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July 31, 2008

生と死で一つのセット

「生と死は、セットになって、一つの働きを現す」

1ヶ月程前に、住職から聴いた時のメモに、再び目を通す。

それは、磁石のS極とN極のようなものかと思う。片方だけでは成り立たない。

永遠の死も無いことを思うと、絶えず繰り返す、エネルギーの神秘的な存在を感じる。

私も、日々、刻々と生と死を繰り返す、60兆の細胞と云うエネルギーの集合体のようなものではないかと思う。

今朝、早朝、玄関のドアを開け新聞を取りに出た時の朝の空気、朝日。みずみずしい朝顔や、ラジオ体操の夏を思った。そして、今私は、ここに存在していることを思った。

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July 30, 2008

「托鉢は午前中のみ」の示唆

先日、鎌倉円覚寺の夏季講演の中で、僧が行う托鉢は午前中のみで、ピッタリと止めるとの話が、妙に心の中に残った。

1日中、托鉢ばかりやったら、本来の色々な修行ができない。

必要最低限の食を得て、後は本来の修行をすると云う考えは、人の生き方に大きな示唆を与える。

蓄える事に夢中になっては、更なる他の修行ができない。

収入を得る事に夢中になるのは、最低限の衣食住の為。後の時間は、自分が本来やるべき自分の人生のプログラム(修行)を考えてみる。これだけは、やらねば納まりのつかない、人生のプログラムみたいなものがある。

そのような「人生の時間配分」をしてこそ、納得のいく人生ではないのかと思う。

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July 29, 2008

崖の上のポニョ

今日は、会社のアラブ人代表が本社への帰国離日する日。昨日、私は彼に、沢山のお礼の言葉を述べて、夕方オフィスから送り出した。

2年前、私を、石油業界に復帰就職させてくれた。昨日は、私の人生の忘れられない恩人との別れだった。

私は、彼を送り出した日を、将来、想い出す為に、何か印象に残る事は無いかと考えた。それは、見たくて前売りチケットを買っていた「崖の上のポニョ」を見ることだった。終業後、川崎チネチッタへ行き、7時半から「崖の上のポニョ」を見た。ポニョと云う名前の由来は姿が「ポニョポニョしている」からだと云う。

それは、人間の美、生命の輝き、子供の愛くるしさが溢れていて、まさに感動する映画だった。映画を見終わった後、興奮の余り、九州の弟の家へ電話して、姪の小学生の女の子に、"「崖の上のポニョ」はすごいよ。ぜひ見なさい。"と話していた。「ポニョ♪ポニョ♪ポニョは魚の女の子♪」と云う歌も、電話でちょっと披露した。

私の人生で忘れられない恩人の送別の日、「崖の上のポニョ」が想い出させてくれる。

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July 28, 2008

町内会作業、そして旭ジャズ祭り

昨日は早朝から、横浜の町内会の夏祭りの会場準備の作業、労働奉仕をやった。午後3時まで、公園の模擬店作りや、テント張り、盆踊りのやぐら立てなど、町内の人、20人くらいで、野外で大汗かきながらやった。

リヤカーを引くのも、妙に懐かしく楽しかった。自ら進んでやる使役も、人生にはメリハリ。結構面白い。

親方みたいな、大工さんの先輩に、からかわれたり、どやされたりしながらの作業、これが結構楽しい。自分も「親方!」と声をかけられたりすると、クレヨンしんちゃんみたいに、「それほどでも」と云いたくなる。

作業後、鏡を見ると、ひどい日焼け。この日焼けも今年の夏の、勲章みたいな想い出。

帰宅後、作業着を洗濯して、シャワーを浴びて、夕方は、旭ジャズ祭りへ。相鉄線・二俣川下車、バスで万騎が原中央下車、自然公園内の野外ステージに数千人のジャズファン。

缶ビールを飲みながら、夕暮れの夏の空を見上げて、森林に囲まれた公園の広場で、大好きなジャズを聴いた。周りの森の木々が、ジャズに合わせて、ゆらゆらとリズムをとっているようだった。

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July 27, 2008

保護色人生、穏かな大冒険

動物や昆虫の保護色は、動物・昆虫を目立たないようにして、身を守っている。周りに溶け込んで、居るのか居ないのかわからなくなる。

これが、何だか坐禅で目指す、宇宙との一体感に通じるのではないかと、私の仮説を立ててみた。

「私はここにいます」と云うアピールは、弱い赤ん坊が母親にアピールする時などには好いが、危険を伴うことも多い。それだけ、鷲や鷹に狙われたり、人間に踏み付けられたり、可愛いとストーカーされたり、捕まえられて、ペットにされたりする。

社会でも、目立つことを目指している人達も、自ら危険を増しているのでないかと思う。名誉、出世、有名、金持ち、セレブ、奇抜な服装・行動など、これらは、「私はここにいます」のメッセージ。

人は、何の為にそうしたがるのかと考えてみると、集団の中での存在感の無さに、寂しさを感じたりして、耐えられなくなり、「私は、ここにいます」と云いたくなるのではないかと思う。

でも、それは、自然界のルールでは、最も無防備に、危険な状態に陥るのではないだろうか。自然界に保護色で溶け込み、漂う、それが、人生の穏かな大冒険には、一番好い状態ではだろうか。

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July 26, 2008

永遠性・無限性を表す境地

目の前に自分の右手の人差し指を立てて、"今、ここ"と云う境地を、よく禅の話の中で聴く。

わかったようで、わからない、ボンヤリした理解しか出来てなかったが、先日の住職の話で、ちょっとイメージが湧いた。

"今"の中に永遠性を。"ここ"の中に無限性を説いている。

時間的・空間的に、「今、ここ」と云う境地が、永遠にして大宇宙に安らいでいる境地を表していることがわかる。

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July 25, 2008

自分、吾とは

自分と云う概念は、つきつめると面白い。

それは、憶測から発した、過去に体験した「印象・気分の集合体」とも云う。

それは、好いものでも、悪いものでもない。ただ、必要でないもの。

それは、執着、むさぼりを生む。

「自分を強調することは、執着・むさぼりの温床」と思うと、自分と距離を置くことの、大切さがわかる。

「身体を持つことは不便。"吾"を持つことも不便。」、この境地の穏かさは凄い。

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July 24, 2008

最先端医療より田舎の勝ち

1965年の長寿県は、東京・京都・神奈川・名古屋、大都会は医療・病院に恵まれているので納得。だが今は、大都会は、全て下位へ転落。現代は、長野・福井・熊本など田舎の勝ち。

病気になって、名医に見て貰う時代は終わった。都会は短命県。都会は生活習慣が悪くなる環境が多過ぎる。田舎は、健康の条件がそろっている。食事、環境、運動、休養、精神(小ストレス)、健康の条件のどれをとっても有利。現代の多くの死因の病気(ガン・心臓病・循環器系疾患等)は、生活習慣がもと。(中原英臣医師の講演)

そこで、私は思う。都会にいても、生活習慣を、少しでも、田舎に見習えば好い。病院や医者に頼る時代は終わった。

また、日本人の平均の病気年数は男8年、女10年とのこと。真剣に、自分の生活習慣を変えない限り、寝たきり10年のリスクも、日々高まっていく。

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July 23, 2008

社会からの慈悲と拍手

僧は托鉢して生きる。芸人は投げ銭で生きる。貰えるのは、相手の慈悲、感動しだい。

全ての職業の人も、自分の収入を、托鉢・投げ銭と思えば素晴らしい境地になれる。収入は社会からの慈悲、拍手。

サラリーマンも、毎日、茶碗を持って、人里を歩く托鉢と思って試たら良い。自分が流しの芸人と思って試たら良い。

人間も、本来は、実は、社会からの托鉢・投げ銭で生きてるようなものではないか。制度化されてるから見えないだけ。

当然貰えるものとして契約して、糧を貰っている事は、人を傲慢にさせる。正当に主張できる収入など本来は、どこにも無い。サラリーマンも、利権で生きてるようなもの。

今日も、自分を、茶碗をもって人里を歩く僧と思えば、人々・社会への感謝の念が湧く。

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July 22, 2008

円覚寺夏季講座・最終日

今朝は、休日明けの出勤日。円覚寺の夏季講座の最終日だけど行けない事が残念。講座のしおりを見ると、今日の足立老師の話の骨子があった。

村田珠光の言葉が最初に書いてある。「花も美しい 月も美しい それに気づく心が美しい」

そして、「今咲きし 花に出合へる 夏の朝」と云う句で結ばれていた。

ただ、ただ、老師の境地に絶句。


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July 21, 2008

数学と仏道修行

円覚寺夏季講座で、花園大学の佐々木閑先生の話を聴いた。先生は数学は精神を集中させないと解けない点で、仏道修行と似ていると云った。

回答を得る為には、情報の整理をしないと解けない。消すべきもの、残すべきもの、色々試してみる。

答えは最初から、存在していて、頭が混乱していて、回答が見えないだけ。

答えがわかってしまうと、答えは浮き上がって見える。

消すべき情報が、煩悩。要らない情報を消して行くのが修行。

確かに、数学と仏道修行は、似ている。思わず笑ってしまいたい程の、思いもよらない比喩だった。

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July 20, 2008

貧しさ、宇宙との調和の象徴

昨日朝から例年恒例の鎌倉円覚寺の夏季早朝講座が始まった。足立老師の話は、貧しさが人を育てる話であった。

「貧は人を苦しめず、人は貧に苦しむ、貧は菩薩の種、日々仏道に進む、貧は世界の福の神」

アテネ文庫「ミレー」からの文章と云う。ミレーの一生は貧しさと病気の人生だったと云う。

ミレーの絵は、「晩鐘」、「落穂ひろい」、「種を蒔く人」。貧しい農民の絵に、人は何を惹かれるのだろう。何を見出しているのだろう。

貧しく最小限で生きる事は、吾、自我の横暴を食い止める。富は自我を醜く膨張させる。傲慢な祝祭が始まる。

貧しさは、宇宙との調和の象徴だと私は直感した。

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July 19, 2008

ちょっとした不幸、人生の隠し味

ちょっと不幸が一番好い。ちょっとした、苦しみ・悩み・問題は、人生に落ち着きをもたらす。

幸せばかり感じると、何か世間に後ろめたささえ感じる。

自分だけ幸せを感じた時の、しらじらしさ、空しさ。恐ろしささえ感じる。

ちょっとした不幸は、他と繋がっている安心感と、優しさをもたらしてくれるように感じる。

それは、人生の隠し味。

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July 18, 2008

無人島に一人ぼっち

地球上に人間が65億人いても、一人の人間が人生で身近に関わる人数は200~300人もいるだろうか?と思う。そして、身近ではないが、重大な影響を与える人が、また同じように200~300人もいるだろうか?。合計で精々400~600人と関わって人生が展開しているのではないかと思う。

地球上に65億人もいても、それぞれが、500人前後の小さな特異な世界で、全然違った光景を見て、人生を送っているのではないだろうか?

また、地球上には65億人もいるのに、孤独な無人島に住んでいるような寂しい気持ちの人もいる。

私は、ある時は、無人島にいる気持ちになっても、満天の星にため息をつく程の美を感じたりすれば好いと思う。

ある時は、祭りの雑踏の中、街の喧騒の中、またある時は、無人島に一人ぼっちでも、素晴らしい時間ではないかと思う。

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July 17, 2008

わらびがみ(童神)

夏川りみさんのコンサートで、彼女が、「童神(わらびがみ)」と云う曲を歌ってくれた。出身の沖縄では、「わらびがみ」と云う言葉があるそうだ。方言っぽい彼女が語り掛ける言葉には、彼女の素朴さ純真さがにじみ出し、「わらびがみ 」を伝えるに相応しい人であった。

私が、ずーっと感じていた境地を、この言葉が、すっきりと云い表してくれた。

電車の中でも、近所でも、街中でも、私は子供に出遭うと、小さな神に出遭ったような気持ちになる。何を話しているのか知りたくて、時おりこっそり耳をそばだてる。

時に坐禅の会では、「名僧に囲まれている境地」を味わうように、子供に出遭うと、「わらびがみ」に囲まれる境地になる。

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July 16, 2008

金メダルを超えて輝く

昨日、オリンピックランナー松野明美さんの講演を初めて聴いて、この人に逢えて、本当によかったと思った。1988年のソウルオリンピック頃に活躍した彼女は、今二児の母。そのお子さんの一人が心臓病やダウン症で生まれた事で、その後の彼女の生き方は、それは、感動の嵐のようなものだった。

彼女は、今は、ダウン症の4歳の男の子の、オムツが取れるようになる事が夢ですと云った。金メダルを取る事よりも、子供のオムツが取れる事が夢ですと云った。

人生を、ゆっくりでも、時に立ち止まり、歩き出しても、マイペースで、前へ前へ進んで行く事、それが今、マラソンで金メダルを取る事よりも幸せである事を、初めて知りましたと云った。

彼女は、赤ちゃんを出産した時、まだ臍の緒が繋がった我が子と対面した時の感動は、金メダルよりも、遙に遙に幸せで感動的であったと云った。

私は、初めて、私の母の気持ちに深く近づけたと云う感覚と、マザーテレサに対面したような、何か、フワーと、揺りかごに抱かれたような気持ちになった。

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July 15, 2008

死んだも同然の瞬間の集合

万物は流転する。全てのものは変化している。

目の前を絶え間なく通り過ぎて行く現在が、かつて未来と呼び、たった今過去になって行く。

私には、時間が、静止写真のように、その時、その時に完結した瞬間の集合のようにも見える。

即ち、生と死が同一化した瞬間。生まれたばかりの瞬間が、もう二度と帰らない過去になっている。

死んだも同然の瞬間の集合が、重ねて、パラパラとめくれば、アニメーションのように人生になって現れる。

人生は、神秘的な勘違いで出来ている、宝もののようなアニメーション作品のようにも思える。

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July 14, 2008

紫陽花

まだ近所の小道には時折、色あせた紫陽花を見かける。

去年の紫陽花は両親。今年の紫陽花は私。来年の紫陽花は娘。毎年、季節を彩る。

限りあるもの、続いて行くものを、同時に感じる。

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July 13, 2008

人間を主食にする生物

もし、人間を主食にする生物がいたらと、想像すると、世界観がちょっと変わる。

人間としての尊厳、人の命は地球より重し、などは吹っ飛ぶ。とにかく、その生物と出遭ったら最期、その生物の餌食となる。ビクビクしながら生きる。

その生物が、人間を養殖して、美味しく加工して、食べはじめたらどうだろう。地球上の色々な生物の中で、御殿さま、お姫さまをやっているのが人間。

街で出遭って、直ぐ、斬り捨てたり、捕まえてからかったり、食いつたり、生け造りとか拷問刑のような事をしたり、やりたい放題の暴君も多い。それで、人生が苦しいと・・・・・、「ざけんじゃネー」と非難の声が聞こえてきそう。

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July 12, 2008

何万枚の世界地図の啓示

数日前聴いた講演で、宇宙飛行士から見た地球は地球儀みたいに見えるのは確かだが、国境が無いことを改めて気づかされた。

地球を人間の視点で考えた場合。魚の視点で考えた場合、それぞれの動物で考えた場合、微生物の視点で考えた場合、植物の視点で考えた場合、人間でも民主主義の視点で考えた場合など、何万枚、何百万枚の世界地図ができあがる。

そうだ、私は多次元を生きていたんだ。

全く想像もできない、色とりどりの世界が、そこにはあったんだ。

自分に見えてる世界が小さく、小さく縮んで見える程、自分が何も所有していない実感が湧き、気持ちが開放され、宇宙に漂うような感覚になれる。そして、安らいでいられる。

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July 11, 2008

娘との飲み会

昨日、終業後、船橋駅で娘と待ち合わせて、夕食をした。就職して3年めで、千葉で一人暮らしをしている娘と会うのは久しぶり。7時半、駅の改札で、娘を待つのは、楽しかった。

娘の推薦の海鮮料理屋へ行って、ビールや日本酒も、二人で飲んだ。娘の仕事の大変さ、人生の事など、話しを聞いたり、何もかもが嬉しかった。

若い頃に見える人生の光景がある。娘の目に映り、展開する人生が、決して安定した、楽なものではないことを知った。

自分が生きて来た人生を想うと、私の両親が生きて来た人生を想うと、「何とかなるさ」と心の中で、娘の生き方にエールを送った。

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July 10, 2008

人間の居場所

哲学カフェでは、大学生の男性が、エヴァンギャリオンやマトリックスと云う漫画の、彼にとって印象的だったシーンを紹介してくれた。私は、その漫画自体は、名前を微かに聞いた事があるくらいで内容は知らない。

エヴァンギャリオンでは、最後に「自分は居ても良いんだ」とつぶやく場面。自分の居場所の発見。マトリックスでは、地球に増殖するウイルスのような人間。地球を食いつぶす忌まわしい人間。

自分の居場所がない感覚は、よく世間を賑わす"社会からの疎外感"を連想させた。人間を地球にとってのガン細胞に見たてる発想は、私も時々する事がある。

これらの虚無的な発想には、自分は特別でありたいと熱望する、強過ぎる自己愛、哲学的な勘違いのようなものを感じる。

私は思う。人間も、宇宙の法則の影のようなもので、自分が没しても、その宇宙の法則は変わらない。全ては、大きな自然の懐の中で、自分は、身体で、人生で、何かを投影している。それは、単純にして、美しく、また安らいでいる世界のようにも思える。それは、人間の思いを遙に、遙に超えた世界。

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July 09, 2008

哲学カフェの風景、自分の為か、人の為か?の命題

人に褒めてもらいたいとか、人に頼られる存在になりたいとかの望みは、色んな人が共感する望みのようだ。昨日夜、哲学カフェの中で体験した。

それでいて、「人の為、社会の為」と云うと、”恩着せがましい。結局は自分の為では無いか”と切り捨てるニヒルな人が多いことに驚いた。

自分と他人が、全く同一だったら、自分の為とか、人の為かを区別する議論は成り立たない。私にとっては、過去、自他不二、自他一如の境地が、その不毛な議論を、終わらせてくれて、心がすっかり軽くなった。人が喜べば、自分も嬉しくなり、人が怒りだせば、自分もイライラして来る。それは、自他一如の証ではないのか。

マザーテレサの行為も、結局は自分の自己満足の為と云わないと気が済まない人が多いことに、中途半端に迷える、孤独な現代人の現実を感じた。

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July 08, 2008

人生の映像ライブラリー検索

年を重ねることは、それまでに体験した、喜び哀しみが、脳への想像力を与えてくれることで、その後の人生に、深い味わいをもたらしてくれる。

色々な体験は、強烈であればあるほど、その後の豊かな想像力の源となる。

良い想い出は、脳が想像するだけで、現実と同じような錯覚を起こさせてくれるように思う。

私は、最近、想像力で、人生の素晴らしいシーンが、時間も空間も超えて、現実のように現れるような感覚にもなる。

脳は、人生の映画のメニユーを沢山増やして来て、人生の映像ライブラリーのようなものになっている。

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July 07, 2008

遺伝子、村上和雄先生の世界

遺伝子のワンセットをゲノムと云うらしい。父と母から1ゲノムづつ貰って人間が出来る。

ゲノムには、32億の科学文字が入っていると云う。

人間の60兆の細胞のひとつひとつに、2000億分の1グラムと云う小さなミクロの世界に、1000ページの百科辞典が3200冊入っているようなものだと云う。

このような情報は、太陽や空気、地球が書いたのだろうか? 誰が書いたのだろうか?

これが、村上和雄先生の「Something Great」 の世界。

目に見えない、何か崇高なものがある。

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July 06, 2008

ぜんまいの命

私は、朝の子供向け番組、「ぜんまい侍」のファンで、毎朝、出勤前の準備の時、TVのチャンネルを合わせている。娘が子供時代、あんみつ姫を見ていた事も、思い出せ、楽しい。

先日、「ぜんまい侍」の所以がわかった。

一度死んだ侍が、神様に、もう一度生き返らせて貰うのに頼んだ時、何か良い事をしたら、頭の上に付いたぜんまいが巻かれ、エネルギーが生まれる仕組みが創られた。

「何か良い事をしたら、それが、生きるエネルギーになる」、その良い事をした分だけ、ぜんまいが巻かれ、生きる事が出来る。

素晴らしい発想。素晴らしい人生哲学。

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July 05, 2008

恐竜時代の再現

蟻から見れば、人間はどんなに見えているのだろうかと想像してみた。蟻の5ミリくらいの背丈から見れば、160センチの人間でも、320倍の背丈。

人間を160センチとして320倍すると、488メートル。約500メートルか。東京タワー(330メーオル)より大きな恐竜なんだ人間は、と思った。

空には、カラスが舞い、それは翼竜か。巨大な玉子も見かけるが、そばには、ニワトリ怪獣がいる。海には、巨大なサメ怪獣もいる。

人間と云う恐竜の足に踏まれたら、即死。人間の棲息地付近にいる蟻は、命がけの日常。すごい、恐竜時代を再発見。

その後、朝、近所の洗濯屋さんへ行く途中、道で、杖をついてよろよろと歩く80才代のお爺さんと、さっそうとバイクに乗ったおばさんに出遭った。これも恐竜の姿かと思うと、可笑しさが込み上げた。

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July 04, 2008

せめて質素に

現代は、世界の少なくとも半分の人は、窮乏化して行く過程に見える。人間社会の野蛮さにおいては、戦乱の大昔と変わらなくも見える。紀元前の前後の中国の殷や周、秦、漢の時代とも変わらないのかも知れないと思う。

こんな時代だからこそ、せめて質素に生きる価値があると思う。

贅沢やセレブ志向は、自慢出来る事ではない。窮乏化していく人達の恨みのターゲットになるだけ。

自分が生きて行くのに、最小限に必要なものを、控えめに得て、質素に生きて行けば、どれだけ心は穏かになれることか。

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July 03, 2008

利他的遺伝子

地球上の人口の1万倍の数、60兆の生物(細胞)の集合体である人間。遺伝子のプログラム通りに生まれ、死に逝く。

このおびただしい数の細胞(生物)がひしめきあっている人体で、戦争もなく、よく調和して生きていけるものだと、遺伝子の村上和雄先生は云う。利己的な遺伝子ばかりだったら、決して出来ることではない。

「他の臓器を助けなさい」と働いている遺伝子が、利他的遺伝子が、身体の中には、必ず存在しているはずだ。他への思いやりの生物的根源が、遺伝子の言葉で語られる日が、いずれ来るはずだと、村上先生は信じている。

利他的遺伝子か・・・・・・、村上先生と一緒に、探してみたい気持ちになる。人生の宝探し。

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July 02, 2008

人生、全て誤差の範囲?

地球上の全ての生物は、大腸菌だろうが人間だろうが、全く同じ遺伝子暗号を使っているとのこと。

何たることか、地球上のあらゆる生物は、微生物、動物、人間を含め、DNAで繋がっている。遺伝子の村上和雄先生の講演で聴いた。

科学は素晴らしいが、科学の力で、部品を集めても、一つの細胞でさえも造ることはできない。今人間として生を受けていることだけでも、余りにも幸運で、また莫大な高価な身体をもっていることに気づく。今、人間として生きているだけで、金持ちだろうがなかろうが、偉かろうが偉くなかろうが、どちらでも好い誤差の範囲。

人間の生命は地球38億年の歳月の中で、微生物のような時代から、一度も途切れず今日まで生き延びて来ている。

人間としての100年か20年か、50年かは、どうでも好い誤差の範囲。38億年プラス何年と云うのが、自分の命の真相。

人生、全てのことは、誤差の範囲。目くじら立てることは何も無い。

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July 01, 2008

「完敗で、幸せ」の境地

ある姉妹の話で、現実的な姉と、理想家の妹が、よく姉妹喧嘩していたと云う。

時を経て、ある時、姉が、妹に手紙をくれたそうです。「貴方に完敗です。そのことを嬉しく思います」と。

「貴方に完敗で、幸せです」。

これは、宇宙に溶け込むような、雄大な、深い愛情の境地ではないかと想った。

自分は誰に対して、完敗で幸せを感じられるだろうかと想像してみると、自分の愛情の対象が垣間見れるような気がする。


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