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January 31, 2008

心と魂の違い

心は、魂と比べると、物質的と云われる。ある程度、心のまね事はロボットにも出来ると云う。云わば二元論の中にある精神世界なのかと思う。

一方、魂は、心より深い、一元論の中に存在する精神なのではないかと思う。

大海が魂。波が心と云う感じなのかと、自分流に定義してみた。

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January 30, 2008

カラスの悪戯

数日前、朝、自宅から駅まで歩く道で、私の1mくらい横に、上から鳥のフンが落下して来た。おっと危ないと思って、上を見ると、電線に留まったカラスが一羽。

運が悪ければ、私の頭に落ちて来た可能性を考え、その姿を想像すると、可笑しくてしようがなかった。

カラスは、ただ坦々と平常に生きているだけ。 私も、ただ坦々と通勤しているだけ。それなのに、もし、カラスのフンが私に落ちて来たら??? 坦々と生きれない。パニックになるやら可笑しいやら。

時に、深刻な悩み事でもしながら通勤していたら、もっと面白い驚きだろう。人生もユーモアに満ちている。

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January 29, 2008

偶有性(ぐうゆう性)

「脳を鍛える偶有性」、「コミュニケーションにおける偶有性」と云う言葉を、脳の研究者の番組で知った。

偶有性とは、「想定外のこと」のようだ。つまり、私の大好きな「驚き」。

人と接すると、大なり小なり、想定外の行動・言動に接する。その偶然性に如何に対処するかで、脳が鍛えられ、活性化すると云う。

旅にも、同じ想定外の風景が広がる、人にも想定外の世界が広がる。だから、人生の探検が楽しいのだと思う。

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January 28, 2008

余命100年

「赤ちゃんは余命100年」と云う考えは、何か、考える材料を与えてくれる。夏休みの始めには、8月の終わりの頃のことなど、先の先と思っているのと似ている。

100年と云う期間は長すぎて、一時、時間を忘れていても好い期間なのだろうか。余命1ヶ月、余命1年は、涙を誘う。余命100年では、ギャグかとも思い、笑いを誘う。

夏休みの宿題がたまって、一夜漬けで宿題を片付ける情けなさを防ぐには、やはり毎日コツコツなんだなーと思う。自分の人生の宿題のことを思う。

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January 27, 2008

制度は堤防

人間が造る制度は堤防に似ている。

かなり頑丈に作っても、いつかは自然の猛威に決壊することもある。

想定外の、自然の猛威が、襲うこともしばしば。

大抵の時期は大丈夫だが、人間の造った制度は、ただ頑丈に見える堤防に過ぎないと思う。

そして、堤防が決壊した場合に、政府を頼るか否かは、人生観の一部だと思う。

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January 26, 2008

重信房子さんの生死観

日本赤軍の重信房子さんのインタービューでの彼女の生死観を思わせるような言葉に驚いた。

数々の同士と死別してきた彼女は、こう云っていた。

「死を認めた時の苦痛がそうさせるのか、実感としては誰も死んでいないのです。みんなと今も一緒に闘っている気分です。苦しい時、命に関わる時に、代わる代わる登場して来て、私の苦痛を相対化してくれます」

余りにも、過酷な人生の選択をして来た彼女の人生に、「あの時を過ごしたのは私だ」と云う自信と覚悟があった。

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January 25, 2008

モズク、昆布のガン退治

モズク、昆布、メカブなどの海草が、ヌルヌルした「フコイダン」と云う食物繊維を含み、それが免疫力を強化し、強烈なガン対策にもなると云う。ー石原結実著「免疫力が高い人の生活習慣」幻冬舎ー

ガン細胞の自殺(アポトーシス)を促進、新生血管抑制作用(ガン増殖阻止)するのだと云う。

やはり、生命を生み出した海はすごい。

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January 24, 2008

「母べえ」の響き

「母べえ」と云う映画があることを知った。初めて、その「母べえ」の響きを聴いた時、ジーンと来てしまった。

まだ映画もストリーも知らないが、映画を見る前から、もう、家族の母に対する色々な愛着の場面が浮かんできた。

母に対する、尊敬や甘え、安心、ちょっと茶化した愛情表現。

子犬が母犬にじゃれるような愛情表現の言葉。

私には、人生の喜びと悲しみまで、包み込んだ言葉に聞こえる。

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January 23, 2008

想い出の番付表

人生の中で、想い出をくれた人の順位、番付表を作ってみると面白そう。

相撲の番付表のように作ってみると、西の正横綱は誰だろう、東の横綱は?、順位は、時々入れ替わることもある。

番付に出て来る人達は、それぞれに得意技があるはずだ。それだから番付が上がってきたのだろう。

心に「想い出の番付表」を、描くだけでも、これから如何に生きるべきか、人生に指針を与えてくれそうな気がする。

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January 22, 2008

呼吸の哲学

「滅びること」、「思い通りにならないこと」は、吸う息に似ている。

「栄えること」、「思い通りになること」は、吐く息に似ている。

吸えねば、吐けぬ。吐けねば、吸えぬ。宇宙のリズムの調和の美。

それぞれに、それぞれの時を味わえば好い。一元を知り、二元に遊ぶ境地に憧れる。

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January 21, 2008

論理的とはロボット的、ちゃちな発想?

人間の心の動きは、余りにも複雑系で、時に非論理的に見える。しかし、その複雑系のシステム内では、法則にのっとっているのだろう。

人間が、物事を論理的と呼ぶ時は、極めて単純思考をしている時で、ロボット的発想をしている時だろう。

人間の心も、社会も経済も市場も、人は、その複雑系を読みきれず、あるいわ能力を超えていて、非論理的とかたずけてしまうのだろう。

人間が自分自身でも解明にほど遠い、人間の持つその宇宙性・神秘性に、むしろ、心がスカッとするくらい畏敬を感じる。


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January 20, 2008

トンチンカン

「税金を下げるか下げないか」を国民投票したら、下げる方の票が人気があるのは当然ではないだろうか?選挙も同じではないだろうか?

税金を下げると云った方が勝ちと云うのは、余りにも、トンチンカンな民主主義だと思う。

変な単純な選択を国民に問うのはやめて、もっと政治家なら、玄人らしく政治や選挙をやって欲しいと思う。

政治家の品格の無さを憂う。

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January 19, 2008

篤姫と和宮

島津斉彬に云われて、徳川家に嫁いだ篤姫も、岩倉具視に云われて徳川家に嫁いだ和宮も、嫁ぎ先を出身の薩摩藩と公家から滅ぼされるとは、さぞかし無念で、情けなかったことだろう。

彼女達のその後の行動は、まさに「女の意地」のようであったと思う。「女の意地」とは、これを云うのだと思う。

また一方、幼い娘達を政争の具にした、歴史上の大人物達は、そんなことまでした意味では、品格が無かったと思う。その部分では、決して大した人間ではなかったと私は思う。

篤姫と和宮を、心の中で、厚く弔いたい気持ちになる。

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January 18, 2008

60億人の劇団、60億人の役者

地球上の人間すべてを、役者と考えて試ると、世界が違って見えて来る。

それぞれの、役割が先にあり、それぞれに、役者が振り当てられて、それぞれが、その役を演じている。

そう思って、周りの人を見ると、「役者やなー」と関心する人達ばかり。みんな三船敏郎や森光子ばかり。

すごいなー。ただ、すごいなーと思ってしまう。60億人の劇団。

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January 17, 2008

神の専門分野

昨日の朝、通勤途上、駅に行く道ですれ違う人の表情をチラチラ見たら、確かに、先日電車の中で感じた五百羅漢の時と同じように、神様のようにも見えた。

ただ、それぞれの神様は、それぞれの専門分野があって、慈悲分野、慈善分野、知恵分野とか自分の得意分野があって、その他の圧倒的多数の分野では、全然目立たない普通の人だから、なかなか神と気づかれないのだと思う。

それぞれの神が、抜きん出た専門分野は、分かる人が見ないと、見えない。だから、通行人は、皆、ただの普通の人に見えるのだろう。本当は、ある特定分野では、神なのにと思った。

神の専門分野が違うから、ズレがあるから、お互いの神の部分に気づかないのだと思う。

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January 16, 2008

電車の中の五百羅漢

昨日、夜8時頃、軽く飲んで、地下鉄日比谷線での帰宅する電車の中で、電車の中に座っている人達の表情を、サーと見回して試た。書類に眼を通す男性、眠っている男性、本を読んでる女性、ただボーと前を見つめてる男性、軽くうつむいている女性、それぞれの人が、五百羅漢の表情に見えてきた。

衆生すべてが神とは、このことかと、嬉しくなった。

電車の中の五百羅漢が、それぞれに、慈悲、知恵、怒り、叱咤、求道、など、何かを伝える表情に思えてきた。

今日も、道で、神に会うに違いない。

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January 15, 2008

天地同根・万物一体

地球上の、色んな人間社会の問題の根源、自分にとって受け入れ難い悲惨な展開や事件の大元を作っている人間のことを、自分の不良息子・不良娘と思えば、少し気持ちが変わる。抹殺すべきと云う激しい拒絶感や力みが、緩らぐ。

万物は相対的に、常にバランスをとって動いていると云う。60兆の人間の細胞と似ている。健康な人にも常にガン細胞は存在している。それを退治する免疫細胞も存在している。自ら自死する(アポトーシス)細胞も存在する。すべてが、大きな人体と云う大自然・大宇宙の中で、役割をもって存在している。そして、調和している。

貴方は誰か?貴方は何処から来たのか?の問いに、住職は、次の白隠禅師の句を紹介してくれた。両手でしか出来ない拍手の音では無く、片手だけをかざして、片手の音を聴くが如く、

「闇の夜に、鳴かぬカラスの声きけば、生まるる先の父ぞ、恋しき」、時間も空間も無い、静寂な虚空を垣間見る。

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January 14, 2008

本具仏性(ほんぐぶっしょう)

「あなたは何処から来たのか?」「あなたは誰か?」

この問いかけに、修行すると、「汝はそれなり」と気づくのだと云う。

「自他一如」の世界が、荘厳に広がる。

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January 13, 2008

一元論、二元論

一元論は、二元論を包容する偉大さがある。二元論は、慰める働きがある。

見間違っていたことを知るのが悟り。人は悟ろうとして迷うと云う。迷いを悟る。神のパズルが解けた時、「単純にして美しい」真理が現われると云う。

昨日の菩薩の会で、ヴィーベカナンダ著のヴェーダンダ哲学のことを聴き、メモした。

マザーテレサは、キリスト教の布教の為にインドにきたのではなく、ヴィーベカナンダに触発されて、インドへ行ったのだと云う。マザーテレサは、悲惨に死に逝く人にこそ神を見出していた。絶句する思い。

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January 12, 2008

人生の坂道

子供の頃見た急な坂道が、大人になって見ると、さほど急ではないように見える。人生の中で起こる出来事もそんな風に見えているかも知れない。自分の目線が変化している。凄い嬉しいこと、悲しいこと、など、その激しさが、ちょっと緩やかになっていることを感じる。

また、自転車と坂道を想定すると、年を重ねることは、下り坂でのブレーキが発達すること、登り坂では、登り坂用ギアを充実させているのではないかと思う。

若い頃の坂道は、かなり危険だったが、年をとることで、ブレーキと変速ギアを効かせて、より安全な旅ができるようになって行く。

ブレーキも、変速ギアも無く、人生の坂道を走る人を見ると、「あぶないっ!」と思ってしまう。

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January 11, 2008

毎日が完結した日々

毎日が完結していると考えてみると、ちょっと潔い気持ちを味わえる。泣いても、笑っても、1日の終わりは、もうそれで完結。一つの終わり、その日の死の到来。

今日あったこと、すべてが、いくら、なごり惜しかったりしても、哀しかったりしても、済んだことは、もう永遠に返らない完結。それで、好し。

そして、毎日、人間の60兆の細胞は、沢山の死を迎え、また沢山の誕生を迎えている。

人生が、明日へ続いて行くと考えると、緊張感が鈍くなる。その日その日で完結させる気持ちで毎日を送ると、人生の充実度が増す感じだ。

毎日、気持ちをリセットして、別人になって生きてみる感覚は、ちょっと人生を楽しむ境地。

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January 10, 2008

小鳥界の騒音おばさんっているだろうか?

朝の小鳥のさえずりはすがすがしくて気持ちが好い。秋の虫の声も風情があって、味わい深い。夏の蝉しぐれは、むしろ静かなひと時を感じる。

同じ自然界の生き物の声としては、人間の声のざわめきも、心地よく聞こえても好いはずだが、と疑問に思ってしまう。そう云えば、公園や路地で遊ぶ子供達の声は、確かに心地好いが、人間の声は、小鳥や虫の声の趣には及ばない。

だが、待てよ。小鳥も、何を云ってるか分からないし、音痴で歌ってるも知れないし、小鳥どうしだったら、うるさくって、しょうがないかも知れない。小鳥でも虫でも、騒音おばさんのような人がいて、小鳥や虫の社会で近所迷惑な鳴き方をしてるのがいるかも知れない。

それを、人間は、ぜーんぶ、区別つかないで、すがすがしく気持ち好く聴いているのかと思うと、おもしろーく感じてしまう。


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January 09, 2008

ロケのセットの中で、

現在も、いつの日にか、いずれ将来、懐かしい遠い昔の日々になって行く。昭和30年代がそうであったように。

そう思うと、今、私は平成20年の映画のロケのセットの中にいるようなもの。ロケのセットと思って周りを見回すと、よく作ったものだと関心したりする。すれ違う人達は、エキストラの人達。

時代考証は完璧、時代考証不要の現実の中。

元禄時代や昭和30年代などの情景を見るのと同じように、この今、平成20年の情景を、繁々と眺め回して見ると、新鮮で面白い。

遠い将来の人になったつもりで、大昔になってしまった平成20年を振り返って見ると、好奇心だらけになる。

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January 08, 2008

ルピゴン川を渡るような瞬間だらけ

人生では、毎瞬間、いつもルピゴン川を渡っているのに、それに気づかないのが人間。

人生では、毎瞬間、引き返すことの出来ない重大決定をして生きている。ただ慣れっこになっていて、自分が重大決定をしていることに気づかないだけ。

ロケットの発射の、4秒前、3秒前、2秒前、1秒前、発射! と云う、緊張の一瞬だらけなのに、ボサーっとして、退屈な人生と勘違いして生きているのではないか?

時々、「サイは投げられたり!」と覚悟して、選択した自分の人生を、堂々と進軍しなくてはならない。決断するのが怖くても、時は着実に進んで行く。 これぞ自分の決断と云う瞬間を重ねて行くのが、悔いの無い、覚悟の人生ではないか。

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January 07, 2008

ミニ孫悟空の空想

孫悟空が手の平の上で、毛を吹くと、小さな孫悟空の分身が沢山生まれて飛び散る。どれでも、ミニ孫悟空。

私も、姉も妹も弟も、母孫悟空、父孫悟空の分身なのだ。どれが本物か、見分けがつかない。

私は、父とも母とも、兄弟・姉妹とも一緒だと思ってしまう。なーんだ、そうだったのか。同じ孫悟空。

夢の国、ガンダーラを目指して、玄奘僧正のように、一緒に旅してるような気がする。

そう云う空想は、何とも云えない、幸せな旅だなー。

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January 06, 2008

不幸は必然、幸せは偶然

不幸は必然と思えば、気持ちが楽になる。自分の不幸だったら、自業自得と思えば楽になる。

幸せは、偶然だと思えば、その幸せが倍増するような気がする。反対に、幸せが必然だなんて思ったら、傲慢で吐き気がする。

人は、不幸も幸せも感じるように、造られている。

それならば、「不幸は必然」、「幸せは偶然」と思って生きれば、心の中の不幸と幸せの領土の面積が変わり、とても楽になると思う。自分で編み出した人生訓。神様も苦笑いか。

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January 05, 2008

質素の美

物欲から開放された、「質素の美」にうっとりできる人間、私は、そのような生き方に憧れる。

そのような人は、極めて、自然に調和して生きているように思う。そこに、大自然のみずみずしい、生き生きとした静寂がある。

けばけばしい物欲に翻弄されて、あくせくと活動するのは、滑稽にも思える。自分を、けばけばしくしても、どんどんエネルギーを消耗し、人の心からも、自然からもどんどん離れて行くように思える。

「質素の美」とは、神に祝福された、圧倒的な美だと思う。

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January 04, 2008

衝撃力と浮力

水上走行出来るトカゲのような生き物、襟巻きトカゲの一目散の走行にように、水上を走るバシリスタ?とか云う生き物の映像を見た。両足で交互に激しく水面をたたく衝撃力で、浮力を生んで走っているのだと云う。

そうだ、衝撃力、それが私が人生で「驚き」と呼んでいるやつで、生きるエネルギーみたいなもの。人生の浮力だと思った。大きな衝撃であれば、あるほど浮力が生まれる。人生には、正の衝撃も、負の衝撃もあるが、浮力には違いない。衝撃は、行動や、人との遭遇、大自然との遭遇などで生まれる。

人生のベテランは、小さな衝撃でも、過去の衝撃からでも、生きる為の浮力を得ている。衝撃は、時折ないと浮いていられない。鳥の羽ばたきのよう。

そうか、私は、小さな衝撃のエネルギーを感じられるように、沢山の受信機を張り巡らせて生きようと思う。

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January 03, 2008

大牟田の街のイメージ

年末に、故郷・大牟田の街を歩いていた時に気付いた、如何にも大牟田らしい響きの店や看板のサイン。「白亀会館」、書店の「金善堂」、玩具の「沖牟田」、「だるまわた」、「草木饅頭」、貝の「たいらぎ」、祭りの「大蛇山」、「三池炭鉱」。

「だるまわた」の看板はもう見かけないが、懐かしい。子供の頃、私は、さかさまに読んで、「たわまるだ」と云っていた。

文房具店もやっていた父の自転車の後の席の、三菱鉛筆の文具箱に入れられて、大牟田の街に行っていた頃。 大きかった大牟田の街は、今では、人生の小さな散歩コースのようだ。

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January 02, 2008

車窓の雪景色、人生、そして2008年

昨日、1月1日朝、お屠蘇を頂いて、九州から横浜へ帰って来る時、大牟田は雪だった。故郷の雪は何十年振りだろう。雪やコンコン、あられやコンコン♪の歌を想い出す。ちょっと吹雪いた大牟田駅前って幻想的でとても好かった。そんな時に、人生をジーンと感じてしまう。

TVの歌を余り知らない私は、今回の帰省で、初めて「吾亦紅」の歌を知り、両親へ謝りたいとの台詞に感動、絶句した。人は亡くなる時に、是非、枕元に、そばにいて欲しい人がいる。そのような人間関係を、最も大切に生きていければと思う。

福岡では雪、岡山では快晴、関が原では吹雪、静岡では小雨、横浜では晴れと、正月の上り新幹線の車窓は目まぐるしく変わった。これもまるで人生のよう。

今朝は、あけゆくオレンジ色の東の空に、目玉焼きのように登る太陽を見た。亦、2008年の生命を頂いた気持ちになった。

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January 01, 2008

我を離れる境地の存在を感じて2008年

「我を離れる境地がある」と云う。呼吸の空気、息は、身体に入りこみ、また身体から出て行くことを繰り返す。自分になったり、外界になったり。

我を離れることは静寂。我に帰ることは生の喧騒か。

少しでも、我を離れる境地を、一瞬でも長く、感じられれば、どれだけの人生の充実があろうかと思う。

2008年、背筋をピンとして、修行を誓う。ー九州にてー

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