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February 29, 2008

愛と云う響きの危険

愛と云う言葉は、素晴らしい言葉の響きを持っている。

だが、愛と云う言葉にも、夢と同じように凶器を含んでいる側面があることを思う。一つの愛が、他の排除、他への無関心を伴って進行して行く時に、愛は凶器、狂気にもなって行く。

自分の国を愛するが故に、他国を悲惨な滅亡へ向かわせることもある。自分が愛する特定の人のみに、気を取られている間に、多くの人の悲惨な苦しみに、背を向けることもある。

一定の愛が、先ず全ての人に向けられてこそ、その後に、特定の自分の国、自分の特定の人に向けられてこそ、美しい生き方になる。自分の国のみ、自分の家族のみに愛が向けられた場合、美しさは消え、醜ささえ生じる。

他国の存在を忘れて、他人の存在を忘れての愛も、美しい愛として語られる大いなる危険が、人間社会には存在している。

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February 28, 2008

元来、不合理の気づき

人生の中で、「何の罪も無い人が」、「何も悪いことをしていないのに」と云う場面をよく見かける。

インドネシアの津波災害、ユダヤ人であったが故の虐殺、アフリカの内戦の犠牲、交通事故の被害など、色々な場面を、その人の人生の因果関係でみると、まさに「何も悪い事をしていないのに、」と云う気持ちになることが多い。

ライオンが、草食動物のインパラの群れを襲い、偶然、群れから逸れた1頭に襲いかかるように、時に災難は突然、降ってくる。

元々、何かをしたから、こうあるべきと云う人間の思想を、はるかに超えた宇宙の営みが、そこにはあるのだろう。それは、人間にとって合理的とか、不合理とか云うのとは、全く違う、異次元の摂理なのだろう。

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February 27, 2008

想い出の勝利

人生で関わる人との時間は、長い人もあれば、とても短い人もある。長く関わっている人が、それに比例して強い印象に残るわけではない。

その人との関わりの衝撃が大きければ、短い関わりでも強い想い出が残る。

人との関わりには、長さと深さの尺度がある。想い出は関わりの深さの表れ。

想い出が強く残ることは、その人の人生の勝利だと思う。想い出の勝利。

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February 26, 2008

電車の中に見た病める社会

昨日私の勤める会社はアラブの本国の祭日で、日本も特別休日になった。通勤時間よりちょっと遅めの朝9時過ぎに、白楽駅から東横線に乗り渋谷へ向かった。

乗り込んで来た40才くらいの男性、身なりは普通だが、酒の匂いをプンプンさせながら、私の横に座った女性乗客の前に何度か、しゃがみ込んだり、立ちあがったり。たまらず女性乗客は、席を立って次の駅で降りてしまった。今度、私の真横にその変な男性が座ったら、私の服の端を無言で、強く押しやり、何か因縁でもつけられそうな雰囲気。私も、思い出したように席を立ち、次の駅で一旦ホームへ降りて別の車両に乗り変えた。

乗り変えた車両の席で座って安心していたら、隣の若い青年が、ブツブツ一人言を云いはじめた。これはやばいと思って心配したが、また席を変わるのが面倒で、様子をみながら、何とかこのまま辛抱して、そのまま渋谷まで乗った。

その席で、立っている乗客を眺めると、コートを裏と表を明らかに逆に着ているような青年を見た。明らかに裏地の筋のような布が見える。こんなファッションがあるのだろうか?とも思ったが、やはりありえないブサイク。 ちょっと、通勤時間をずらして乗った電車の中に、変な人達のオンパレード、まさに病める社会が濃縮されているように思った。

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February 25, 2008

既に、千の風になったとしたら

快晴の日、不図、空を見上げ、千の風とはどんな風だろうかと想像した。

そうだ、もし千の風になったとしたら、小鳥になって誰を目覚めさせるのだろう。星になって誰を見守るのだろう。

一度死に、忘れ物をして、この世に舞い戻ってきたら、どんなことをするのだろう?

そんなことを考えたら、人生を、日々をどう生きるか、明らかな道が見えてくるような気がする。

そして、人生も、人間の60兆の細胞世界では、小さな死と生を繰り返しながら、継続している様も、一緒に想像した。

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February 24, 2008

原作・神、脚本・神、演出・神

「原作は神、脚本も神、演出も神」の作品が、人生ではないのか。

それぞれの人の人生では、それぞれに主役が別で、主役は自分。メインキャスターは、父、母、家族など。

実際の人生では、気になってしょうがない成功者のように思える人達も、単なるエキストラみたいなもの。時の総理大臣だって、自分の人生では、通行人のような脇役。

エキストラに惑わされず、メインキャスターや、自分の役者振りを、原作者になったつもりで、考えてみたい。

そして、燻し銀のような円熟した演技をやってみたい。

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February 23, 2008

文学者に囲まれて

昨日会社の帰り、新宿で開催されている世界ペンフォラムの夜の部の原爆に関する朗読劇を見て帰った。

20時頃終了の後、会場のロビーで、作者の井上やすしさん、大江健三郎さん、浅田次郎さんが、ほんの4m四方くらいの距離の中に、帰る観客の中に紛れて知人達と話しをしていた。

私は、はっきりと、三人を見て、その三人の近くにちょっといた自分が、嬉しくなった。文学者に囲まれてって感じ。その場所は、一瞬だったが、はっきりと違った空気が流れていたように思う。

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February 22, 2008

名刺のユーモア

昨晩、クウェート大使館主催の開放記念日レセプションで、ある政治家の元秘書の方の名刺は、茶目っ気があって、傑作だった。名刺に、大きく漢字で、「名刺」と書いてあって、右下に、自分の名前を小さく書いてあった。本来の名刺が無くて、私的な名刺として頂いた。

以前、音の出る名刺を頂いたこともある。名刺に、オルゴールが仕組んであって、押すと素敵な音楽が流れる。コストは一枚500円とかおしゃっていた。曲によっても、すごいユーモアになりそうだ。演歌だったら?

過去、国内で出張した時、胸ポケットから名刺を出したつもりが、ホテルの朝食時に胸ポケットにしまった焼き海苔を出した時は、我ながらビックリ。これをヒントに、焼き海苔以外の面白い小物を、突然出したら、傑作だろうと思った。例えば、台所の小さなおろし金とか、つり銭用の小さな皿とか・・・、色々考えるだけで愉快になる。ちょっと病気かな?

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February 21, 2008

極悪人と善人

人間は、食用に飼っている家畜から見れば、極悪人。魚を食べるのが好きな私は、魚から見れば、天敵、極悪人。

そして、大概の多くの人は、苦しむ悲惨な人達を助けたマザーテレサを尊敬する美しい気持ちも持った善人でもある。

人間とは、客観的な存在として見れば、極悪人と善人の同居する存在ではないのか。

ただ、人間として、生きて行く為の、関心事と、無関心な事が、分かれていて、人間は気づかない極悪人の世界も持っているのではないかと思った。意外に気づかない人間の側面を見た思いがした。せめて、その事を自覚して生きて行こうと思った。

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February 20, 2008

長男

私の母は、十年以上前に亡くなっているが、生前、子宮ガンを患ったことがある。ガンとストレスの関係で、母のストレスのことが、ずっと気になっていた。満洲引き揚げのことや、戦後の生活の苦労などを漠然と思っていた。

数日前に、小田原の妹と二人で、横浜で食事をした時に、妹が、長男でもなかった父が、子供の頃、祖父・祖母を引き取って同居したことが、口には出さずにも、大きなストレスになっていたとのことを初めて聴いた。

子供時代、6人兄弟・姉妹の家に、祖母・祖父が同居し始めた時のことは、微かに覚えている。子供の頃、毎日、二階に食事を運んだことも覚えている。文房具店や、貸本屋を営みながら、一家総出で働きながら、母の心は、パニックになることも多かったであろうことが、今は、痛いほど分かる。

ただ、小さかった私が、「長男で良かった。母ちゃんを面倒みれるから」と云ったことが、母は、痛く嬉しく、何度も、人の前で、そう云っていた。結局は、地元に残された弟夫婦が両親をみてくれた。 「長男」の響きは、遠い昔の家族の情景を想い出させる。


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February 19, 2008

「アース」、地球・大自然の映画

昨日、終業後、前から見たかった、「アース」と云う、地球・大自然の映像の映画を見た。

大自然を見たい気持ちは、坐禅を求める境地に似ている。宇宙の摂理を見るようで。

熱帯から南極へ6,000キロの海を泳ぐ鯨の親子。嵐の海では、母鯨も、子鯨も、はぐれまいとして、ヒレで海面を叩きつけて、大きな音を出し、お互いの位置を確認しながら泳いで行く姿があった。

確かに、私も人生の中で、母にはぐれないようにしがみついて旅した時代があったことを想い出した。そして、私も、子供に、鯨のように音を出して、はぐれないように見守った時代もあったことも想い出した。

成人したら、そんな時代が、ほほえましく、また厳しく、哀しく、逞しく思える。そして、大自然の一部を歩んで来たことを思った。

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February 18, 2008

語学は方言を聴くように・・・

昨日、講演会で、韓国語と日本語の対比を示して貰って驚いた。

自動車は、「ちゃどんちゃ」。 水道は、「すど」。薬局は、「やっくく」。

ギャグみたいで、可笑しくて、笑ってしまった。色んな国々の言語は、特に周辺国では、似かよっていて、お互いに、方言のようなものと云うのは、全くその通りだと思った。

昨日、横浜・日本大通りでの、7ヶ国語学習クラブ、Hippo Club の講演会での発見でした。

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February 17, 2008

哀しみに遊ぶ

人生には喜びと同じ分量の哀しみが用意されているように思う。逆から云えば、哀しみの分だけ、喜びもある。

そして、過去に味わった哀しみの激しさに応じて、今の哀しみは、柔らかな哀しみに感じられる。

色々な哀しみを経て来た人間が知ることのできる境地、それは「哀しみに遊ぶ境地」。それくらいでなきゃ、修行した甲斐がないと思う。

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February 16, 2008

躁(そう)の人の役割

政治家や財界人、スポーツ選手、芸能人など社会で目立つ人は、躁鬱の躁(そう)の方の人達なんだなと思う。

だけど、幸せな勘違いをしてくれているおかげで、社会が活動的に動いて行く点では評価して上げなくてはと思う。社会や人間を単純化して、思考・行動して行くから、衝突も多い。それが毎日のマスコミを賑わす。

大勢の普通の人は、躁(そう)の人と比べると、ちょと大人しく、愚痴・悲観も多く、欝(うつ)っぽい。時に躁(そう)の人の押し付けに抗議する。犯罪や事件にもなる。鬱(うつ)の人どうしの喧嘩も、時に起こる。

行動する時に躁(そう)になり、休憩する時に鬱(うつ)になるような、「躁(そう)に遊び、鬱(うつ)に遊ぶ」、そんな生き方は、芸術品並ではないかと思う。

交換神経による活動と副交換神経による休憩に似ている。 確かにどちらかに偏ると、滑稽でもあるが、病気になりがちであると気付いた。

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February 15, 2008

バランスの芸術

今私が見ている今と云う時は、バランスの芸術、芸術的な均衡なのだと思う。

喜びも哀しみも、幸せも不幸も、健康も病気も、成功も失敗も。社会や経済の発展も衰退も。

あらゆる矛盾は統一へ向かい、統一は矛盾へ向かう宇宙のバランスの摂理の中。

そういう宇宙の摂理を感じれば、穏かに身を任せる気持ちも湧いてくる。寄せては返す海の波を想う。

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February 14, 2008

俳句の絵画

先日NHK俳壇の特集でメモした。

「降るように、触れくるように、虫の声」、「秋の山、四五人の声、一列に」

「校塔の、律義な時計、夏休み」、「産声の、光となりて、白障子」

「苗売りの、明るき声も、買いにけり」

私は、これらの句から、私が描く風景が、それぞれに細かく浮かんでくる。見回して見ると、風も輝いている。

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February 13, 2008

規制緩和・民営化のかげり

市場は自ら均衡に向かう性質があり、市場参加者達がそれぞれに自己利益を追求することで、共通利益が最善の状態で得られると云う市場原理主義は、幻想であったことに世界は気づきつつある。

自由主義・市場主義を標榜・実践して来た米国が、自らのシステムの中から、サブプライムローンと云う劣悪な不良債権問題も引き起こし、世界を混乱に落としいれようとしている。

過去、金融危機を回避して来たのは、金融当局の介入であった。市場主義だけでは、金融工学を駆使した、金の亡者達から国民を身を守ることは困難でもある。

民営化でも、官営でもない、そんな機械的な制度の問題ではない。結局は、行動する人間の品格や徳の高さに依存しているのだと思う。

官への不満が充満して、民営化を解決の旗印にしたことが、余りにも単純な世論だったことに気づくこのごろ。

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February 12, 2008

幸せ総生産、ネパール

国民総生産GNP、国内総生産GDPなどは、毎日、新聞に出て来て、人間社会の世界中の関心事のようにとらえられている。一年間にどれだけの富を価値を作りだすかの経済的尺度。

現在のGNPで富を表す尺度に、大疑問を投げかけるのが、Gross National Happiness(幸せの総生産)。ネパールの人の考え方と云う。

東洋人の私は、経済が目指す右肩上がりの目標・将来に、動物的に疑問・不安を感じる。循環思想、バランス思想の自然界を感じると、経済成長・拡大を志向することの、偏執狂的単純さに危険を感じてしまう。

人の心を豊かに、幸せに、必ずしも導かない経済成長に、大いなる疑問・危険性を感じる。田舎の人達の穏かな表情を、都会の殺伐とした、目が血走った、したたか過ぎる人達ばかりに変えてはならない。GNPでは、人間を知るには、単純過ぎる。GNPでは、人間の心を知らな過ぎる。

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February 11, 2008

石も人も草も

「人間とは何か?」では、修行が浅いと云う。人間中心、自分中心では、見えるものも見えない。確かにそのとおりだと思う。

「人間とは何か?」ではなく、「存在とは何か?」と思えば、やっと一元論へ近づける。

石も人も草も、存在と云う意味では、同じ。人間以外の存在も同じに見えてこそ、我を離れ、大自然・大宇宙と一体化できる。その境地のことを禅では、大死一番と云うとのこと。

人間を離れる境地に、何とも云えない高尚な修行の世界が見えて来る。インド・ヴェーダンダ哲学はすごい。

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February 10, 2008

バランスの摂理

万物は循環している。矛盾から統一へ。統一したらまた矛盾へ。自然の力学。海の波のよう。

矛盾のぶれる幅だけ、また統一への幅が決まる。ひと時たりとも、留まりたること無し。

今、私は、あることでは統一へ向かい、あることでは矛盾へ向かっている存在。その集合体としての人間。

そのリズムを感じ、身を任せる境地。これは、永遠に安らいでいる境地。旅の果てにあるであろう境地は、これだなと思う。

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February 09, 2008

OPECを計る物差し

今朝の日経新聞に、1月20日時点で、世界の株式時価総額は42.3兆ドル(4、500兆円)。2007年末比較13%(6.3兆ドル)減少とあった。即ち1ヶ月足らずで、670兆円を失ったことになる。(たった20日間の株下落で、OPECの年間収入の約10倍損している)

また日本の国富合計は2006年末で、2,716兆円。前年比較0.5%(14兆円増加)。日本の富はOPECの年間石油収入の約40倍)

暴騰したと云われる石油のOPEC全体の石油収入は2007年でも、6,750億ドル(72兆円)ー2008年1月20日米エネルギー省データー。 日本の原油代金は2007年で12兆円。確かに自分で計算してみても、一桁間違いではないかと思うほど小さい。

先進国の富は、石油価格より遙に大きなペースで肥大化している。そして、先進国は、キツネが葉っぱから造ったようなお金に踊らされている。

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February 08, 2008

牛糞エネルギー、私の思索の小さな旅

世界の人口の半分30億人が、薪や牛糞と云う、非商業用エネルギーに依存していると云う。 女・子供は薪を集めるのに平均5kmを歩くと云う。ー2008年1月LPG振興センターのレポートー

インドの1次エネルギー消費の37%を牛糞、次に石炭31%、石油、天然ガスはその次。ー原子力関連懇談会資料抜粋ー

牛糞や薪は、余り日頃感覚の分からないエネルギー分野だから、私は、にわかには信じられない数字だった。世界の経済に組み込まれた世界ばかり、新聞で見ている自分が、恥ずかしくなった。

グローバライゼーションで、世界的市場に組み込まれた世界は、急速なインフレなのか、ゆでガエル的なインフレなのか、世界的バブルにのみ込まれ様相が変わってしまった。その外の世界には、薪を取りに平均5kmも歩く子供達もいる。

世界を動かしているお金って、キツネが造った葉っぱのようにも見えて来る。

お金では現せない、人間の生活の営みが、時に崇高にも見えて来る。

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February 07, 2008

アザラシの肉の秘密発見

一般的には、肉食は心臓病・脳梗塞・ガンなど罹りやすいと云われるが、エスキモーやイヌイットと人達はアザラシを食べても、心臓死など少ないことが不思議に思っていたら、WHOの家森先生の対談記事で、回答が書いてあった。

「アザラシをはじめとする海獣の肉には、魚と同じように、不飽和脂肪酸(常温で液体)が沢山含まれており、コレステロールを抑え、血管を詰まらせない効果がある」とのこと。

地中海地方にも心臓病・脳梗塞・ガンなどが少ないのは、オリーブオイル(不飽和脂肪酸)の効果とも云われる。

牛・豚の肉の脂肪は怖い。飽和脂肪酸、つまり常温で固まる油、同じ油でもえらい違い。

人類は、長い歴史の中で食べて来た伝統食の美味しさを思い出した方が好い。そこに、自然に調和して繁栄して来た、人間の健康の秘密がある。

過度に、牛・豚を食べる食文化や、ファーストフードのような、世界共通の人工食物は、健康に大敵と云われる所以がそこにある。

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February 06, 2008

子供が可愛い理由

街や電車の中や、生活の中で見かけるちっちゃい子供達は、みんなとても可愛く見える。どうしてなのかと考えてみると、行動や言動が余りにもストレートで、素直に見えるからなのではないかと私は思った。

手のうちがすべてバレてるような、幼いストレートな表現。泣いたり、笑ったり、「あッ、新幹線だ!」とか驚いてみたり。

見てる大人の自分は、お釈迦様になったみたいに、手のヒラの上で、子供達の行動や言動を見ているような穏かな気持ちになる。

人間は、キラキラ輝く天使のように生まれ、人間の旅をして、また神様の世界へ返って行くのではと、私は仮説を立てた。

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February 05, 2008

夢中になるに足ることか?

今、自分がやっていることは、夢中になるに足ることか、常に問うことは大事なことだと思う。

1日って、案外早く過ぎて行く。あれもしなくては、これもしなくては、と思っている内に過ぎて行く。

何かをやっていると、一つのことに気を取られて、あっと云う間に1日が終わってしまうこともある。特にたいした重要なことでも無いのに、時間を費やしてしまう。

日常の仕事や、つき合いなどに、気を散らされて、自分の人生で、大切に思っている懸案事項が、どんどん、後に後に押しやられて、延期されて行く。

「夢中になるに足ることか?」、自分につきつける日々の問いとしたい。

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February 04, 2008

人生の動体視力

めまぐるしく変化して行く、周囲の状況や、社会のこと、人生のことを思うと、その様子を見るには、動体視力のような特技・機能が必要なのだと思った。

人生では、日常は、動いてなくて、止って見えることが一杯ある。それは、勘違いなんだなと思う。

そして、何か幸せな状態を、同じように止った状態で、夢見たりする。

いつも、新幹線のように走っている存在の関わりが、人生なのではないだろうか。すれいちがいざまに、何を感じるのか、何を見るか、動物的な動体視力を研ぎ澄まして、周囲を見てみようと思う。

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February 03, 2008

人生の景色の面白さ

若者は、大人の云うことを、迷信と思い、一笑に付す。 大人は、若者の無知、傲慢さを一笑に付す。

子供時代の関心事は、おもちゃ・お菓子。青年時代の関心事は、収入、地位、名誉。熟年時代の関心事は、愛、健康。

常に、変化の途上にいる人間。 景色が変わる車窓のよう。

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February 02, 2008

大本営発表のような生き方

幸せなことも、不幸せなことも等量・同時発生しているのではないか?

それぞれの人の受信機が、幸せにチャンネルを合わせたり、不幸にチャンネルを合わせたりしているだけではないのか?

大本営発表のように、強がりの嘘の発表はやめて、ただ坦々と人生を味わうのが、穏かで好い。色々な人生の番組を、見るも好し。それが、人生の豊かさではないのかと思う。

大本営発表のような生き方は、むしろ空しさが響くような気がする。

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February 01, 2008

巨大な、確率との遭遇

昨日、会社帰りに、もとの会社の同期入社の友人と愛宕の交差点で18:10くらいに、偶然会った。共に新橋方面で一杯飲む約束があり、新橋駅近くまで一緒に歩いて、じゃーまたと別れた。(私は愛宕で勤務。彼は神谷町で勤務。お互いに徒歩圏内であるが、都心で偶然に会う確率は、かなり低い)

一杯飲み終わり帰途につく為、21:40くらい、JR新橋駅から、東海道線の前よりの車両に乗った。

吊り革つかまって、発車を待っていると、隣に、その数時間前に偶然会った友人が、また偶然に乗り込んで来た。お互いに、絶句するほどの驚きだった。同じ駅、同じ時間に、こともあろうに、また同じ車両の、同じ入り口から、私の隣に乗り込んで来た。

余りにも、不思議な遭遇に、お互いに、お前とそんなに縁があったってしょうがないなーと云って暫く、大笑いしながら、その偶然の確率の神秘に、衝撃を受けた。

この確率は、計算するとどうなるのだろう?天文学的数字? ただ、何かキツネにつままれたような、何次元もの世界が存在するような、また頭をかきむしりたいような、未知の世界の存在を感じた。

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