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December 31, 2007

想い出力

想い出も現実も、脳の映写機に映る映像のようなもの。スクリーンがあるのが現実。スクリーンが無いのが想い出。

スクリーンがなくても、映像を脳裡にはっきりと映し出せる力があれば好い。人生には、生きる力が湧いてくるような、感動の場面がある。

感動の想い出は、その後、人生で起こる色々な問題にも、解答も与えてくれるような気がする。

想い出の力は、凄い。もし、想い出の力が無かったら、死んでいた人が沢山、今、生きていると思う。

2007年、今年も、ありがとうございました。 良いお年をお迎えください。

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December 30, 2007

効率的なんて・・・・

昨日、懐かしい九州の大牟田へ無事、夕方帰省した。行きつけの、大牟田駅前のレストラン・松本で姉と夕食。松本定食は、亡くなった両親が大好きだったメニュー。両親が座った席も、いつも懐かしく想い出す場所。

大牟田は、この数十年、大きなショッピングモールが出来て、徐々に、懐かしい小さな店舗が続々とシャター通りになってしまった。

大型店に象徴される効率、合理的って何だろう。人間は、究極的には、合理的や効率的なものに合わないものだと思う。部分的には、効率中心的に突っ走るが、結局は、人間はもっと複雑な生き物。それは新幹線とSLの違いに似ている。 目的地と時間がはっきりしていれば、とにかく効率的なスピード・輸送にのみ関心を集中させれば良い。

だが、人生や人間の本質は、合理的や、効率のような、ちゃちなもんじゃない。大自然の営みのように、芸術的な、味わいのある営みなんだ。それが、ロボットではない人間の所以なのではないか。

いつか、大牟田にもシャッター通りではない街が、遠い将来、戻って来る情景が私には見える。

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December 29, 2007

大変化、猛スピードの変化の中の人生

今年、年賀状をすでに出してしまった知人が12月中旬、事故死していたことを、昨日知らされた。昨年10月末、目黒のデサント本社でのオリンピック選手のトークショーに3人で行った知人だった。

当時、司会をしていた、木原光知子さんも、すでにクモ膜下出血で亡くなっている。

ただ、日常生活で見かける通常の元気な人々が、いつの間にか、もう故人になっていることに、余りにも大きな変化を感じる。1年前は、もう最期に近いとか、あれがもう最期になるなどとは、夢想だにしなかった。

人生は、余りにも大きな変化と、猛烈なスピードで展開しているのかも知れない。

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December 28, 2007

焼き芋売りの声、神聖な響き?

外国人にとって、日本は公共の場での、色々な音が珍しいらしい。

イスラムの人は毎日5回、モスクから流れるコーランの一節を聴きながら育っているが、その声・メローデイーが、日本の「いーし♪焼きいーも♪」とそっくりだと感じると知って大笑いしてしまった。石焼き芋の声を聴くと、「きょうつけ。礼」と云った反応で、ピリツと緊張してしまうと云う。

政治の街頭宣伝車の声も、時にコーランの教えを説いているように、同じように勘違いすることもあると云う。これも傑作な勘違い。

欧米人も負けていない。街頭宣伝車を、焼き芋売りと思って、「焼き芋ください」と近づいたとか。因みに英会話学校で、焼き芋売りを「ポテト マン」と云っていたとか、これも傑作。

音って、信じられない響きを、外国人の耳に与えていることを知り、思い出し笑いを禁じ得ない。

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December 27, 2007

変わったお年玉のアイデア

最近、お年玉について、ちょっと変わったアイデアを考えついた。

小田原の妹の家に、クリスマスの時期に訪問して、正月は九州なので、クリスマスの時期にお年玉を子供達にあげた。その時にお年玉の袋を、「クリス玉」と命名した。

数日後に九州へ帰省する予定ですが、弟の家のちっちゃい子供達には、数字の円単位までのお年玉を考案した。サンタクロースを文字って、3964円「サンタ ク ロー シ」。おねーちゃんには「ヨンタク ローシ」4964円。

お年玉の袋の中から、円単位の小銭が出て来たら、ビックリするだろうなー。或いは、おつりを6円くださいと云ったら可笑しいだろうなー。子供達に、7964円にしてくださいと云われたら、そりゃ「ヒッタク ローシ」だ。

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December 26, 2007

ちょっとした環境変化の刺激

一昨日は小田原・開成の妹の家に泊まり、昨日朝は、小田原発08:18の新幹線で品川経由で出勤した。オフィスは10時からなので十分間に合う時間に無事出勤。初めての新幹線通勤の体験。ちょっと新鮮で、面白かった。

小田原で、冬の空気の澄みきった朝、大好きな田園風景の中を散歩して、日常と違う世界を感じた。環境を変えて試ると、全く違う世界が、心が、存在することに気付く。

同じ自分でさえ、ちょっと環境を変えると、違った世界を見ることで、人間それぞれに、全く違った情景を見ながら生きているのではないかと想像した。全然異なった世界観・人生観・宇宙観の中でそれぞれに生きている可能性を感じた。


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December 25, 2007

やまとの心、本居宣長の句・英訳

先日、高知から上京した友人に連れられて、初めて靖国神社の資料館に入ってみた。そこで、出合った小さな驚きは、大和の心を詠った本居宣長の句が英訳されているのを見た時だった。

「敷島のやまと心を、ひと問わば、朝日に匂う山桜花」

If one asks about the Yamato Spirit , it is like the Cherry Blossoms that bloom in the Morning Sun.

小鳥の声を聞き、遠くの山々を見ながら、朝日を浴びた山の道で、桜がほのかに匂って来る情景。 そうだなー、やまとの心だなーと思いながら、句と英訳を味わった。


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December 24, 2007

絵画の道、赤ちゃんの元素

「赤ちゃんは、酸素や窒素や炭素やニッケルなど色んな元素から出来ている。宇宙の中の一つの星や天体のように。」

高山辰夫画伯が晩年到達した境地に、坐禅の世界に通じるものを強く感じた。

彼は、晩年の自画像を宇宙に溶け込む粒子のように描いている事を知った。

私は、絵画の世界からも、坐禅の世界と同じ修行の道が通じていると確信した。

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December 23, 2007

水と魚,水があるから魚が生まれた

眼を造ったのは光。光が無ければ眼はできない。

耳を造ったのは音。音が無ければ耳はできない。

主体が外にある。

水が命なのか?魚ガ命なのか?魚は水の中にある命の影なのかも知れない。

昨日の坐禅道場の住職の言葉。

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December 22, 2007

巻末の解答付き人生

最近、自分の人生に就いて、巻末の解答を見ながら、問題を解いて行くような、今までには無かった境地を感じる。

過去人生においては、奇問に出くわしたと思ったり、完璧に正解と思って大間違いをしてみたりした事も何度もあったと思う。

過去は、合っているのか?間違っているのか?さえわからず、自分の出した解答に自信なく問題を振り返ってきたが、今は、解答をそばに見ながら問題集を解いているように感じる。

若い時のような、嵐の中のように、どこに向かっているのか分からない航海ではなく、大体の自分の船の位置は常に頭にあり、どの方向に進んでいるのかが見え、どうすべきが大体わかる船乗りになったのではないかと思う。

人生では、晴天も荒天も時折訪れるが、人生の航海技術を試す為には、時に色々な練習問題も必要だとも思う。

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December 21, 2007

韓国新大統領の逸話に感涙

韓国新大統領・李民博氏の経歴や逸話・人生観をインターネットで調べて驚いた。1941年日本の大阪で生まれ子供時代に韓国に渡り、極貧の中、苦学して、財界人として大成、波乱万丈の人生が記されていた。

今までの人生で最も恥ずかしかった事:高校時代貧しくて、女学校の前で菓子売りをした事。

人生で忘れられない友人:貧しかった自分に、玉子をもって来てくれた養鶏場の友人。

人生で最も後悔している事:母が生きている時に、新しい服を買ってあげられなかった事。

私は、これらの記述を見た瞬間、わっーと、心に訴えるようなものを感じた。

彼は、これから、韓国を導く試練に立ち向う。政治の世界には余り、すっきりした成功はないし、また泥だらけの試練が来るかも知れないとも思う。

でも、このような、彼の過去の人生の感動や、彼の人生観は、それだけでも幸せな財産ではないかと思う。

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December 20, 2007

アラブの犠牲祭休日・初めての日光

昨日は、アラブの会社であるが故の特別な休暇となった。イスラム教徒がメッカへ巡礼するハッジ休暇、現地では18日から6日間であるが日本では1日だけだが、私にとっては、特別な休暇となった。サーどう有効に使うかと迷ったが、日本人でありながら、まだ日光へ行った事の無かった私は、平日の日光がチャンスと思い、早朝07:30の東武特急で念願の日光に出かけた。

快晴で、電車から、通勤姿のサラリーマンをホームに見ながらの旅は、ちょっと特別な開放感もあった。東武特急では、広々とした車両に人影もまばら。隅田川を越えて行く、車窓から見える田園風景も、ちょっと初めての旅の興味をそそった。

日光駅前広場から、澄み切った空気の中、雪を頂いた男体山は、スイスにも来たかのようだった。日光交通の観光バスを申し込んだら、何と私一人で、観光バス1台が貸切となった。これも大変心苦しかったが、初めての日光が、貸切バス1台、運転手さん・ガイドさんも私一人の為の運行と、何とも想い出深い旅になった。

サザエさんの漫画に出て来る様な気持ちで、有名な華厳の滝・中禅寺湖・いろは坂・輪王寺・二荒山神社・東照宮と回った。確かに日光見るまで結構と云うなと云う意味が分かるくらいの東照宮の美でした。今回、日光を見れて晴れて、これでやっと、「ケッコウ」と云える事が出来、2007年のギリギリの念願達成となりました。

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December 19, 2007

60兆の組み合わせ芸術作品・人間

人間が60兆の細胞なら、その60兆が故に、余りにもとてつもない組み合わせがあり、人間が物理的にも、精神的にも、同じなんてありえない事を悟る。

だが、60兆もあるんだから、おびただしい数の、同じ部分もあるだろう。それが、人間が、共感したり、疎外感を味わったりする源ではないだろうか?

60億の人口の数だけ、その60兆の細胞個体の人間の世界観が展開している。壮大な宇宙の展開ではないか。60兆の細胞個体には、独特の文明が生まれ、文明が融合したり、文明の衝突を起こす。

60兆の細胞の様々な組み合わせが、大自然の造形を生み出して行く。それが、周りに調和して見える瞬間に人は、美を感じるのだろうと思う。

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December 18, 2007

一人で美術館へ行くが如く

美術館は一人で見るのが一番と思う。自己の内面との集中した深い対話なしに、美術作品とは対峙出来ないから。

誰かと一緒にとか、グループで、美術館を訪れた時は、気が散って、あまりその芸術性に迫る感動は無いと思う。

人生の真の味わいも、美術館へ行くのと似ている。集団の騒音の中では、人生の味わいを感じる境地にはほど遠い。一人静かに、寧ろ一人の時の方が、真の人生の美を感じる事が出来ると私は思う。

一人ぼっちは、人生に、決して悪い事ではない。素敵な人生の、必要な舞台装置にもなると思う。

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December 17, 2007

30数年振りの大学の講義、今生の別れ?

先日12月15日、80才になられた国際政治の神谷不二名誉教授の講義を、慶應大学150周年記念事業の一環として、三田キャンパスの517番教室で、30数年振りに聴く機会があった。

先生の声は、ちょっと小さめではあったが、確かに30数年前の懐かしい先生の声だった。80才になられても、国際政治に対する新鮮な視点には、敬服した。

約1時間の講義の後、教室を出て行かれる先生の後姿が、今生の別れかとの想いがよぎり、手を合わせたい気持ちになった。

今回は先生の講義を久しぶりにたまたま聴く事が出来たが、このような滅多に会わない人間関係の中では、今生の別れが、すでに起きてしまっている事を悟った。


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December 16, 2007

Happy New Day

「新年おめでとう」を、年ではなく、色々な期間に適用してみると面白い。

新月おめでおう。新日おめでおう。新時おめでとう。新分おめでとう。新秒おめでとう。

考えて見れば、何でもかんでも新ではないか? 新秒おめでとうなんて云ってる間に次の新秒が来ちゃってる。

とりわけ、朝日は、「新」をイメージさせる。新日おめでようって云うのが一番好い。読みかたは、命名者の私としては、「しんじつ・おめでとう」が好い。

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December 15, 2007

自然の営み

人生は、どんなにあがいても、華やかと云う訳でもない。

また、どんなに落ち込んでも、惨めと云う訳でもない。

人生は、ただ、自然の営みの一部なのだから。

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December 14, 2007

駅での見送りと,出迎えのドラマ

将来の出来事に希望を膨らませることも、終わりつつある出来事に名残惜しさを感じることも、共に人生の精神バランスには必要なことと思う。

希望を膨らませるだけの生き方には、痛みがわかる優しさが無いように私は感じる。明るさだけでは、人生が軽過ぎる。過去の出来事へのノスタルジアだけでは、生きる力が弱々しい。懐かしむだけでは、人生が重すぎる。

終わりつつある、去りゆく出来事への感謝と見送る気持ちは、ホームで出発する列車を送り出すのと似ている。
新たな出来事への希望は、ホームに到着する列車を待つ気持ちに似ている。

列車が出て行ったり、入って来たり、それが人生の味わいなのだろうか。

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December 13, 2007

貧しさに回帰するなんて

昭和30年代の街並って何で、人気があるのだろうと考えてみた。物質的には、貧しかったが、長屋の共同体的な庶民の人情もあった。人生の辛さや哀しみは今より、負けず劣らず沢山あったが、誰かと一緒に夕日を眺める時のように、心強かった。

その貧しさの時代に、何で人は回帰したがるのだろう?

貧しさは、人生の喜び哀しみを増幅して感じさせてくれるものがあり、人の痛みに対する感性が、文学者や画家のようにに発達し、何よりも先ず、人生を真剣に生きるようになるのだと思う。

物質的な豊かさは、その代価に、人間から緊張を奪い、人を感動させる感性を奪い、一途な生きかたを奪ってしまうのではないか。

物質的な豊かさを求めながらも、その凶器・狂気の部分を警戒し、質素・素朴な魅力への感性を、同時に失ってはならないと思う。それが、人間の直感的な、「貧しさへの回帰」の源なのではないかと思う。


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December 12, 2007

人生の自転や公転

地球は自転しながら、太陽の周りを公転している。

人生も、1日を24時間変化させながら自転し、生涯が一周と云う公転をしているように思える。全ては、同じ場所に留まらず、絶えず流れるように変化して行く。自らも、また外界も共に、一定の周期で変化して行く。

そう考えると、変化こそが永遠であり、永遠とは変わらず留まることではないと云う感覚になる。

時折、星の大きな接近があるように、人は何百年・何千年周期の出逢いをしているかも知れない。絶え間ない変化と云う、大きな宇宙の法則の中で、接近したり離れたりする、星や惑星のように、人の出逢いも、人生も展開しているのかも知れない。

夜空を見上げて、そんなことを考えるのも神秘的で、心地好い。

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December 11, 2007

もののあわれの英訳発見

「もののあわれ」を、日本文学者のドナルドキーン氏は、「Sensitivity to things」と訳したと云う。

こういう訳に対する、先人の表現は、接するとホットする。何だかもやもやした自分の表現力の欠乏状態に、そーっと浮き袋を投げ込んで貰った感じがする。


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December 10, 2007

安寿と厨子王記念碑

週末は、久しぶりにJR大人の休日クラブを使っての旅をした。金曜日の終業後、20:12の新幹線で越後湯沢経由でその日の内に富山まで行けた。土日は、冬の越中八尾、直江津の安寿と厨子王の碑、春日山城跡など、散策した。

安寿と厨子王の物語は、小さい頃、何度も母に聴いて、よく知っていた。直江津駅からバス停に乗り、中央2丁目のバス停を降りて、佐渡汽船の乗り場を遠くに見ながら、関川沿いに道を歩いた。

関川と日本海が出あう、道のカーブしたところに、風雨に晒された質素な碑があった。どんよりとした灰色の空に、荒々しい日本海を背景に、安寿と厨子王の碑は、ひっそりと立っていた。さぞ、父のいる筑紫へ、母子そろって行きたかったことだろう。

私は、最初に、碑を見た時に、母と再会した時のような気持ちになった。

そして、冬の日本海を眺めながら、900年の時間を忘れた。


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December 09, 2007

冷暖房の凶器・狂気

病院で生まれた赤ちゃんは、体温が低い子供になると云う。

冷暖房が入り、狭い快適な温度範囲にいると、人体の温度調節機能(スタビライざー)のスイッチが入らず、一生、体温の低い子供になってしまうと云う。生まれてから最初の2週間の間にこのスイッチが入るか入らないかの分かれ目になると云う。

産婆さんのお世話になり、自宅で生まれた子供は、自然界の大きな温度差を体験し、その温度調整機能のスイッチが入り、体温も正常に上がる元気な子供になると云う。

低体温は病気の温床。病気は熱で治すもの。現代人の体温低下は、冷暖房の行き届いた病院での出産も大きな原因と云われる。冷暖房は、親心ではなく、冷暖房は赤ちゃんにとっては、時に凶器でもある。

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December 08, 2007

早朝に起きる意義

早朝の坐禅は、何時頃にした方が好いかを住職に聞いた時に、電気をつけなくても、「自分の手の平の筋が見えるか、見えないかくらいの明るさ」の時に始めるが好いとの答えであった。真っ暗でも、明る過ぎても駄目の微妙な時間である。

朝、鳥が鳴く前の、「陰の気」の間に始めるが好いとのことであった。「陰の気」から「陽の気」に変わる時間帯としての早朝は再生の象徴。

虫の声から、鳥の声、そして夜明け、考えるだけでも、清々しい、新たな誕生の瞬間。

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December 07, 2007

富の移動

富がA地点からB地点に移動しても世界の富は変わらない。

人間は富を自分の方へ引き寄せることに汲々として、殺伐として、時に猥褻なほどの富に憧れる。人生の大半を、身勝手な、砂の城を築くような消耗戦に身を投じてたことに、いつの日か気付くことになると思う。

質素な衣食住が成ったら、この富の移動ゲームの消耗戦から、早く身を引いて、自然界の中で、穏かに調和した存在としての自分を体感することが、人間にとって、うんと幸せだと私は思う。それが精神の修行と云うものではないか。


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December 06, 2007

七人のサムライ との出会い

自分の人生で、良きにつけ悪しきにつけ、重大な関わりのある人を、「七人のサムライ」と考えると、面白い。

それぞれの強烈な、確固たる個性をもった人物が、眼前にそびえるように立ち、それを見ている自分との距離が生まれ、その人の個性だけが浮き彫りにされる。その時、自分は傍観者になる。

自分との関わりで考えると、その人への評価が、複雑で、生々しく、疲れてしまう。

だが、人生のパノラマの中で、見掛けた、「七人のサムライ」と思えば、「ヨツ! 音羽屋 !」とか声を掛けたくなるような役者振りではないかと思う。

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December 05, 2007

空気の海の深海生物?空想

空気は、何も無い空間と云う訳では無く、酸素や窒素などの物質だから、空気も、水のような物質とも云える。その空気と云う物質の海の中に、その空気の海の海底に、カニや海老のようにごそごそとうごめく人間社会。

富士山は海底火山。鳥たちは小魚のように空を泳ぐ。空を見上げると、遥か遠くに海上の光が見えるって感じか。

海底には、電車が走り、デパートや家々がある。映画のセットのようにも見える。

ここで、自分が起こした空気の波は、確かに遠くまで伝わる。それが、今までテレパシーと呼んでいたやつだと思った。

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December 04, 2007

介護を前提とした生き方?

平均寿命は延びたが、将来、漠然と介護をすること、介護されることを前提に、その時に備える人が圧倒的に多いことを残念に、また奇異に感じる。介護の心配の前に、ちょっと自分の食を気にすれば、介護が防げるのにと思ってしまう。

どうすれば、人体の自然に逆らわず、健康でいられるかを探求すれば、「食と健康」への理解と実践をすれば、先ず介護と自分との縁は、はるかに遠のく。「食と健康」の仕組みを理解・実践すれば、介護は、世間の一般的な話題に過ぎないように、遠い世界の話のようになる。

人体と食との関わりには厳しい掟がある。自然はあらゆる不自然を罰する。健康・長寿の人は、伝統的な質素な食物の美味しさを知っている。

私は、この3~4年、「食と健康」の世界を身をもって知ることが出来たことで、少なくとも自分は介護とは縁がなく、ピンピンコロリの人生が、送れると確信するようになった。

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December 03, 2007

紙芝居のおじさん発見

昨日は、上野・不忍池そばの下町風俗資料館で紙芝居を見た。自転車の後に積んだ紙芝居の木の枠、孫悟空をやっていた。

観客は、子供たちより大人が目立っていた。そばには、木のたらい、洗濯板、アワビの貝殻の石鹸いれも置いてあった。物干し竿には、布のおしめも干してあった。

隣に座った人は、リックを持った熟年の男性だった。彼曰く、私は今、中山道を歩いて来たんですと。定年後の夢の実現とのこと、62才で16日かけて中山道を京都から歩いて来たとのこと。

資料館を出て見渡せば、蓮の池が拡がり、鳥の群れが西の空に飛んでいた。

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December 02, 2007

新鮮なギャグネタ入荷

一昨日夜、新橋の居酒屋での懇親会で、友人が、ギャグネタを連発した。

こないだ伊勢神宮へ行った。伊勢神宮でうがいでもしたのかい? → そりゃイソジン宮じゃないかい?

国公立? → ニワトリでもないのに、何が「コツ、コーリツ?」

今朝、水揚げしたばかりの新ギャク披露。

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December 01, 2007

人生テレビのチャンネル

人生テレビには、楽しい番組も、悲しい番組も、不愉快な番組も、自然に色々画面が出て来る。考えてみると、結構色々な番組をやっている。でも、たいていの場合、チャンネルは自分では、触れない。

楽しみの番組の時には、ちょっとテレビのボリュームを上げて見れば好い。悲しい番組、不愉快な番組の時にはボリュームを下げて見れば好い。ボリューム調節は自分で出来る。

昔の人は、核家族ではなかったから、この人生テレビをみんな一緒に見ていたのかも知れない。

沢山のニュースも流れるが、それは殆ど他人事のような無機質な出来事。

自分の1日を、自分は、どんな番組で飾っているのだろう。

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