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August 31, 2008

みなとみらいでミニ同窓会

昨日昼、私は横浜で、高校時代の小さな同窓会の幹事をした。雨を気にしながらも、3次会まで盛り上がった。

山下公園と海を見下ろす産貿センタービル10F東天紅、大桟橋入り口地中海風のカフェ、みなとみらいのシーメンズクラブ。私の考案した横浜観光オリジナルコース。雨の合間に大桟橋そばからみなとみらいまで傘無しでの散歩もできた。

昨日は、赤レンガ倉庫そばにでは大きな野外ライブもやっていて、夜は大きな花火まで上がった。

何となく、「この指とまれ」で開いた同窓会。蝉のように、同じ木にとまって、人生を合唱したような同郷の友たち。


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August 30, 2008

いやな人への対処、考え方発明

私は、どうしても相性の合わない人への対応を処する術を考え出した。

それは、その人を、不良の子供と思えばよいと。ひねくれた不良息子・不良娘と思えばよいと。

あるいは、「嫌な人だが、娘の大切な友達」と思えばよい。

周りが全て好人物なんてことは、寧ろ異常。いやな人もいて、丁度よい。人生の隠し味。

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August 29, 2008

独りなのか、大勢なのか

私は、自分が、独りと感じることと、大勢の中にいると感じることを、同時に体験することが多い。

ただ角度をずらして見るだけで好い。

独りと感じる時の深い内面との対話には充実がある。気楽さ、自由さもある。寂しさは殆ど気にならない。寧ろ精神の健康に必要性さえ感じる。

大勢の中にいると感じるときは、愉しさや、外界との充実した対話がある。両親や、大切な人が、直ぐ現れるような、集団の中にいる安心感もある。

社会からの疎外感、独りぼっちの寂しさなどは、自分が造り出す個性的な勘違いのようなものではないのか。

人間の細胞60兆は、各々役割の違う、別の独立した細胞。それが集まって人間と云うまた、別の単位の個体を成す。独りでもあり、集団でもある。

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August 28, 2008

宇宙の裁判長

自分の成したる良い事に多く気づく人は、幸せだと思う。天地神明に誓って、自分は悪い事はしていないと思える事は幸せ。

自分が心に気になる悪い事、心に恥じる事をしたなーと思う事は辛い。

そして良い事、悪い事は、自分の内面の裁判長が決めている。

自分から遠く遠く、遠ざかる程、それは「良い事でもなく、悪い事でもない」、ただ坦々とした宇宙の営みになる。

自分が良い事をしたと思う時も、他の裁判長は有罪を下す事もある。悪い事をしたつもりでも、無罪にしてくれる裁判長もいる。

何事にも、懺悔の気持ちをもてる人は、人間としては、宇宙の裁判長からは合格点。

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August 27, 2008

修行と祭りでセット

人生では、会うべき人には必ず会う。それは早過ぎることもなく、遅すぎることもなく。

それが、望ましい人でなかったら修行をさせてもらい、好い人だったら祭りを楽しめば好い。

修行と祭りがそろってこそ人生のセット。

出会った人は、それぞれが遺伝子からほとばしる、何かメッセージを伝えてくれている。メッセージが伝わるか、伝わらないかは、自分の受信機の手入れしだい。

思えばそれぞれの人に、「役者やナー」と関心する。アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞。

人生の賛歌。

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August 26, 2008

「ここにいます」の想い

私は想った。悩める若者の悩みは「私はここにいます」と叫びたいような、「居場所の無い」ことの苦しみ。

円熟した人の悩みは、消えてしまいたい悩み。自然界に溶け込んで消えてしまいたい悩み。どこにいますかと問われれば、「私はここにいます」と、保護色にまとわれた生物のようにスーと現れる。

それでも、自然界は、それぞれに居場所を設けていてくれて、目だったり、目立たなかったり、ただ坦々と調和して存在している。

目立ち過ぎず、目立たなさ過ぎず、美しい調和を表している。

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August 25, 2008

「のんびりはできないんだぞ」

「お前は死ぬのだぞ。」「のんびりはできないんだぞ。」

22日夜から参加した伊豆の坐禅道場での、住職の皆への言葉だった。「お前は死ぬのだぞ」と思うと、底力と慈悲が湧いて来ることを体験してくださいとの想いだった。

そして昨日の早朝の坐禅の時、我々は初めて、住職に警策棒で叩かれた。右肩に激しい音が、道場一杯に響いた。

何十年も前、中学の理科の熱血先生に叩かれたことを想い出した。その時の先生の愛情は直ぐわかった。教えの痛みは今も覚えている。そして、大人になって、愛情を感じて、叩かれたことは昨日が初めてだった。

窓から見える外の木々は雨にうたれて、モヤっていた。電線には水玉が、滑って動いて行った。その光景が、ただ、ただ懐かしく、名残惜しく、また幸せであった。

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August 24, 2008

励ましの短歌との遭遇

8月21日、ソウルから羽田へ帰る飛行機の中で読んだ、産経新聞の8月20日版に、芸術と平和の短歌と題する短歌が紹介してあった。

「夜を吹雪く音の聞こえて心寒し、姉よあなたも覚めていますか」

「あふれ咲く花かげに黙せる幹はあり 強風(かぜ)に動ぜぬ母のようなる」

「凍裂の傷瘍をともに幹として 白樺は吹雪に なほ たじろかず」

ただ、じっと、この短歌に、我が人生をだぶらせた。

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August 23, 2008

伊豆・天城山の坐禅修行

私は、毎年、8月下旬には、伊豆の天城山の坐禅道場で、坐禅の合宿をするのが恒例の行事になっている。今年も8月22日夜から2泊3日の坐禅修行。朝4時からの坐禅がある。

神々しい朝の時間、自然を感じることで、自分の生を実感する。

両親との語らいのような、小鳥との語らい、そして謙虚に自然の中に埋没するような安らぎ、それがある。

大切な人生のひと時。

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August 22, 2008

韓国ソウルの驚き

この数日韓国ソウルへ出張して来た。今回は、仕事の合間に半日程度空く日もあって、市内半日ツアーにも参加してみた。韓国人のガイドさんの案内で、青瓦台や寺を廻った。

青瓦台の後の岩山が清々しく美しかった。お寺では、あの世の煩悩が33あることも初めて聞いた。韓国の人の47%が仏教で46%がキリスト教とのこと。

街には国旗が立てられ、8月15日の日本からの開放記念、建国の記念を祝う光復節の時期だった。

1200万人とも1400万人とも云われ、韓国の国民の3分の1が住むと云うソウルの大都市振りにも驚いた。

旅は、知らないことだらけの、別世界との遭遇を、また実感した。

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August 21, 2008

自未得度、先度他

戦後、満洲から邦人の引き揚げの頃、共産軍の病院に看護婦として徴用されていた当時16才の女性の逸話が、最近、気になってしょうがなかった。

家族みんながやっと引き揚げることができるようになった時、病院に迎えに来た姉に、「自分が今帰るのは申し訳ない。他の日本人の方々が、一緒に帰れる日まで、まだ頑張る」と一人残ったとのこと。そして昭和22年2月急性肺炎で亡くなってしまった。

患者の共産軍の兵士や他の看護婦にも人気があり、みなに見守られて土葬されたとのこと。享年16才。

私は、坐禅の住職から聞いていた「自未得度、先度他」と云う言葉を想い出した。「己の未だ渡らざる前に、一切衆生を渡らせんと発願す」。真白き富士の乙女の死を想った。16才で神の域。

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August 20, 2008

憧れのクマゼミ

先日九州へ帰省した時に、クマゼミが道路に仰向けに寝て死んでいた。透明の羽、オレンジ色の腹、地元ではワシワシと呼んだ。早朝から、割れんばかりの声でワシワシワシと鳴く。

子供時代には、中々捕まえられなかったワシワシ。比較的高い木に留まり、すばやく、どうしても捕まえたくてしょうがない蝉だった。

懐かしく、道路から拾い上げ、もち帰った。数日後も捨てきれず、ついに横浜まで持ち帰った。会社の人にも見せびらかして、自慢だった。

そして、自宅の小さな庭に、埋葬した。関東にはいないクマゼミが、私の家の庭の墓には眠る。

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August 19, 2008

シベリアの丘

先日銀座松坂屋の平和記念展の行事で、女優・松島とも子さんの講演を聴いた。

昭和20年に、お父様をシベリア抑留で亡くされて、45年振りにお母様と、シベリアを訪ね、お父様の埋葬されているであろう場所を捜したとのこと。

数日間、捜した後、手がかりのある丘の上に立ち、母はこう云ったと云う。「ここでいい」、「日本はどちらですか」、そう云って、バラの花をたむけ、丘の土を手で、懐かしむように、何度も掘り返したとのこと。

ブルゾンの下には、同行した娘の松島とも子さんも気づかない間に、喪服を着ておられたとのこと。

新婚数ヶ月で、満洲で兵隊に行き、そのまま帰らぬ人となられた父親が、出征する前に、母に「絶対生きて帰るから待っていてくれ」と言い残して行ったことを、お母様は、至高の愛と思って生きて来られたことがわかったとのことだった。

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August 18, 2008

人生の被害者

自分が被害者であると感じる人は多い。被害者と感じることはたやすい。

自分が被害者と感じることより、自分が加害者と感じることができたら、それはバランスの力がすごい。

真理は、被害者でも、加害者でもなく、それぞれが中立的に存在しているのではなかろうか。

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August 17, 2008

人生の競技種目

人生もオリンピックみたいに、それぞれの人に種目がある。水泳も柔道も卓球もと、同じ人にはできない。

自分の種目は何だろうかと考えてみる。

私は、出世競技、金持ち狙い競技などは、余りにも大勢が参加して、ありきたりで、興味無し。競技者に、尊敬出来る人格者も少なく、内容が薄っぺらで、その姿は滑稽にも見える。

カーリングのような、余り人のやらないような、新しい競技も好いな。

まだ余り気づく人の少ない、「自己究明」や、「生死解決」、「他者救済」の種目などは素晴らしい。

身近な表現ならば、小さな驚きを求める私は、「人生の旅」と云う種目が一番ぴったりの私の種目と思う。それは金メダルとか銀メダルとかある競争競技ではなく、比較するもののない、究極の自分の得意種目と云ったもの。

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人生の目撃者

私は、人生の色々な場面のWitness(目撃者、証言者)だと思うと、感激する。

私は、ただ、色々な場面に遭遇し、それを見ている存在。

人生の色々な場面に、立ち合っている存在。

そう思うだけで、感無量になる。

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August 16, 2008

ミクロの目、マクロの目

発見、発見。ものは、ミクロの世界では、規則正しい形や配列の世界で、それが集まってマクロの世界では、不規則な無秩序的な形状の世界に見える。

レストランで壁の規則正しい幾何学模様を見ていたら、不図そう思った。

規則正しいもの、秩序を見て、心が落ち着いたり、またある時は、不規則な模様に心が落ち着いたりするのは、共に人間にとって安らぎだからではないのか。

ミクロで見るのか、マクロで見るのかレンズを変えるだけ。対象は変わらない。

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August 15, 2008

人生ソムリエ、人生マイスター

人生のソムリエという発想は面白い。ワインを飲む時の講釈のように、1970年のボルドーの、円やかな味わいの云々・・・。自分の人生を語ってみる。酸味がちょっときつい? でも、口当たりはそんなに悪くないでしょう。なんてつぶやいてみる。

人生マイスター(職人)と云うものも好い。頑固に伝統を守る親方、女将って感じ。考えると、可笑しくなってくる。

日曜大工のように、自分の"人生と云う家"を、こつこつと作っているという発想も好い。木の上に作る、ツリーハウスって云うのも憧れるナー。

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August 14, 2008

旅の語らい

数日前、九州へちょっと帰省した。品川始発の朝6時の新幹線で博多までの間、隣の席の、横須賀在住の海洋調査船の乗組みの若い研究者の方と話をした。北極の氷が随分減ったことや、石油高騰で調査航海が削減されている話など聴けた。

鹿児島本線で博多から大牟田へ行く1時間の特急の席では、島根から鹿児島の川内へ帰省される中年の主婦の方と話した。川内は竹が多く、「かぐや姫の里」といわれているとのこと。島根は、「因幡の白兎」伝説があることも聴いた。私は、私が住んでる近くの東神奈川には「浦島太郎」伝説があることを話した。

九州から帰りの新幹線の中では、岡山県・津山の農家の年配の女性の方が、津山は「川柳の町」ですとおっしゃった。戦後復員されたお父様を肺結核で直ぐ亡くされ、母親ひとりで育てられたその方が、ある川柳を披露してくれた。「俺に似ろ、俺に似るなと、子を想い」と。

隣の席の旅人に、人生の小さなロマンを感じながら、流れる車窓の景色を眺めました。

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August 13, 2008

それぞれのイルミネーション

人間の持つ遺伝子の中でも、一生のうち、スイッチがオンされるのはほんの数パーセントであるとのこと。

本来、おびただしい数の遺伝子の能力が、設計図が存在している。

人それぞれによって、どの遺伝子のスイッチをオンにして、どのスイッチがオフのままにしておくかを決めている。

それは、一種のイルミネーションのよう。どれとして、同じイルミネーションは無い。

人間を、例えば、祭りの山車に出て来る、イルミネーションのようなものに擬えると面白い。仮装行列のように、次々に出て来る、イルミネーションに拍手。

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August 12, 2008

人生のバンド

私は楽器の演奏は何もできないが、人生をバンドに擬えると、「そうだ!」と、嬉しくなった。

私の好きなジャズのバンドなら、ピアノは初恋の人、ベースは高校時代の恩人の先輩、ドラムは坐禅の恩師の住職、トランペットは私の再就職の恩人のアラブの友人など、想像してみると、何か素晴らしい、音色やメロデイーが聴こえて来るような気がする。

人生の夫々の場面で、大切な人達が、夫々の楽器で、バンドを作ってくれている。

そして、私が人生を歌う。人生のバンド。

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August 11, 2008

家族と同じ、人生の家族

人生の中では、実際の家族でなくても、人生で忘れられない大切な人達がいる。

時間ではない。短くとも、一緒にいた時間の密度が濃ければ、その衝撃が大きければ、もう、その人達は、心の中では、その人は「人生の家族」ではないか。

心の中で、常に一緒にいる存在ならば、もうその人は、「人生の家族」ではないか。そう考えると、嬉しさが込みあげてくる。一人ではなかった実感が、押し寄せる。

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August 10, 2008

「これで、いいのだ」の哲学

赤塚不二夫さんへのタモリさんの弔辞をインターネットで見て驚いた。

「貴方の考えは、全ての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定的に、受け入れることです。それによって、人間は、重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、時間は前後関係を断ち放たれて、その場が異様に明るく感じられます。この考えを貴方は一言で云いあらわしています。「これで、いいのだ」と。

坐禅でなくても、「今ここ」の境地が得られている。

「これで、いいのだ」の言葉に、彼の万感の人生哲学が込められていたのかと、ハッと思った。

赤塚不二夫さんと、生前会ってみたかったなーと思った。

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August 09, 2008

主人公か脇役か

自分から見れば、自分は花びらの中心。他人から見れば、自分は脇役。

自己診察して診ると、自分を中心に考える時の滑稽な異常心理を発見。

自分を脇役と考える時も、やはり滑稽な病的心理を発見。

結局、花びらの中心でも、脇役でもない。

ただ、人それぞれが、ドーンと、堂々と、荘厳なまでに、独立して、対等に存在している。

そう考えると、嬉しいやら、哀しいやら、そして可笑しくもある。

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August 08, 2008

不幸に鈍感な人生

幸せに気づき、不幸に気づかないのが、幸せな人生か。

不幸に気づき、幸せに気づかないのが、不幸な人生か。

どの部分に精神が、敏感か、鈍感かが、人生の人幸・不幸を決めてるのかもしれない。

幸せも不幸も、万人共通に、適度に交ざっているのだろうが、不幸に鈍感と云うのは、傑作で最高。

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August 07, 2008

お礼参り、お礼廻り

「お礼参り」と云えば、ヤクザ用語に聞こえてしまうが、御世話になった人達に、お礼を云って廻ることは、素晴らしい。

人生も半分以上過ぎたと思ったら、残り半分は、御世話になった人達にお礼を云って廻るのが好い。

自分を主張し、自分の楽しみの夢の為に費やす時間ばかりでは、どこか寂しく、人生が空しかろうと思う。

お礼を云って廻る境地は、何かが、その事で完結するような、妙な安定感をもたらす。それは矛盾が統一されるような境地ではないだろうか。

自分がどうしても、お礼を云わねばならない人達のリストを作り、時々その人達を訪ね、また時々手紙を書くことなどは、まさに人生に平穏をもたらす楽しみだと思う。

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August 06, 2008

血圧上昇も身体の防御作用

腎臓は身体の血流量をチェックする機能を持っていると云う。赤血球が少ない状態になるとホルモンで、造血命令を出し、腎臓からレニンと云う昇圧物質を出すと云う。これが肝臓からの分泌物質と作用して、血圧を上げるとのこと。

血圧が上がるのも、60兆の細胞に栄養を循環させようとする神秘的な、精巧な身体の防御システムの一つとも云える。その、身体から自然に出る昇圧促進の分泌物質の機能を阻害・遮断させるのが、血圧降下剤だと云う。

身体は昇圧して、身体を維持しようと機能しているその、警告サインのスイッチを切るのが血圧降下剤。

高血圧は、何か重大な病気の存在を警告する、点滅ランプ。このスイッチを切ることでなく、その血圧の正常化をする食生活、生活習慣を取り戻すのが先決。

血圧降下剤を一生飲み続ける覚悟は、病気に突入する覚悟と似ている。

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August 05, 2008

反作用の集合体、人生のブランコ

人生で生じていること、見てること全ては、反作用の集合体だと思う。自分の身体も、自分の周りに起こることも、全て、"その前にある何か"の反作用。

それは、ブランコのよう。大きく振らせば、大きく揺れる。

若い時程、揺らさなければ面白く無い。そして揺らし過ぎれば危険と云うことに気づく。

私にとって、ブランコを揺らす原動力は、「驚き」。そして、それは「小さな驚き」であることが好い。

ゆっくりと、穏かに、足をぶらーんと伸ばしたり止めたり、周りの子供達の声を聞いたり、遠くの山を眺めたり、子犬が近づいて来たりしながら、ブランコをこぐのが好い。

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August 04, 2008

横浜探検、そして祭りが一杯の夏

昨日の冒険は、横浜市営地下鉄の日吉から「センター南」への初乗車と、ニュータウンのセンター南での恒例のSummer Jazz の演奏を聴いたこと。日吉からの市営地下鉄は今年6月に開通したばかり。日吉本町、北山田など、駅名を知るだけでも面白かった。

センター北駅もセンター南駅でも、それはそれは、巨大な大都市が出現したような、新しい街だった。25年くらい前、港北ニュータウン構想とか云っていたのが、これかと、驚いた。

息の詰まるような大都会ではなく、安らげるタイプのニュータウンだと思った。毎年、夏に都筑公会堂で行われるJazz Live は17回目とのこと。今回初めて、Jammin Zeb と云う、カッコ好い若い男性ヴォーカルグループ(4人)が人気上昇中と云うことも知った。確かに輝いていた。

夜は、地元白楽の六角橋商店街の大道芸祭りで、フラメンコ、ベンチャーズの曲、韓国の太鼓、和太鼓、フォークソングなど見て廻った。

自宅近くの八幡神社境内では、奉納演芸大会。地元の町内会ごとの、歌や踊りが、賑わっていた。2008年の夏の1ページが、このように、過ぎて行った。

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August 03, 2008

かき氷の想い出、子供の頃の夏

昨日は、恒例の町内会の夏祭り。私は、例年通り、模擬店の手伝いを夜までやった。途中、広場ては、盆踊りも始まり、炭鉱節や東京音頭を聞きながら、焼き鳥、とうもろこし焼き、かき氷、わたあめなど手伝った。

普段、私は、食育上、冷たいものや甘いものを控えているが、合間にかき氷に赤い蜜をかけて、盆踊りを見ながら、食べてみた。

遠い数十年前、九州の実家で、かき氷屋さんもやっていたことを想い出した。あの時の夏が、蘇った。

父の顔、母の顔、妹の顔、姉の顔、弟の顔。かき氷の味が、沢山の想い出を蘇らせてくれた。

浴衣を着た子供達のはしゃぐ声が、盆踊りの太鼓の音が、提灯が、灯りに照らされた公園の砂の色が、何もかもが、まるでアニメーションの映画の中にいるようだった。

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August 02, 2008

忙しかったらアウト、暇だったらアウト

毎日の充実度を考えると、「忙しかったらアウト、暇でもアウト」など頭に浮んだ。

忙しいと、充実しているように感じるが、ゆっくり判断できなく、細やかな温かみのある人間のつき合いができなくなる。勢いはあっても、安らぎが少ない。後からフーと寂しくなる。

暇だと、自分の社会的存在に自信がなくなり、寧ろ、色んな事にチャレンジする意欲も薄れがちになる。時間が、ゆっくりと流れるが、何とも云えない疎外感や虚しさが忍び寄る。

結局、人間は、ゆっくり、周りの景色を見渡しながら、グライダーのように、飛ぶのが好いと思う。

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August 01, 2008

人生の渦潮

これでもか、これでもかと不幸が襲う。これでもか、これでもかと幸せが襲う。

次々と不幸が襲うと云う表現は、よく聞くが、次々と幸せが襲うと云う表現は聞かない。

だが、人生は、不幸と幸せの力が交わり、渦を巻く、渦潮ではないのかと思う。鳴門の渦潮の中か、或いは、洗濯機の中で渦潮にもまれる蟻ん子のような存在か。

時おり、渦が凪ぐ時がある。その時は、夜寝ている時。その時は、満天の星を見て、ちょっと周りの景色が見れる。

自分の力では、如何ともしがたい渦潮にもまれて、渦潮に翻弄されて生きる数々の人生の事を思う。宮崎駿監督の崖の上のポニョ、魚のポニョのシーンみたいだ。

ただ、不幸だけではなく、幸せの渦と不幸の渦が織り成す、乱流に飲まれて、流されて行くようなものではないか。じっと、自分を観察して、渦が凪いだ時に、ちょっと自分の好きな位置に調整すれば好い。

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