思う人もいる。

表を見た時に幸せ、裏を見た時に不幸。見たい側を、その時々に自分で決めれば好い。

裏も表も、切り離せない、一つのセット。

力まずに、裏も表も、適当に、時々、眺めて見れば好い。それぞれに、味わい深い。

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May 20, 2009

父の満洲を偲ぶ兄妹の小さな旅

ついに実現、昨日・一昨日と鎌倉であった満洲・鳳城の会に、小田原の妹も初参加、私と妹との小さな旅が、実現した。

父が暮らした想い出の地、満洲・鳳城のゆかりの人達24名が日本全国から、鎌倉の海岸の旅館「わかみや」に集まった。ただ、坦々と酒を酌み交わす、語らいに、戦後生まれの私も妹も、何か人生で、日常忘れていた大切なものもに気づかされるような想いだった。

当時、満洲で小中学生だった方々の、今まで生き抜いて来られた人生を垣間見る時、また時折見せられる穏かな笑みは、自然の可憐な花を見るように、私の心を打った。

早朝、入浴後、稲村ガ崎の見える海岸を一人散歩した。妹も既に私より早く、同部屋の人他5、6名の女性と共に海岸を散歩して帰る途中、出会った。そこで、記念写真。2009年5月、鎌倉・由比ガ浜にて。

昨日は、小型バスで、鎌倉文学館、長谷寺など尋ねて、午後解散した。昼食の時に出て来た小さな豆を見て、同テーブルの男性が詠った。「ヒヨコ豆、食べつつ 別れ惜しむかな」

会社を休んでの満洲を偲ぶ旅、何ものにも代えがたい人生の旅が出来た。

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May 19, 2009

煩悩・カルマを手玉にとる境地

手の平で、カルマ(業)を転がせる様な境地は、凄いと思った。修行の究極的境地かとも思う。

煩悩は、消すことは必要無し。また煩悩は消えることも無いと云う。

ただ、煩悩を相手にしない、邪魔もしないで、手の平の上で転がして見れば好い。

太陽の光の前には、煩悩のローソクでは消えたのも同然と住職は云う。

参りましたと云う思い。

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May 18, 2009

「命がけ」では、まだ甘い

「命がけ」では、まだ甘いと住職は云った。

最初から、「命を捨てろ」と。

確かに、最初から、捨て切れた人の力は、神々しい。

命がけと云っても、確かに、ひるんでいる様子が透けて見える。

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May 17, 2009

完璧なる懺悔

昨日、住職に聴いた。

完璧なる懺悔は、完全なる闇だと。そして、そこには、完全なる光があると。

それが、解脱だと。

懺悔に対する意味が、崇高に広がった。

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May 16, 2009

懺悔は絶対的世界へ

懺悔は、全仏の前に、絶対的世界に、懺悔すべしと云う。懺悔は精神を浄化すると思う。

自分に対して懺悔したら、それは甘く、いい加減で、懺悔とは程遠い。

謝罪も、相手に向かってのみ謝るのでは、相手を傲慢にする。絶対的存在に謝らねば、懺悔にはならない。

絶対的存在の前に、神の前に、「私は、苦しみを受けます」と云う覚悟を示した時に、苦が友になり、苦への感謝すら湧いて来る。

そのような、懺悔の世界に、私は憧れる。

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May 15, 2009

大自然の中のそれぞれの役割

人は、それぞれに与えられた役割を演じている。逃れようもない役割を演じている。それは、それぞれの人が持つ業みたいなもの。

それは、自らが解決するしかない、自然の掟のようなものだとも思う。

そして、それぞれの人が負わされている役割が合わさって、宇宙は調和を保っているのだとも思う。

色々な役割を負わされた人がいる。そう思えば、人の役割に対する、憐れみの情も湧いて来る。

大自然の営みを見るように、色々な人生の展開を眺められたら好いと思う。

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May 14, 2009

酒は1合程度が好い、幸せも

酒は1合程度が、ほろ酔いで好い。健康にも1日1合程度なら百薬の長にもなると云う。

百薬の長にもなる酒が、止まらなくなると、身体を壊してしまう。

幸せや、お金や、出世も、同じように、未熟な人は、止まらないくらい求めてしまいがちだが、ここに身体も精神も壊してしまう要素が潜んでいると思う。人生を壊してしまうのが、貪り・怒り・愚痴。

貪りは落とし穴のようなもの。

酒は1合程度なら、百薬の長の意味が、今はよくわかる。

酒が1合程度の、幸せで好いと思う。そして、酒が1合程度の幸せなら、すぐそばにも散らばっている。

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May 13, 2009

問題は解決するためでなく、学ぶために

「人生に於ける、あらゆる問題、苦しみは、解決するためではなく、学ぶためにある」とは、素晴らしい人生哲学だと思う。

人生で困難に遭遇した時は、神は私に何を云わんとしているのか? どの様なメッセージを伝えようとしているのか?と自問すれば好い。

全ては、宇宙の法則に則った現象。大きな宇宙の、自然な現象の一部なのだから。

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May 12, 2009

1日6万もの人間の想念

奈良・興福寺の多川住職のインタービュー番組を一昨日たまたま見た時、人間には、1日に約60,000もの想念が去来するとのことに驚いた。

確かに、気づいたり、気づかなかったりするだろうが、6万くらいの思いは、人間の頭の中を駆け巡っていると云うのは、何となくわかる。

60兆の生物たる細胞の集合体たる人間が、1日に6万もの想いか。

人が分かり合えること、わかって欲しいことが、天文学的に思えるくらい、どれだけ困難なことか、わかる。

それでも、分かり合える部分に着目して、分かり合えたと思えば好い。微笑ましい勘違いではないか。

幸せな、可愛い勘違いも、時に、人生には素晴らしい。

そして、個や、孤独は、決して忌まわしいものではないと気づけば、もっと幸せになれると思う。それは、荘厳な大自然がそこに展開しているだけなのだと思う。

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May 11, 2009

「生かされている」では50点、若しくは×

「生きているのではない、生かされているのだ」と云う気づきは、修行の過程で感じる道。

だが、住職は云った。その境地は、まだ50点、△または×であると。

生きてもいない、滅することもない存在。全ての源になっているような、「法則性」なるものの存在。このことを住職は云った。

個々の人間や生物のことを云うのではなく、宇宙を形造っている根源のことを云った。

この「法則性」なるものに、融合した人を、解脱の人と云うとのことであった。

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May 10, 2009

エゴ性、悲しみ・苦しみの根源

悲しみがエゴ性から来る時、その悲しみも、苦しみも消えることは無いと云う。「何で私だけが」と云う、エゴ性を守ろうとする苦しみ。

エゴ性を排除した時に、初めて救済の手が差し伸べられると云う。

エゴ性を排除した瞬間、悲しみは、感謝の念に覆われ、喜びと悲しみが一体であったことを悟る。

昨日の、住職の言葉のメモを読み返す。

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May 09, 2009

人生の優先順位

昨日夜、終業後、浅草で、ノルウェーの友人夫妻の17日間の日本滞在の最後の日の会食をした。千葉で働く娘も駆けつけてくれて、4人で楽しい夕食であった。

私は、結局、日光・箱根・奈良・京都と、その内4日間、夫妻に同行した。その時撮った写真も、全てCD化して、昨晩、お土産として渡した。

彼らの、人生の想い出の旅の記憶の中で、将来、私と云う日本人が連想されるであろうことは、何とも幸せなことである。

私は、周りの人の、かけがえの無い、人生の大事な場面と感じる時、万難を排してでも、そこに立会いたい気持ちになる。常に、そのようなセンサーを持って生きたい。

そうすれば、人生は、アッと云う間に終わってしまうようなことは無いと思う。

想い出す場面が多いことは、人生を豊かにしてくれる。

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May 08, 2009

黙祷が恒例の同窓会

亡くなった父が属していた、満洲・鳳城の同窓旅行会が今年は鎌倉で5月18日19日開催される。満洲を知らない、戦後生まれの私は、父と母の暮らした満洲が無性に知りたくなり、数年前から、毎年この鳳城会には出席するようになった。毎年、全国各地で開催され、私は、仕事を休んで参加する。

当時、小中学生だった方々が主に、参加され、直接、当時の満洲の話が沢山聴ける。当時の満洲の情景さえも浮かんで来る。

今回は、小田原の妹にも、初参加を強力に薦めた。私と妹は、満洲体験者の方々より、はるかに若い戦後の日本生まれではあるが、このような会に、兄妹そろって出席出来ることは、人生の忘れえぬ一場面になると想う。

高齢の方も多く、毎年、黙祷が恒例の同窓会で、ちょっと寂しい気もするが、それも、自然の営みの流れと思えば、益々、今お会いできる機会を大事にせねばと、その時が輝く。

鳳城会の方々と妹と、酒を組み交わしながら、人生を語る。

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May 07, 2009

仲の好い夫婦、仲の悪い夫婦、それぞれの光景

今回、観光来日したノルウェーの友人夫妻は、結婚39年の仲の好い夫婦であった。観光案内している間、時折手をつないだり、ちょっと微笑ましくもあった。同時に、39年の結婚生活を、監獄だよとか冗談も云っていた。

今の私は、仲の好い夫婦、仲の悪い夫婦、それぞれに、人生の味わいとすれば、等しく素晴らしいと云う境地を感じる。

仲の好い夫婦にも、相手を喪失することへの怖れや、ちょっとした秘められた違和感、漠然とした不安など、悩みに於いては、仲の悪い夫婦に引けはとらないとも思う。

仲の悪い夫婦は、自分を表現し尽くしている部分もあり、気楽でもある。ちょっと世間には淋しく見えることはあるが。

仲が好くても、悪くても、それぞれに、人生は素晴らしいではないかと思う。

目の前に広がる大自然を味わうように、その自然な展開を味わえば好い。仲が好くても、悪くても、どちらの境遇でも、幸せのマグニチュード、不幸のマグニチュードは、同じくらいに共に存在していると思う。

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May 06, 2009

3日間が3年のような想い出の旅、

3日間だけ、京都へ行って来たのに、3年くらい行って来たかのように、長く感じる。沢山の驚きに包まれたからだと思う。

京都へ着いてすぐは、一人での京都散策を楽しんだ。北山の円通寺。比叡山を借景にした、質素だが、格式を感じさせる枯れ山水の庭。寺には、色鮮やかな、霧島つつじが咲き乱れていた。偶然に訪れた下賀茂神社では、初めて、流鏑馬とも遭遇。

ノルウェー友人夫妻との旅は、旅館から南禅寺への朝の散歩。平安神宮そばの武道館での剣道・弓道のイヴェント観戦、二条城、金閣寺。そして祇園散策。奈良へも足を伸ばし、東大寺も。

京都のバスの中で見た面白いおばさんの光景。バスの奥の席から、バスの天井の梁に傘の柄を引っ掛けて、運転手さんのいる出口の方へ、バスの中を真っ直ぐ歩くおばさん。皆で、目を真ん丸くして顔を見あわせた。

元芸者さんと結婚したカナダ人男性の祇園案内散歩の面白かったこと。一緒に回った若い英国人夫妻は、ミュージシャンで、記念にCDをくれた。サックスの奏者とのこと。私は、思わず、先斗町のジャズ喫茶、「ハロードーリー」を紹介した。

今回、ノルウェー人夫妻の人生の想い出の旅に付きあって、私も、想い出の京都の旅が出来た。小さな驚きに溢れた、かけがえのない、長い長い3日間であった。

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May 05, 2009

丸の内の響き、イタリア語

"丸の内"の発音が、アラブ人には、イタリア語らしく聞こえると云うので、驚いた。

「何で?」と聞くと、「マルノッチ」と、「ノッチ」が、イタリア語の響き。確かにと思い、可笑しくなった。

ついでに、大手町は思ったが、それは私のオリジナルのギャグを想い出して、また可笑しくなった。

大手町は、何でも、自動的に動く街。 それは、オーテマチックだから。

我ながら、自分の作品に、内心、再び微笑んだ。

読者の皆さん、お疲れ様です。

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May 04, 2009

守谷のパン、小田原

先日、アラブ人を箱根に案内した時、小田原駅前で、地元の人には有名な"守谷のパン"と云うものを買ってみた。

店は、何十年も長く続いてきた店らしく、庶民的だが、何か時代の風雪に耐えてきた、暖かい品格のある店だった。朝11時くらいだったが、店の前には、並ぶ列が出来ていて、アンパンなどが飛ぶように売れていた。

アンパンには、いっぱいの美味しいあんこが詰っていて、昔ながらのアンパンの原型のような、"アンパンマン"のような可愛いパンだった。食べてみると、昔、母が作っていた、あんこの味がするようだった。昔馴染んでいた、コッペパンの皮の色合いも想い出した。

夕方、小田原駅前で、アラブ人を駐車場から見送った帰りに、再び守谷のパンの前に行くと、早々ともう店仕舞い中だった。そして、私は旅の想い出にと、守谷のパンの斜め前にある居酒屋"小田原おでん"に立ち寄った。

その店で、何気なく会話した、夫婦の旅行客も、この守谷のパンの話をしたら、ぜひ食べてみたいとの希望で、その場で一つあげて、食べてもらった。そのご夫婦、喜んで食べていたく感激。店の若い板前さんも、小田原出身で、子供の頃、親によく買ってもらって食べていたと云う。子供時代を想い出してもらおうと、つでに、カウンター越しに、その板前さんにも、アンパンを一つ配った。

小田原で、ほのぼのとするアンパンの想い出が一つ。

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May 03, 2009

"如雨露"と云う当て字の美

昨日、ちらりと見た新聞に、俳句が書いてあり、その漢字に吸い寄せられる想いがした。"如雨露"と云う漢字である。

"じょうろ"とフリガナが打ってあり、"ジョウロ"と云う懐かしい響きと、雨露の如しと云う表現に、何という、詩のような漢字だろうと、そんな漢字の存在を知るだけで豊かな気持ちになった。

「パンジーや 如雨露の水は 風に散り」

如雨露の語源は、もともとはポルトガル語で、"如雨露"とはその発音に真似た、当て字とのことであった。

これは、"当て字文学"ではないか、とその美しさに感銘を受けた。

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May 02, 2009

不幸の表現は自然、幸せの表現は滑稽

「そんな幸せも長くは続かなかった。」「不幸が、これでもか、これでもかと、次から次へと襲った。」とか云う表現は、よくTVで聴くことがある。そのような人生は、さぞ大変だろうと悲しくなる。

そのよくある文章の、不幸と幸せを、逆に入れ替えて試みると、ちょっと人生観に刺激になると思う。

「そんな不幸も、長くは続かなかった。」「幸せが、これでもか、これでもかと、次から次へと襲った。」

換えて試ると、滑稽にさえも響く。

不幸に対する、大げさな扱いは自然で、幸せに対する大げさな扱いは滑稽に響く。

人は、不幸に対する虫メガネしか持ち合わせていないのだろうか。


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May 01, 2009

神様への頼みごとは不要

神様への頼みごとは、誰しもが幼い頃から体験すること。

だが、座禅の哲学で、神とは対等ではなく、神とは契約するものではないと云うことを何度も、気付かされた。

「条件付きの幸せを求め、その条件を神に頼む」ことは、余りにも子供っぽく、愚かな、哀しい願いのようにも感じる。

条件を付けずに、大安心の、穏かな幸せの境地は無いのか?これが、住職が若い頃、苦しみの末に出家された時の心境であったと云う。

「神にはゆだねるもの、条件を付けて契約するものではない」。絶対的に神にゆだねた時、身も心も一挙に軽くなるような気がする。

「結果は、全て神のもの」。

どんなに高いところから飛び降りても、下では、神のセイフテイー・ネット(安全網)が、フワリと身体を受け止めてくれている。確かに、人生では、そんなことが多かったと思う。母の微笑みを想い出す。

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