どちらでも好い境地
「どちらに転んでも大丈夫の境地は無いのか?」の問いが、坐禅の住職の出家の命題であったと云う。
「どちらでも好い」と云う境地。執着から開放された境地。「もう、そのままでいいんですよ」と云う境地。
光も闇も一体化した境地。時に光に、時に闇に。
力を抜けば、大きな宇宙のリズムが、その鼓動の波に載せてくれるような気がする。じっと耳を凝らす。
「どちらに転んでも大丈夫の境地は無いのか?」の問いが、坐禅の住職の出家の命題であったと云う。
「どちらでも好い」と云う境地。執着から開放された境地。「もう、そのままでいいんですよ」と云う境地。
光も闇も一体化した境地。時に光に、時に闇に。
力を抜けば、大きな宇宙のリズムが、その鼓動の波に載せてくれるような気がする。じっと耳を凝らす。
中国の重慶で、ホームレスの男性が、肉体労働・ごみ拾い・物乞いで貯めたお金180元(約2680円)を、四川大地震の被災者へ街頭募金で寄付したと云う。5月26日、YahooNewsで知った。「苦しいことがあれば、四方八方から応援するものだ」ともメモに書いてあったと云う。
日頃、坐禅の住職が云う修行の極致、「自己救済の前に、他者救済を優先する行為」とは、このことかと、胸が熱くなった。
コピーを妹や知人にも送った。
Yahoo Newsのインターネットの書き込みには、感動の嵐と、心無いコメントも少々続いていた。
全てが、人生を現しているようだった。
空き缶や雑誌を山ほど抱えている姿を見慣れたホームレスの人が、自分より、優先する価値に目覚めていることを想像するだけで、私は衝撃的な驚きと幸せに包まれた。
六本木のミッドタウンの中の店で、高級ハンバーガーが、ロブスターハンバーガーと云うのがあり、何と15、000円とのことだそうだ。昨日、知人に教えられ、思わずメモした。
世界の実体経済は5,000兆円(GDPの合計)のところに、その3倍もの規模に、肥大化した金融経済があると、数日前の石油の業界誌に書いてあった。
高騰を続ける商品市場や資源高も、幻のお金の投影か。
世界の問題点は、ただ先送りされたまま、進行している。
7~8年前、40才の時、人工透析になられた女性が、もう長く生きなくてもと諦めていた時、二人の子供が病院に来て、母と会った場面の話を聞いた。
中学3年の男の子は、どんな身体になっても生きてと頼んだと云う。
中学1年の男の子は、母の背中に回って、母の身体に顔を押し付けて、ただ母の匂いをクンクンと嗅いでいたと云う。
その時、その女性は、生きる力を取り戻したと云う。
私も、脳裡の中で、優しかった母の匂いを想い出していた。
全体主義国家の戦争の悲惨さを、痛切に感じ、時代に警鐘を鳴らし続けた城山三郎さんは、私も共鳴するところが沢山ある。理不尽な組織の為に、泣かされて働く企業戦士にも、彼は、戦時中の日本の全体主義の残酷さを見ていた。「旗振るな、旗振らすな」と云う彼の思想は、心に残るものがある。戦争に翻弄された人間の、体験から来る、迫力がある。
「全体主義」、「滅私奉公」とかの響きは、私は、とうの昔に、忌み嫌うべき言葉の棚に葬っていた。
数日前、坐禅の住職は云った。「組織の為」でなく、「一切の為」に拡がるならば、滅私奉公は、修行の最高の極致であったことを。
個人主義的・西欧的発想より、家族主義的・組織主義的な日本の発想が、その枠を拡げ、「一切の為に」とすれば、世界の平和に、心の安定にどれだけ貢献出来ることだろうと思った。
嫌な物は、個人では被害の意識、陰の力。全体では、守る力。慈悲の心を生む。強すぎると、盲目的になる。
良い物は、個人では、むさぼる気持ち、陽の力。全体では、攻める力。知恵の心を生む。強すぎると破壊的になる。
陰の力も、陽の力も同じもの。出方が違っているだけ。
「煩悩・即・菩提」 「悟り・即・迷い」。二つのものの背後にあるものがある。
人が、通常見ている外の世界を見る眼は、「見の眼」(けんのめ)と云って、時間・空間において間違いを起こすと云う。
「観の眼」(かんのめ)とは、遠くにある点と、目の前の点を同時に見るような事と云う。
大きく開いた左右の手を、同時に見る事のようなものと云う。
心の中で、外の世界を見る眼、すべての気配が感じられて来る眼である。宮本武蔵の眼。
阪神大震災を経験された人の手記にあった。毎日が特別な日だった事に気づいたと。
毎日が特別な日、人生最後の日だったのに、いつもの通りの平凡な日と思い、平凡な過ごし方をしていたと思うと。
誰と会い、何を語り、どの様な時を過ごすのか?人は、今日も、大きな選択をして生きている。
昨日、知人に頂いた資料の中で、「自分の家を造る仕事が人生」と考えている人の話が書かれていた。
大工さんが、通常、お客さん用に建てているありきたりの家を、建て終わった後に、退職時、会社からお礼にと、自分にプレゼントして貰ったと云う時の話であった。
クレームが来ない程度に適当に造っていた家が、いざ自分のものと思った途端に、いざ自分が住むとなった途端に、他人事では無かったことに気づいたと云う話であった。
柱や壁、釘の一つ一つが、見る度に、自分が造ったものながら、恨めしく思えたと云う。
そして、人生は、自分が、外の世界に何らかの発信して生きていることは、社会にも、他人にも、結局、それは自分の家を造っている行為であったことに気付いたと云う話であった。
平凡な毎日の生活でも、社会を嘆いたり、人を批判したり、社会や他人を評論したりしても、結局、それは、自分の住処(すみか)を造る行為でもあった。
子供時代に憧れた、里山の中の、心地よい、隠れ家のような、質素でも、心休まる住処(すみか)を造りたい。
ある番組で、若者のビール離れに対応して、ビール会社が、どうやって若者にビールを飲ませるか、あれこれ営業戦略を練ってる様子が放送されていた。
ビジネスの世界の身勝手さや、ビジネス世界への違和感を感じた。
どう社会に役立つかを、常に仕事の基軸に考えてもらいたい。世の中の、沢山の会社は、組織の維持・拡大が、至上命題化してしまっているのではないか?
自分が持ってる物を、人にどう売りこむかではなく、社会や消費者には、どのようなニーズがあるのかを考えるのが先ではないかと私は思う。会社のエゴを社会に押し付けるスタイルになっては、情けないと思う。
人間の肉体も魂も残らないが、「性格」「性質」は永遠に残ると云う話が、ヴェーダンダ哲学の中にある。
釈迦やキリスト、マホメットの性格は、今生きている人の中にも、受け継がれ、今も存在している。
今生きている人達の中の様々な感動は、どこから生まれて来るのかと云えば、永遠に残っている性格の故であると云う。
性格・性質と云うのは、確かに、世代を超え、時空を超え、形を変え、永遠に宇宙に漂っていると云う感覚は、何となくわかるような気がする。
仏陀は、最後の教えの中でも、弟子達に言ったと云う。私について来るなと。
自らを灯りとせよと。
外に神を見出すのでは無く、自分の中の神の存在を感じなさいと。
神である存在が、日常、何故、そう云う行動をとれないのかを、見て行くのが、修行であると云う。
自分が今まで、希望してきたことが、一つ一つ実現していった時、人は気づくと云う。
何か、だらーとした、けだるさのような、つまらなさに気づくと云う。
「私は、私ではなかった」と云う感覚だと云う。私は、全てであったと云う感覚だと云う。
他の救済無くして、自己の救済は無いと。
インドの哲学者、ヴィーベカナンダと坐禅の世界に、その感覚は存在する。
悲惨な人々の中に、神を見出した人は多い。マザーテレサもインドの哲学者ヴェイーベカナンダも。
死に行く悲惨な人々に、何故、神を見出したのか?
悲惨さは、人のエゴを取り去るからだと云う。
エゴを取り去った時、宇宙自体に調和する。
昨日は、年休をとって、浅草の三社祭りを初めて見物した。浅草寺の本堂の階段に立って、前を通る大行列を見た。
人混みをかき分けて、ゆっくり近づいて来る、お囃子屋台から響いて来る、笛や太鼓の音が五重の塔に映えて、感動的だった。芸者さんの行列、白鷺の舞いの行列なども続いた。
祭りは、何故か、子供の頃、父に連れられて行った、祭りを想い出す。父がよく寝る時に話してくれた、カラス天狗の話の中の祭りの場面の、祭りの音、「♪ピュルヒュール、ヒュール、ヒュール、ドン・ドン・ドン・ドン♪」と云うメロデイーも脳裡に浮んだ。
人生で初めて見る、三社祭りであった。
仕事の原点は、社会に役立つことだと思う。社会に役立つことをするからこそ、社会が、人が、お金を払ってくれる。
社会に役立つことの原点を忘れて、運動会やオリンピックのように、ただ自分の属するチームの勝ちを目指して頑張っている姿は、尊敬にはほど遠い。
社会が喜ぶことをしているか?人が喜ぶことをしているか?の自分への問いかけは、仕事の原点を思いださせてくれる。
自分の収入が増える技術を増し、経済的に豊かになることに気を取られていると、アット云う間に人生は終わってしまう。
昨日は、初めて六本木のミッドタウンにあるリッツカールトンホテルへ行き、あるレセプションに出席した。このような、業界の知人・友人に一同に会する機会は、私は大変好きで、殆ど出席する。大変あり難く思う。
今回初めて行ったミッドタウンは、確かにすごいと思った。しかし、今の私には、このような街は、さほど関心は無いことに気づいた。
セレブ志向や、富裕層向けの云々には、今の私は、軽薄さを感じてしまう。それはそれなりにすごいが、それだけのこと。表面的なことにこだわる人達の嗜好かとも思う。
私は、質素な中の、抑制された中の美が好きだ。金にまかせた贅沢には、その精神性に疑問を感じてしまう。
幸せなのか、不幸なのか、はそれぞれの人が、勘違いしているようなものかも知れない。幸せとか不幸とか、人間が感じるのはそれぞれの人の勘違いで、自然や、物事は、中立的な現象だと思う。
物事を不幸に感じるのも、勘違いかも知れない。幸せに感じるのも同じ。ただ、自然現象があるのみ。
金子みすずさんの大漁の歌を想い出す。大漁で、浜が、漁村が、幸せに湧き返る時、魚は、仲間の大量の惨事に、弔いに静まり返る。
人は「人間としての勘違い」の中で、また「自分としての勘違い」の中で生きている。そして、その勘違いの中でしか生きて行けないように造られていると思う。それもまた好しかとも思う。
私が、禅の入門図と云われる十牛図に最初に接したのは、6年前、中村天風さんの著書「盛大な人生」の中だった。
一昨日、横山紘一先生の著書「十牛図入門」(幻冬舎新書)を買ってみた。ぺらぺらと数ページめくるだけで、もう感動の嵐が巻き起こる想いだった。
逃げた牛を探すところから始まり、牛を見付け出し、飼いならし、そして全てが空になり、最後の十枚目に、迷える童に手を差し伸べる境地となる図である。室町時代に中国から伝わった図だ云う。
「自己究明、生死解決、他者救済」が描かれていることを再認識した。
一元を目指し、再び「二元に遊ぶ」境地だと思った。
昨日、白楽のジャズ喫茶に来ていた、お客さんの話が、母の日に因んで、とても印象に残った。
母の日に花屋さんに、500円玉1個を持って、500円と書いてある花を買いに来た幼稚園くらいの女の子がいて、当時アルバイト店員をしていた高校生の妹が、消費税の25円のことを云い出せなくて、自腹をきったとのエピソードでした。
525円ですと云ったら、その女の子は、泣きべそをかいて、泣いて帰りそうに彼女は想像したのでしょう。自分の時給から無くなった25円。母の日に思い浮べる心の情景です。
横浜Fマリノスの日産スタジアムのある横浜線の小机駅。1478年上杉家の内紛で、長尾影春の勢力は小机城を拠点に戦った。これを攻め滅ぼしたのが、内紛の鎮圧側についた大田道灌。
小机城跡は、うっそうと竹林の生い茂る丘の上にあった。中世の山城らしい、丘の上の勇壮な館跡であった。城跡を縦断する、第三京浜道路が、昔の道路行政の文化的配慮の無さに唖然としたが、今でも、城跡が残っていただけでも有難くも思った。
先日訪ねた横浜線・大口駅近くの丘の上の住宅街には、武田信玄に滅ぼされた信濃の諏訪家の寺尾城跡もあった。
昨日の午前中は神奈川いまむかしの会のご案内で、初めて小机城跡を訪ねた。私の住んでる白楽からさほど離れていない場所が、越後の上杉家の居城だったことにも、また大きな驚きを感じた。
小雨降る、新緑の中を、中世の戦国時代の城跡を散策するのは、穏かな感動でもあった。
「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬 雪冴えて涼しかりけり」
今ここ、そのまま、大丈夫の世界。
昨日は、終業後、田町で、坐禅の会に出席した。
修行とは、どこまで、自分を離れて行けるかの距離の長さのようにも感じた。自分を離れる距離は、短くなったり、ちょっと伸びたりの毎日のようにも感じた。
昨日は同じ九州の福岡・熊本出身の懐かしい友人と三人で、懐かしい銀座スナック三池へ立ち寄った。
私は、得意のギャグを放ったり、方言や放言をさく裂させながら、数十年前のような気持で勇ましく飲んだ。
三人で、カラオケも歌った。私が選んだのは、和歌山ブルース(マスターが得意だった歌)、シバの女王、高原のお嬢さん、哀愁のカサブランカ。
雰囲気で、久しぶりに深夜まで飲んでしまった。そんなこともあったナーと昔を想い出しながら、深夜の電車で横浜へ帰った。ちょっとした、昔の自分との再会の時間でもあった。
社会には、現状に不満足な部分と、満足な部分がある。それぞれの人の人生においても然り。不満足な部分が、変化を求める改革の力となり、満足な部分は現状維持の保守の考え方となる。
変化だけでは疲れる、息切れする。現状維持だけでは、ダレて、感動が薄れる。自然界の陰陽の働きとも似ている。絶妙なバランスが、必要なのだろう。
最近、変化について、軽率な、身勝手な変革が、社会に、蔓延していると感じる。
「変えよう」と云う政治のポスターが多いと思う。どう変えると云うことより、ただ「変えよう」と軽率に、突っ走る世論が強いと思う。フライパンから火の中にと云うこともある。
変えたい時は、どう変えるのかを、絶えず気をつけておかないと、思わぬ乱流に呑み込まれることだってある。
もし、ジュリアスシーザーの時代のローマの街角にいたら、もし元禄時代の江戸の街角にいたら、など考えていたら、今の私も、結局は、将来の人類から見れば、まさに、歴史の大スケールの中にいることではないかと思った。
そう思うと、明けゆく朝が、浮世絵の江戸の風景に見えたり、家の造りや、街並みが、映画の大セットのように見えたりしてくる。
道ゆく人々の表情も、新聞の見出しも、全て、すごーい。2008年代だと、驚嘆する気持ちになる。
その時の私は、2300年くらいから、振り返っているようなような感じではないかと思う。想像の旅も、楽しい。
果物を食べる時に、いつも思う。果物の、美味しさの神秘を。
果物自体を、他の動物が食べて美味しく感じるように果物は、自分を創り上げて、それを食べた鳥や猿や人間を通してその植物の子孫が増えて行くように出来ていると。
果物は、喜んで自分を食べられることで、自分の生命を全うしている。自己犠牲の極みでは無いのだろうか。
いつも、大好きなキウイを食べる時、そういう思いが浮かんで来る。
人生もジャズのアドリブの演奏のように、自然に出たとこ勝負で、調和したメロデイーを奏でられたら最高だと思う。
自然に、自然に、メロデイーが躍動するままに。
今まで起きた、色々な幸せなことも不幸なことも、自然なメロデイーだったのかも知れない。
そう思うと、気持ちがスーと楽になる。
これからも、素晴らしいアドリブを奏でたい。自然に身を任せて。
昨日、午前中、思いがけない宅急便が来た。数日前にパソコンの会で会った友人が、私が雑談したことを覚えていてくれて、日吉台地下壕のこと、満洲のCD3枚、毛沢東の書籍を、宅急便で送ってくれた。
慶應大学日吉校舎の地下には、帝国海軍・連合艦隊指令部地下壕があると云う。地下30メートルに延べ2600メートルの地下壕があると云う。特攻隊や戦艦大和への出撃命令が出された場所。
私は、日吉に4年も住み、日吉の校舎にも通っていたが、これらのことは、今まで知らなかった。自分の薄っぺらさを痛いほど感じた。
人生には、予期せぬ展開や、何かわからない縁がある。今回の予期せぬ宅急便は、パソコンの会に何気なく出たことでもたらされた。
人生を飛行に例えるならば、グライダーのように空を、穏やかに飛ばしてくれる力が、想い出の力だと思う。
時々、体勢を整える為に新たな推力を与えてくれるのが、何か新しいことに挑戦する時。
そして、人生の楽しみのおまけは、日々の小さな驚き。
人生をグライダーのように、緩やかな気流に漂う鳥のように、飛ばせてくれるような力が、想い出の力ではないか。
想い出は、未来への燃料。
先日小田原に行った時、小田原駅前から特別に観光循環バスが運行されていた。好奇心から乗ってみたところ、石垣山の秀吉の一夜城跡にも連れて行ってくれた。
石垣山から小田原市内や小田原の海を眺望して、初めて1590年の秀吉の小田原攻めの時の様子が、グーんと近づいて感じられた。秀吉は小田原攻めに千利休も同行させ、石垣山でお茶も楽しんでいたと云う。
私は小田原には今までに何十回行ったかわからないが、石垣山や一夜城の場所は、どこか知らず、また行ってみようと云うほどの強い関心も無かったが、今回の偶然の観光巡回バスとの出会いが、貴重な場所へ引き合わせてくれた。
1590年の様子が一挙に、私の脳裡のパノラマに出現したような境地だった。ある場所、ある人との出会いが、人生の景色を一変させるようなこともある。それは、イメージが繋がる時の、圧倒的な想像力の開放である。
石垣山から小田原市街を眺めるのは、特に素晴らしい。
昨日は久しぶりに、パソコンソフト・マイツールの会に出席した。
日本人が考案したソフトで、リコーが十年以上前に売りだし、今は無料のソフトになっている。エクセルより遙に使い易く、今でも根強いファンが全国に数千人いて、ファンの全国組織もある。
私は、マイツールを使いこなしている訳ではないが、マイツールの会は、懇親会も楽しく、時々出席している。
昨日は、富岡八幡のある門前仲町で、おでん屋さんでの懇親会に出席した。パソコンのことよりは、話題は色々な、予期せぬ分野に飛び散り、いつも面白い。
マイツールとの出会いも、私の人生の、ルネッサンスを彩る、大変な可能性を秘めた出会いだったと思っている。マイツールを、使いこなして、日常生活も、色んな統計を作って試たい。人生の色んな側面を、整理して見れて、とても面白いと思う。