「第一人者」、「専門家」の響き
昨日、終業後、新丸ビルで、経済講演の会に出席した。
司会者から、第一人者とか専門家とか論客とか、称される人達をまじかで見ると、余り魅力的な性格で無いことが、妙に、印象に残った。
他の人の意見と対立を際立たせて攻撃的に自説をアピールする人、冷たい官僚を想起させる人、それが第一人者かと、ちょっと寂しい気がした。
世のサラリーマン達も、これらの人達に憧れていては、人生も決して幸せにはなれないと思った。
昨日、終業後、新丸ビルで、経済講演の会に出席した。
司会者から、第一人者とか専門家とか論客とか、称される人達をまじかで見ると、余り魅力的な性格で無いことが、妙に、印象に残った。
他の人の意見と対立を際立たせて攻撃的に自説をアピールする人、冷たい官僚を想起させる人、それが第一人者かと、ちょっと寂しい気がした。
世のサラリーマン達も、これらの人達に憧れていては、人生も決して幸せにはなれないと思った。
最近、日経新聞の大磯小磯と云う経済評論欄で、市場価値評価を幻想価値評価と評する記事を読んだ。
実際購入した簿価は、時と共に市場価値(時価)と乖離して行く。現実は、通常の取引なら、時価でないと、決済されない。
幻想は、楽しい楽観的な幻想、根拠無き熱狂もあれば、悲観的幻想もある。物は、人間の付ける価値の増減に関わり無く、ただ淡々と存在している。
市場価値も幻想、簿価も非現実的、拠り所は、自分が下す価値。
価値は絶対的な価値で現すより、優先順位で現せばわかり易いのかもしれない。
原始的に、私の価値の優先順位は何か考えてみる。確かに、心の中には、価格に表せない価値が、存在している。そう考えると、金や名誉と云う幻想以外の、深い人生の価値観は、神々しく輝く。
お腹がすいている時は、食べ物がとても美味しくなる。空腹は自然の調味料と云う。
お金も、自由に使える程、沢山あれば、簡単に手に入ることで感動を鈍らせる。
物質的な豊かさを求めつつも、適度に空腹、適度に金が無いことは、寧ろ、人生の隠し味。
食べ過ぎた時の空しさ、気だるさ。お金持ちの、傲慢さ、身勝手さ、軽さを想起する。
寧ろ、進んで、ちょっと空腹に、ちょっと貧乏に保つくらいに、意識的にした方が、人生は、感動的に、感性が鋭敏に保たれると思う。ものの価値が輝いて見え、人生が清く、瑞々しいエネルギーに溢れて見える。
それは少食が健康の秘訣と云うのと似ている。
昨日は、小田原・開成の妹の家から、新幹線で東京へ出勤した。私は開成の田園風景を早朝、散歩するのが大変好きで、昨日の朝も、清々しい田園風景の朝の散歩を楽しんだ。
朝6時くらい、玄関のドアを開けた時の、ちょっとひんやりした、秋の澄んだ空気が、何とも云えない。
私は、ドアを開けた瞬間、何故だか就職した直後の自分に一瞬にして返ったような気がした。全てが始まるような、何か飛び立つような、あの当時の心が、朝の空気が呼び戻してくれた。
最初の赴任地、新潟で、独身寮から、毎朝、歩いて朝市の前を通って沼垂四つ角の前の製油所へ通勤した。当時と同じような、朝の空気や風を感じた。
自分も友達もみんな、何処かに飛び立とうとしていたあのころ。
今は、同じ空気を吸っても、自分の飛び立つべき空は確固として見えているように感じる。当時より、穏かに幸せな気持ちで、朝の光景を味わっている。
世の大抵の親達は子供の幸せを願って、勉強しなさいとか、子供にあーしなさい、こうしなさいと云う。子供の幸せは、即ち親の幸せでもある。ちょっと拡大した、エゴとも云える。
親が、子供の幸せを願う前に、「人に役立つ人、社会に役立つ人になりなさい」と叱咤激励出来る親は、すごいと思う。
「自分は幸せでなくても、人に役立つことを目指しなさい」と利他の心を説く親はすごいと思う。
自分が幸せになることは、本人にとっては、隠れて美味しいものを食べてるようなものに感じる。
「自分の幸せを犠牲にしてでも、人に役立つことをしなさい。そしたら、母は褒めてあげます。」と云える親に私は感動する。
父の満洲引き揚げ体験の中で出て来る袁さんと云う人は、父達家族の危険な引き揚げの時、神様のように手助けをしてくれた中国の人。父の遺稿・満洲脱出記に名前が出て来る人。
私の命の恩人と思う人は、実は、アラブ人のアル・アワデイーさん。私の再就職の時、スムーズに石油業界に再度復帰出来たのも、彼のおかげだった。初めて、会った時、彼の笑顔、話をした時に彼の横顔に、私は母の優しさを想い出した。亡くなった母が私を助けに来たのだと思った。彼はもう、アラブに帰任してしまったが、私の人生の危機を救ってくれた。
そのような母の恩人は、父だったと思う。夫、子供を病気や引き揚げの前後に亡くし、呆然としている中、光を与えてくれたのが、やはり配偶者を亡くした父だった。父は、母が、もう一度、生きようと云う気持ちを起こさせてくれた人だったろうと思う。母は父が亡くなった時に云っていたと云う。この人と一緒になって良かったと。
そして、もう一人、母にとっての命の恩人がいた。それは、再婚して初めて生まれた「私」だったかもしれない。
自己主張は陽のエネルギー、私はここにいますとアピールするエネルギー。若さには自然なもの。赤や黄色など激しい原色を想起する。
無我は、陰のエネルギー、私はどこにもいませんと透明人間になってしまうようなエネルギー。熟年には自然なもの。「わびさび」の境地を想起する。
派手な美、隠れた美、それぞれに感じるものがある。自分の気分の状態がその好みを決めている。
ちょっと見ると、気づかないが、「あれっ」と発見する隠された美は凄い。奥行きの知れない美は神秘的にさえ見える。そのような美の存在に気づかせてくれるのが、陰のエネルギー。
誰知れず積む徳も、「陰徳」と云う。誰にも、気づかれるつもりも無い「陰の徳」は、人に気づかれる徳とは比べようも無い衝撃。
宇宙一杯に美が拡がる。
「成功者は、失敗者と見付けたり」の悟りを感じた。
「あの不安定な傾きを見なさい」と云う私の内面の直感的な気づきは、そう示唆していた。
成功でも失敗でもない、あの平衡に保たれたシーソーの美しさは、つかの間の均衡の故なのだろうか?
あの安らぎは、何なのだろうか。それは、休息と修復と、またエネルギー再生の泉のような瞬間。そして、何よりも、穏かに美しい瞬間。人工的な美では無い。
オリンピック選手になっても、大金持ちになっても、それは大きなシーソーの傾きを表している。その傾きを生み出した人工的な力が大きい程、自然の美に比べたら、不安定で美しさには程遠い。世間で云う極端な成功は、シーソーのアンバランスな傾きの瞬間なのだろう。
成功でもない、失敗でもない瞬間に、「穏かな、圧倒的な美」が隠れていたことを発見した。
割り箸の真ん中を支えて、左右に振らし、遊園地のシーソーをイメージするのが、とても示唆に富んでいる。
富が多い、少ないはあっても、人のやってる行為は、このシーソーのようなもの。多く稼げば、無駄な程多く使い、少なく稼げば少なく効率的に使う。人生の中身は、多く稼いだ人が、少なく稼いだ人より必ずしも豊かとは云えない。
歓びは、反対方向では、同じ程の強さの哀しみが待機していて、哀しみの反対方向には、歓びが待ち構えている。遊園地のシーソーのように。激しい結果を求める人には、激しい反動が待っている。
自然界は何事にも、バランスを取る働きがある。色んな事に、目くじらたてることは無い。何事も、いずれ自然にバランスの世界に吸収されて行く。
坐禅の世界では、人さし指を立てて、「今ここ」と云う境地を、修行が進んだ境地として度々聴く。「一指頭の消息」を知ると云う。
過去でも未来もない、ただ猛烈なスピードで過ぎ行く「今の集合体」を表現したのであろうか?私は、微笑んで、「今 ここ」と指を立てて、云える境地を夢みる。
生でもない死でもない境地。縦でもない横でもないゼロの静寂の瞬間のようなものかと思う。
人生80年の間休むこと無く、繰り返す心臓の鼓動は、実は、収縮と拡張の間の、収縮でもない拡張でもないその間の瞬間に、修理と休養の時を得ているのだと云う説を、意外にもアラブの友人から聴いた。
吐く息、吸う息の丁度境目。そこに何があるのか。虚空世界の膨大なエネルギーを感じる。
19日日曜日の朝、横浜中央魚市場の市場祭りに出掛けた。朝9時過ぎには、既に1万人の人出だったとのこと。その活気は、何か遠い昔の子供時代に感じた街の活気を想い出させた。昼間は2万5千にもなると云う。
そこには、生き生きした人間の生活の息吹が溢れていた。それは、心地好い、人間の生命の祭りのように思えた。
前日、韓国出張から昼に帰って、午後、等々力の東京都市大学の学園祭で、山本寛斎氏の講演を聴いたが、何故かそのことが脳裡にだぶった。
山本寛斎氏は、モスクワ赤の広場での12万人の大イベント、ベトナム、インド、日本でも武道館大イベントなど、大きな祭りを企画したり、人々に元気を出させることを夢にして、走り続けているとおっしゃった。でも毎日、泣いていますともおっしゃった。
私は、思った。何億円もかけて、人工的に、何か大きな装置を造り、整然と太鼓をたたいたり、空中ショー、をしたりして、人々を驚かせるイベントをしても、自然に起こる人々の生活の中のイベントが、それにも増して、元気を与えてくれるように思う。人工的な絢爛豪華は、私には、いくら金をかけても、生活の中から自然に出て来る素朴な行事には及ばないと思う。
生意気な考えかもしれないが、山本寛斎さんの生きかたも、辛かろうと思った。そんなに自分を酷使して走り続けなくてもいいのにと、不図思った。
人生観に、自分が見てる現象以外のものがあることを感じることは、穏かな人生には大切なことだと思う。
色々なものを手放すことに比例して、その現象以外のもの、即ち「ものの背後にあるもの」が見えて来ると云う。
自分を手放してしまった時には、殆どのものは消滅するが、残っているものの存在も感じる。それは、永遠にして安らいでいる虚空世界の意思のようなもの。
身体、精神、霊魂は、別のものではなく、一つのものが別の側面を出しているだけと云う。(身体・精神は現象世界、魂は非現象世界のもの)
静寂の虚空世界から人生を得て、右往左往して人生を旅して、そしてまた、静寂の世界へ帰って行く。
自分が他の人の為に蜘蛛の糸を手放した時、一瞬にして、その世界が開け、蓮の花の上、お釈迦様の手のひらの上に乗る。
10月13日から18日まで、アラブの本社の役員他の一行7人とフルに行動をともにし、日本の石油会社・韓国の石油会社を訪問、東京・ソールでそれぞれ顧客対象のレセプションを行った。私も今年3回目の韓国訪問であった。
時おり、会談の途中で、各社の経営陣の話や内容、雰囲気を見ながら、第三者的に、各社を観察できる今の私の立場も、中々楽しいものだと思った。
それぞれの、経営陣の器量が面白い。
その人が、何に関心があるか、表面的か深いか、実力派かゴマスリ派か、何となく、すぐわかってしまう。誠実か否かも。
役職に関係無く、若いスタッフでも、すごく魅力的な哲学・可能性を秘めた人もいる。
人は、役職では無いと思いながら、自分のかつてのサラリーマン時代を想い出しながら、可笑しくもまた懐かしい。
先日、緒方拳さんが亡くなった時、彼の「楢山節講」の映画のシーンをちらっとTVで見て、感じるものがあった。
山に母を背負って行く息子の気持ち、愛する息子に背負われて行く母の気持ち。私は、私の内面に、その両方になり切れる気持ちが存在していることに気づいた。
いよいよ最後の別れの時、母を見つめる子の気持ち、子を見つめる母の気持ち。
人生の過酷さ、美しさ。
宇宙に、永遠に消えない縁(えにし)は続く。永遠にして安らいでいる世界。
数日前に、週刊誌の見出し記事に、また政治への哀しい驚きを感じた。
鳩山幹事長は小沢代表へ云ったと云う。「命を賭して総理になりなさい、そして死んでもらいます」
私は、若貴兄弟における「横綱」と、「総理」を同じに感じた。
政治家は、「変えよう」とか、よく云うが、どう変えるかが、遙に大事なことがわかっていない。フライパンから火の中に投げ込む変革をして、社会を引っかき回すことも多い。自民党も民主党も、それは同じ状況。政治家には、内面から湧きだして来るような、社会に身を捧げるような、圧倒的なエネルギーを感じさせる人はいるのだろうか?
何の為に、総理にならねばならないのか?命を賭す覚悟は、何の為なのか?それが無いまま、総理を目指しても、しらけた、身勝手で、我欲にまみれた、滑稽な茶番ではないかと思った。
崇高に、身を捨てて、人や社会に尽くす覚悟は、言葉ではなく、目をみれば、姿をみれば、感じるものではないだろうか?
芸術の力は、すごいと思う。まるで宗教にも似たような力が存在しているように感じる。
表現する歓びを知ると、芸術の世界に入って行くと、人間関係のことは、もはや悩み煩わされる存在ではなく、表現する対象の一部に過ぎないような境地に入って行くのではないかと思う。
芸術は、表現は、歓びも哀しみも、全てを、包み込んでくれる。
旅をして、周りを見て回ることは、生命への感謝。
人生が、世界が、こんなに驚きに満ちた、感動の場所であった事に気づかせてくれるのが旅。
旅は、母を感じることと同じ。
そして、旅は、仏像を感じることにも似ている。
幸せの中に哀しみが潜み、哀しみの中に幸せが潜む。
哀しみが夜明け前の陰の世界、幸せが昼間の陽の世界。
一人の時は、闇から、再会の世界の光が射し込む。
大切な人と一緒の時は、夕日を惜しむ、寂しさが漂う。
陰は、闇は、一人は、実は、希望に満ちた昇り坂。
そして、その先に、闇も光も、もはや一体のものに感じる世界が拡がる。
赤ちゃんには、無私の行為があると云う。
成長するにつれてその無私の行為はなくなり、死ぬまで、もはや無私にはなれない。
それは、「生は吾(われ)」であり、「死は無私」であるからだろうか。
死から、脱した直後の生だから、赤ちゃんには、無私の名残りがあるのだろうか。
無私の行為をみる度に、眩しい程の光を感じる。
クラゲの蛍光たんぱく質を発見されたノーベル賞の下村先生の話で、私は思った。自然界は神秘に満ちていると。
そして、その神秘に気づき、自然界を深く知ることは、生命への畏敬や、生命への感謝に繋がって行くと。
研究に没頭している人は、たぶん、おとぎ話のような世界に住んでいて、他の人は全然知らない、素晴らしいロマンに導かれているのではないかと思った。
衣食住が何とかなったら、金になってもならなくても、何かを探求しようとする生き方は素晴らしい。浮世離れしたくらい、金にならないことに関心がある人は、最高に魅力的に思う。
「知ること」は、宇宙の意思を感じること。「知ること」は、畏敬と、人生・生命への感謝に溢れている。
今もし、両親が生きていたら、別れることが辛くて辛くて、耐えられなかったかも知れない。
両親を亡くした時は、何か、他のことに気を取られ過ぎて、その辛さは、今よりもずいぶん、少なかったように思う。
自分にはまだ遠いものだが、誰しもある人生の寿命のようなものを感じて、ただ淡々と両親の死を受け止めていたように思う。
でも,今思えば、両親とどれだけ、話したいか、一緒にいたいか、測り知れない。人生の価値観・優先順位を間違っていた。
それでも、今、私の脳裡には、私の成長を見て、優しく、微笑んでいる、両親の姿が見える。
今、両親が生きていたら、別れの辛さは、測り知れない。
また、幻だったお金に注目が集まっている。経済を活性化させると称して、実体の経済価値の3倍以上ものお金を市場に垂れ流してしまった世界。
その肥大化した、紙切れのお金に世界が気づいただけ。幻のお金が消えて来たら、石油価格も下がって来た。
中国・インドの需要が急増しても、石油を1割上げるか、3倍に上げるかは、市場に供給されているお金(信用)が決める。歴史上無いくらい莫大な、お金(過剰流動性)を垂れ流して、貧富の差も拡大していたが、これで、少しは貧富の差拡大に水もさすだろう。
お金は幻、紙切れと感じることは、穏やかな充実した人生の基本だと思う。
過去の何万年もの期間に、遺伝子に蓄積された印象・気分が、気づかない内に、今の人間の、次の行動を決めている。
今の行動は、過去の印象・気分の集大成。壮大な力学。すごいなーと思う。
そして、理性・精神を高めることで、その行動も、壮大に軌道修正もされる。運命に立ち向かう立命。
これからやる私の行動は、今まで私の集大成。
宇宙開発のスペースシャトルは、様々な精巧なシステムを詰め込んだ、人間の知識・科学の粋を集めた莫大な価値のある機械。何万と云う、設計書が組み込まれていることだろう。1回の打ち揚げ費用が800億円と云われるスペースシャトル。
一方、人間の身体は、60兆の細胞と云う生物からなり、そのスペースシャトルの何万倍のシステムが詰め込まれた神秘の装置。人間が何年かけても、人間の叡智を、どんなに重ねても、設計して造り出すことは不可能。
人間の身体をもって、いま生きていることの財産は、測り知れないことに気づく。
もう、人生で起こる殆どのことは、誤差の範囲。どちらでも好い。
宝くじよりすごい、もうこんなに素晴らしい装置を授かって、あれこれ云うことは無い。ただ、自分の持ってる、このスペースシャトルよりも、遙にすごい装置に、驚嘆し、感謝する。
アマゾンの原住民には、自然と云う言葉が無いと云う。何故ならば、「不自然」が無いから。
幸せと云う言葉は、「不幸せ」の証。
サターンを消す為に神を得て、サターンを消したら、神も消える。
昨日、住職から中道に就いて聴いた。
「あって好し、無くても好し」の境地。憧れの境地。
歴史を勉強した上で、信長や秀吉を尊敬する人は、意外にも多いと思う。政界や財界と云った社会のリーダーにも多い事は、私にとっては、驚く程、嘆かわしい気持ちになる。
信長や秀吉に限らず、私は、その歴史上の人物が、我欲・強欲にとらわれ狂人状態であったかと云うことを想像してみる。意外と歴史を動かして来た人々は、そのような修羅・餓鬼道のような状態であったろうと思う。
何かの目的の為には、手段を選ばなかった彼等の行為が、寧ろ尊敬に値すると云うのであろうか?
社会・人々の為にと云う気持ちが、信長・秀吉にあったであろうか?社会・人々の為にと云う気持ちが根底にあったならば、あの残虐非道、殺戮、侵略を行っただろうか?歴史上に名が残って社会を変えたとしても、それは我欲のなせる極端な事件のようなものであったと思う。
歴史や社会は、極端な我欲のぶつかり合う、戦いの事件簿みたいなものか。私なら、尊敬するに値する人は、我欲から遠ざかった、利他の心を持った、名もない、普通の人にそれを見出す。
平等と云う思想を突き詰めて考えて行くと、何故か「怒り」が芽生えて来るような気がする。
権利と云う思想を突き詰めて考えて行くと、何故か「貪り」が芽生えて来るような気がする。
自分が持たざるものには、平等主義を。自分が持てるものには権利主義を。それが、人間社会をつき動かしているように思う。
市民革命の旗印のように、思って憧れて来た思想が、怒り・貪りの温床になるなんて、驚きであった。
宇宙は、人間の身勝手な平等や権利思想を遙に超えた、ただ大自然の営みを現しているだけ。
行きつけのジャズ喫茶の御客さんが、先日、東京造形大学の文化祭か何かに行った時、学生の斬新なイラストに、感銘を受けたと云っていた。
親子のイラストに、「嘘から出たまこと」と題が付いていたと云う。・・・・・一瞬、面食らうが、中々の奥の深い表題に感心。暫くして、可笑しくなって、そして納得。
仲の好い女どおしの友達のイラストには、「優しい攻撃」との表題だったと云う・・・、これも面白い。
私なら、親子の動物の絵に、「優しい攻撃」と云う題も好いと思った。親離れしなければならない、野生の動物に、親が、優しい攻撃をして、子が独立するのを促すシーン。私も、母の「優しい攻撃」を想い出す。
今朝、日経新聞の見出しに驚いた。「時価総額2,000兆円目減り、世界の株、ピークから1年で」とあった。
2、000兆円を考える時の私の物差しはOPECの石油収入、昨年のOPEC全体の石油収入は約100兆円。
これだけ石油価格が上がって、騒がれているOPEC産油国の収入が100兆円。株価が下がったのは、その20倍。
いつの間にか、醜いほど巨大化させてしまっていた、金融経済の虚像を見る思い。金まみれの亡者が見える思い。
質素に暮す、穏かな、豊かさ、平穏と比べれば、経済的な成功を追い求め奔走するのは、餓鬼、修羅の世界にも見える。
今日は、九州石油さんが日本石油さんと合併する日。感慨無量。
アラブでは、断食月が昨日終わり、今日からラマダン明け祭日が10月4日まで続く。私の勤務する日本支社も今日は、1日だけの特別休暇。2,000兆円を失った世界。世界が年間に稼ぐ5,000兆円の約40%を失った世界。想い出に残る、新聞の見出し。