天国じゃ退屈過ぎる?
天国とか地獄とかの世界は、二元論の世界であるが、輪廻の輪で見ると、天国と地獄が隣合わせであるのは面白い。
住職は、「天国じゃ退屈過ぎるでしょう」と云う。
皆の為に、私だけ地獄へ落としてくださいと云う気概は、寧ろ、本気なら天国へ突き上げられ、強く天国へ行きたいと願う心は、寧ろ貪りにも似て、地獄へ近づく。
一元世界を見て、二元に還り、仏界から地獄まで、自在に転ずる境地。これが人生の極意なのではと思う。つまり二元に遊ぶ境地。
天国とか地獄とかの世界は、二元論の世界であるが、輪廻の輪で見ると、天国と地獄が隣合わせであるのは面白い。
住職は、「天国じゃ退屈過ぎるでしょう」と云う。
皆の為に、私だけ地獄へ落としてくださいと云う気概は、寧ろ、本気なら天国へ突き上げられ、強く天国へ行きたいと願う心は、寧ろ貪りにも似て、地獄へ近づく。
一元世界を見て、二元に還り、仏界から地獄まで、自在に転ずる境地。これが人生の極意なのではと思う。つまり二元に遊ぶ境地。
生まれて以来、成年期へ向けて、ドンドン自分と云う意識が大きくなって、暫くまだまだ、自分と云う意識は肥大化して行く。肥大化し続けて、人生の最後まで、地獄の苦しみを味わうこともある。
自分と云う意識は、云わば陰陽の陽、プラスの世界とも云えると住職は云った。
プラスは同じ量のマイナスが無いと統一されない。重すぎる「陽」「プラス」では、矛盾が強く、辛かろう。
「私が・・の想い」を無くすことが、「陰」「マイナス」エネルギー。自分が肥大化させた「私が・・の想い」を、中和させ、統一させてくれるには、対応する同じエネルギーが要る。 プラス10にはマイナス10が要る。そこに、私から離れることの重大な意味が存在している。
私は想った、死は、「マイナス」、「陰」の世界、我が無い世界。そして、人生においては、そのマイナスとプラスが調和する世界を、感じる境地が、最高に安らいでいる境地であると。
「消えないものは、現れないもの」、「本質的なものを求めなさい」住職は云った。
1000万年単位で見れば、全ては消えてしまう。
過去の印象・気分の総合計の、大きな雲にグルグル巻きにされた存在たる人間。人生に降りかかる問題は、解決すべき問題ではなく、ただ、学ぶべきもの。その過程は、大きな曇りを取り除いて行くことに似ている。
「生じもせず、滅することもないもの」・・・・・・。幻想のように刻々と変化するものを写しだす、永遠に不動のもの・・・の存在。
虚空世界に一杯に拡がるような、「全てが私であった」と云う境地。
私は、厚い雲をコツコツと取り除く合間に、ちらっと光を感じられるくらいまでは、私が受け持った私の人生の間に到達したい。
私の両親が亡くなって、もう10年以上、それなのに、私は、現実に両親が生きているかのように、心は身近に両親と対話して生きている。
鮮やかに鮮明に、両親の表情までも読みとれる。もう二度と会うこともないかも知れない、人生で出遭った大切な人達も、両親と会うのと同じように、自在に対話して生きている。
いつでも、どこでも、脳裡には、両親や大切な人を呼び出せるから、もう一度だけでも会いたいと云う願望は、意外と無く、不要でもある。それは、「会えなくてもよい境地」と私は名付けた。
昨日は、元の会社の職場の当時若手男女5人に囲まれて、築地で一杯飲んだ。私は、はしゃぎすぎて、また、ギャグ・ジョーク炸裂。
当時から私のギャグにさいなまれつつ、仕事していた彼らにとっては、今は、私のギャグも懐かしかったかもしれない。
彼らも覚えていた。会社の安全標語応募作品で、落選したある社員の名作。 「ラーメンは塩こしょう・安全は指差呼称」・・・・、「豚は角煮・安全は確認」・・・・。 この名作を評価する力が当時の会社の経営陣にはなかった。足きり、審査委員会対象外扱い。
私は、今は退職されている、この標語の作者とは、年賀状のやり取りは続けている。私の会社生活で、最も印象に残る人かもしれない。社長の発言は殆ど忘れたが、この傑作は、脳裡から消えようが無い。
ある後輩は、私の影響で、メールの最後に時々、「炊飯器!」と書いてますよ。と云ってくれた。友達に聞かれたら・・・・「ジャー」と続けると。大丈夫かな。そんな生き方?とも思うが、マーいっか。楽しい後輩達に乾杯。
人は接近したり、遠ざかったり、天体の変化、星の位置の変化にも似ている。
ある友人・知人は、その後の人生で、消息不明や忽然と姿を消してしまうこともある。誰しも、ある人にとってみれば、消息不明の部類になることもある。
人間関係の縁は、神秘的な星の引力の強弱のようなものだろう。
親子・大切な人との遭遇は、何百年振りの星の接近のようなものかもしれない。また、次は、何百年、何千年後かもしれない。
あらゆる不孝も幸せも、近づいたり、離れたりする星の作用のように壮大な宇宙の営みかも知れない。
私の家の近くに、宅地の家屋を取り壊し更地になった場所が2ヶ所あって、毎日その様子を見ながら生活しているが、雑草の成育の早さ、逞しさには驚愕する。
4~5ヶ月で、うっそうとした雑草のジャングルになってしまった。また、誰かが家を建てる時には、刈り取られてしまうだろうが、この光景は、私には驚きだ。
抑えられても、虎視眈々と、この時を待っていたかのようにすくすくと伸びている。何十年も、聖地の回復を狙っていたかのように、太陽の光を満喫している。
自然界にとっては、人間も雑草も、大差なかろう。大自然にとってみれば、どちらでも、好い。
雑草と人間が呼ぶのも、人間の傲慢。雑草も一つ一つ名前もある、れっきとした自然の生き物。彼らは、人間を雑人と呼んでるかもしれない。
母は、私によく「負けるな、雑草のように逞しく生きろ」と云っていた。小さな宅地にうっそうと茂る雑草を見る度に、母が微笑む。
最近、「太らない生きかた」(栗原毅・東京女子医大教授著)と云う本の中で、グリセミック・インデックスの低い食品を食べなさいとのアドバイスがあった。即ち、血糖値の上がるスピードの遅い食品(GIインデックズの低い食品)を、心がける事で太るのを防げるとのことであった。確かに思いと、気になりメモをした。
GIインデックズの高い食品例
***<主食系>白米より玄米が良い
菓子パン(アンパン) 95 、 フランスパン 93、 食パン 91、 ビーフン 88、 精白米 84、うどん 80、 赤飯 77、 クロワッサン 68、 スパゲッテイ 65、 中華麺 61、 ⇔ 玄米56
***<野菜・きのこ・豆類>ジャガイモより薩摩芋が良い
ジャガイモ 90、 ニンジン 80、 とうもろこし 70、 かぼちゃ 65、 長芋 65、⇔ 薩摩芋 55、 豆腐 42、 しいたけ 28、 なす25、 ホウレンソウ15.
***<果物>パイナップルよりイチゴ・リンゴが良い
パイナップル 65 ⇔ スイカ 60、 バナナ55、 ブドウ 50、 リンゴ 36、 イチゴ 29.
***<菓子類>菓子類は問題
キャンデー 108、 どら焼き 95、 チョコレート 92、 せんべい 89、 大福 88、 クッキー 77、 アイスクリーム 65、 ポテトチップス 65。
日の出・夕日は、母との時間を想い出す。朝早く、母が家族の為に頑張っていた姿。夕日は、一緒に家の裏の岩山に腰掛けて、西へ飛ぶ鳥たちと共に、夕日を見送ったことを。
日の出と夕日は「母との穏かな時間、生命を感じる時間」。
日中は、父との時間。こうして生きたら好いぞ。この方が便利だぞ。この方が安全だぞ。これが義理ってもんだぞ。など・・・日中は「父の導きの時間」。
日の出と夕日に、生命の神秘と感謝を感じ、日中は、私が神(宇宙の意思・大自然)に与えられた役割を果たして生きる。私は、大自然の一部なのだから。
とても哀しいこと、とても嬉しいことが多いと、人生はスローモーションに感じられる。
どちらでも好いと、感動が少ないと、あっと云う間に、人生が、早送りされてしまいそうに感じる。
私は坐禅をする時、坐禅は、私の人生のシーンを巻き戻しをしてくれたり、未来への先送りもしてくれるような気がする。無我の境地に至るであろう前の、楽しい幻影だと思っている。
現実も哲学的には幻、未来も幻。より現実味を帯びて感じさせてくれる力は意識の力。
人生の感動のシーンは、変幻自在。
何と云っても、人生の大敵は、「貪り・怒り・愚痴」という事は、何度も住職のヴェーダンダ哲学の中でも聴いた。
人間の精神を蝕み、餓鬼・畜生に堕ちていく人生の最大の大敵。
確かに、私は、貪る人に美を見たことが無い。ブレーキの効かない人は、坂をかけ降りる。
怒る人には、その怒りが治まるまでは、愛を感じ近づいて行くことは出来ない。孤独な地獄に堕ちて行く。
愚痴ばかりを云う人は、闇ばかり見て暗い暗いと嘆いている。「水の中で、渇を叫ぶ」が如しと云う。
改めて、「控えめに、穏かに、感謝して生きる」ことの、素晴らしさを感じる。遠慮がちな人生が、寧ろ輝いて見える。
先日、三浦海岸で行われた、あるセミナーで、海に向かって何か大声を出す競争があった。
「バカヤロー!」とか、「金が無い!」とかの叫びが多かったが、私は、何が命の叫びに相応しいか考えた末、結局「ありがとう!」と叫んだ。
大きな海原めがけて、打ち寄せる波の音に負けないように、身体を揺すって声を張り上げ、「ありがとう!」と叫んだ。
両親、即ち宇宙に向かって、「ありがとう!」と叫んだ気がした。
叫ぶには、一番相応しい言葉が、「ありがとう」だった。これも人生の大発見。
身体は意識(心)が造っていると云う。意識(心)も身体も変化するもの。そして、魂はそれらの変化する意識や身体を映し出すスクリーンのような不変のものと云う考えを知った。
意識や身体は分解・滅亡が可能だが、魂は死ぬことができない存在であると云う。
そして、魂・意識・身体は、同一の実体の3つの存在と一元論は説いていく。
魂に映し出す意識や身体を、どう穏かに保つかが、人生の課題なのだろうと思う。
池の水は、かき回すのを止めると、澄んでくる。身体や心の調子が悪いと、じっーと、できない。
心の多くの部分は気分の集合体であるが故に、ものにすぐ反応して、気が散ってしまう。坐禅とは、じっーとして、心を澄ませることだと云う。
ヴェーダンダ哲学とは、片手の音を聴くことと似ていると住職は云う。白隠禅師は「隻手の音」を聴きなさいと云った。
心を澄ますと、片手の音が聴こえるような気がする。虚空世界の永遠にして安らいでいる世界がちらっと感じられる。
じっーとする時間は、人生では、とても大事なこと。
昨日朝、横浜の地下鉄みなとみらい駅から地上へ昇る階段の壁に、大きな字の詩が書いてあるのを初めて、全部読んで、衝撃が走った。探していた境地が、書かれていて、心が一挙に軽くなった。それは、ドイツ人のシラーの詩であった。
「樹木は成育することのない無数の芽を生み、根をはり、枝や葉を拡げて、個体と種の保存に有り余る程の養分を吸収する。樹木はこの溢れんばかりの過剰を、使うことも、享受することも無く、自然に還す。動物は、この溢れる養分を、自由で嬉々とした自らの運動に使用する。この様に自然は、その初源から生命の無限の展開に向けての序曲を奏でている。物質としての束縛を少しづつ断ち切り、やがて自らの姿を自由に変えて行くのである。」
私は、この壁の前を何度通ったことだろう。全部、読んで、心は、泣きじゃくりたくなる程の発見の歓びであった。宇宙・自然の自己犠牲。自他一如の世界を、このように詠いあげてる詩を私は見たことはなかった。
外の世界は余りにも多種多様。巨大で複雑で、神秘。人間の体験も、余りにも多種多様。そのこと自体は、自然の営み、宇宙の摂理の一環。
そのなかで、人間の脳は、自分が見たいものを見て生きている。他の多くの事を無視して、何かに気を取られて、何かを見ている。
だから、それぞれの人の人生観が、違ってくる。それは、群盲索象に似ている。
人生では、自分が見たいものも、脚色も、評価も、意味付けも、全て自分に任されている。
今日も、私の「力作」に取り組む。「私は、何を見たいのか」と。
年を取る程、食べなければならないのがたんぱく質。古来、節分の時の豆も、年の数だけ、多くを食べろと云う。たんぱく質は、身体そのもので、年を取った身体の修復に不可欠。
がんの増殖を防ぐ(がん増殖の新生血管増殖を抑制)効果もあると云う。痩せる為には筋肉が大事だが、筋肉はたんぱく質。
たんぱく質の王者は、大豆・黒豆・枝豆。改めて、豆に、感謝の敬礼!
たんぱく質の効用まとめ:
(1)骨そしょうしょう予防(骨もコラーゲンはたんぱく質、コラーゲンにカルシウムが沈着して骨が出来る)
(2)動脈硬化予防
(3)血栓予防
(4)高血圧予防
(5)がん予防
(6)更年期障害予防
(7)循環器障害予防
空を見上げて「ETお家帰る」と云うシーン、かぐや姫が空へ帰るシーン、池の小石がポチャンと作る波紋が消えて行くシーン、これが、今朝の私の連想。
芭蕉の「蛙飛びこむ水の音」には静寂に表れた波紋がまた、また静寂に溶け込んで行く様が浮ぶ。
人生も、一つの波紋。それぞれの波紋が、ちょっと共鳴したり、衝突したり、渦潮を作ったり、遠すぎて接することも無かったり、そして、また静寂に帰って行く様が、心を穏かにさせてくれる。それを一生と見ても好し、一日と見ても好し。
人生で誰しもある大切な人との別れの場面も、ETがお家に帰るのを見送ってあげる気持ちになれば好い。大騒ぎしながらも、かぐや姫を見送ってやる気持ちになれば好い。それは、喪失感ではなく、静寂へ帰る水の波紋なのだから。
人は印象・気分の集合するエネルギー体のようなもの。と云うのは、ヴェーダンダ哲学の中で、学んだ。
それは、気づくことの無い、生まれる前からの遺伝子の成せる技、合成の芸術。
何万年も蓄積された印象・気分。哀しみと喜びの織り成す印象・気分。
時に、印象・気分を超えた世界を垣間見れたらと想う。
私が、製油所の現場で勤務していたころ、新入の大卒を教育するような立場の先輩がいた。
厳しかったり、面白かったり、楽しかったり、可愛かったり、滑稽だったり、職人的に仕事がうまかったり、飲むと危なっかしかったり、決して憎めない、とても優しい、何だかとてもユニークなキャラクターの先輩だった。先輩は、大卒の我々を毎年、本社へ送り出して、30年近く同じ職場を全うして、6年前に退職した。
その送り出された卒業生は全員、今でも、その先輩の周りにいたい家族のような気持ちのようである。昨日、懐かしい先輩の家に7人で訪問、同窓会をした。みんな、何回も、横浜で酔っぱらった先輩を家まで送った経験がある。世田谷の下馬の自宅へ送り届け、そのまま泊まることもあった。奥さんは当然全員と顔なじみ。
その先輩は、動物と戯れるムツゴロウさんのように、人間が社会生活で持つ警戒の境界を取り除いてしまう能力があるのだと思う。昨日も、昔のように「バシッとやれ!」と声をかけられながら飲んだ時、皆の笑顔は、優しい両親と一緒にいるような、穏かな、純真な笑顔だった。それにも増して、先輩の内面から湧き出るような優しさを想い出した。 人生の中で、色んな場面で、帰りつきたいような、穏かな気持ちになれる人。先輩は、動物におけるムツゴロウさんみたいな存在なのではないかと思った。
昨日夜、哲学カフェで、言葉の持つ「効用・限界・束縛」の側面について改めて整理できた。
そして、今朝、何かを所有することも、「効用・限界・束縛」と云う同じ側面があることを思った。
所有し、自分の方にたぐり寄せる行為には、より限界と束縛を際立たせる効果も存在していることを感じた。
自分から解き放つものが多い程、豊かではないのだろうか。
小浜の仏国寺を初めて訪れたのは9月6日(土)もう暗くなって、19:00頃だった。1時間に1本くらいの小浜線で、東舞鶴から小浜へ到着した。そして、早速、念願の原田湛玄老師とお会いすることが出来た。
坐禅の基礎的なことの指導を受けただけのことであったが、初めてお会いして、少し会話を交わしただけで、念願が叶い、それで十分であった。言葉ではなく、雰囲気でもう、その人のエネルギーはわかるような気がする。
その日の夜は2回、坐禅をして、翌朝は5時起床、体操・坐禅・作努とスケジュールをこなした。駅からさほど離れていないが、時おり野生の猿も近づくと云う、静かな山合いにある仏国寺。朝、緑に包まれ、小雨に煙る仏国寺の境内を、しげしげと眺めた。そして7日は午前中で、仏国寺を後にして、また横浜への帰路についた。
いつかは、実現させたいと願っていた、仏国寺訪問・原田湛玄老師との会見は、こうして実現した。私の人生で、必ず成すべきことの一つであった。
女優の長山藍子さんはミカン箱が海の遠くに流れて小さくなって行くのを、子供の頃、引き揚げ船の甲板からずーっと見ていたと云う。
日本がもうすぐと云う日に、友達の男の子が亡くなり、船上で、水葬をした時のことだったと云う。その光景が、子供心にずーっと残り、その後の人生の原風景のようなものですとおっしゃった。
終戦後、満洲から引き揚げる時、北朝鮮の街に母と子で暮した時、貧しくて、母は物売りか、物乞いをして、私は母のそばにチョコンと座っていたことも憶えていますと。
そして、佐世保に引き揚げた時、先に帰っていた父が、乞食同然の私を抱きしめてくれて、お父さんのヒゲがちくちくして、痛かったこと。手の平に乗せてくれた金平糖の美味しかったこと。
ミカン箱には、そのような想いが全て閉じ込められていることを知った。
ー9月6日(土)舞鶴、平和記念フォラムでの長山藍子さんの話ー
数日前、一緒に伊豆で座禅をした時に参加されていた男性の歌人の方から、一冊の歌集が届いた。「編鐘」と云う題だった。
遠き日の鐘の音のように、歌の調べの、胸のかすかな余韻ともなれば幸いですと書いてあった。
遠くの鐘の音、かすかな余韻か。
何か、人生の素晴らしい情景を、蘇らせてくれるような気がする。
数日前、もとの会社の後輩2人と神田で懇親をした時のこと、当時の私の印象はギャグが強烈だったと云う。確かに、私は、ギャグ手帳を持ち歩いて、思い付いたギャグを書きとめていた。今でも、そのギャグ 手帳はある。
その日、後輩は、私のギャグ に感銘し、深夜帰宅して、奥さんを起こして、覚えて来たばかりのギャグを披露したと云う。そして、関係は悪化。
私は、新婚時代、朝4時頃、最高傑作のギャグ を思い付いて、家内を起こして、ギャグを披露。その後、何十年、冷え切ったまま。
ギャグは、人生に強烈な波紋を残す。笑い事では無い。
因みに、私の朝4時の最高傑作は、「ラッコは英語で何て云うか?」・・・「パラシュート」・・・・「らっかしゃん」。
数日前に飲んだ後輩の悲劇の作は、「オーストラリアの地震はたいしたことない。」・・・ 「震度2」.
玄人には、受けると思うけどなー。
この6日・7日と、舞鶴で、海から見る引き揚げ体験と云うイベントがあることを知り、行って見ることにした。引き揚げのことを少しでも知ることは、私は、両親の人生により、深く接近できることでもある。
JR東日本の大人の休日クラブを利用して、金沢・福井経由で、舞鶴へ行くとキャンペーンチケットが使えて、大幅に安くあがる。このルートの旅も楽しみである。今日、終業後、会社からでかける。
近くの小浜・仏国寺には、私が尊敬する住職の先生にあたる原田老師様がおられるので、帰りに、立ち寄る計画。
魂に触れる旅になると思う。
働くことは、その働きの収入の多寡とはかかわりなく、人生に確かなバランスを与えてくれている。
働くことは、自分を謙虚にさせ、何か日常をピリッとさせてくれる。
働くことも、精神の修行の方法でもある。
何か社会に、他人に役立つことに、労働と時間を費やすことは、人の心にも訴える。
自分の趣味に生き、自分だけの好きなことをすることは、楽しそうだが、行きつくところは、孤独と、寂しさが付きまとう。
働くことは、お金を得る多寡ではなく、精神を富ませてくれる。人の為に何かすると云うことは、美しい。
人間の身体が先なのか、心が先なのか?と考えてみると、心が先だと云うことが何となくわかる。
先に心ありとすれば、肉体は、その心を一時的に具現化しているに過ぎない。
我々が、日々目にする人は、それぞれの心(精神)を形に現している。運命もあるが、運命を変える立命もある。
行き交う心が、旅人のように思える。どこかに向かって旅をしている。その表情が向かう先を暗示している。
大江戸日本橋から、富士山を見ながら、清々しい気持ちで、人生の旅がしたい。
この数日、つくつく法師の声に不図、懐かしさを感じる。朝は私の部屋のベランダにあぶら蝉が二日連続で、留まっていた。私が蝉好きな事を知ってるのだろうか。
そんな日の頃、アラブでは今年ラマダン(断食月)が昨日から始まった。アラブの友人にラマダン・ムバラクと挨拶のメールを送った。
また昨日は衝撃的に、坦々と福田総理が辞めた。思えば、福田さんらしい。気付かなかった彼の哲学。
一昨日、本牧市民公園のジャズライブでは、公園にバーベキュー、ビーチパラソルや椅子、たこ焼きセット、流しそうめんセットなど持ち込んでいる人達に驚いた。こんなジャズの楽しみ方もあるんだと。
小さな驚きに、満ちた残暑の頃。
魚は云ってるかもしれない。
ここまで、生きて来れたのが奇跡だった。網にかかったのは俺の運命さ。もういいんだ。俺の事は気にすんな。お前は人間だろ。俺の分まで生きろ。
俺は、お前の中で生きるんだ。頑張ってくれよ。魚好きなお前を、生かし続けて来た俺達も、今のお前に育ってくれて嬉しいよ。お前は、俺達、魚が胴上げして祝ってくれてる存在なんだぞ。 ・・・・・・・・・
私も、いつか誰かの魚になって、一緒に胴上げに加わりたい。