細胞の死
人間の細胞は約60兆個。毎秒、おびただしい数が死に行く。そしておびただしい数が誕生する。その繰り返しが人生。その新陳代謝の割合(細胞の死と誕生の割合)の変化がひとつの個体としての人体の死。
人間も部分においては、すでに、死んでいる存在ともいえる。
一度死んでしまって、心残りで、想い出したように生へ返ってきたかのように思えば、毎日毎日が、忘れ物を片付けるように、心地好く忙しくなる。
人間の細胞は約60兆個。毎秒、おびただしい数が死に行く。そしておびただしい数が誕生する。その繰り返しが人生。その新陳代謝の割合(細胞の死と誕生の割合)の変化がひとつの個体としての人体の死。
人間も部分においては、すでに、死んでいる存在ともいえる。
一度死んでしまって、心残りで、想い出したように生へ返ってきたかのように思えば、毎日毎日が、忘れ物を片付けるように、心地好く忙しくなる。
今朝は、早朝7時にJR東神奈川駅に、年末の帰省の1ヶ月前の予約のために並んだ。 整理券をもらって出勤。
年末の帰省。心は故郷へ飛ぶ。 12/29に帰省し、帰りは、正月の1月1日の飛行機を予約しようかとも思う。
年末は、大牟田で、一人暮らしをしている姉と、炬燵で、みかんでも食べながら人生を語るも好し。 弟家族と騒ぐも好し。 故郷に住む、友人と、会食するも好し。
心休まる、故郷の山・三池山も見ながら、今年も締めくくろうかと思い、そして、子供時代にも見た、故郷の初日の出を想像する。 1ヶ月後の謹賀新年。
あっと云う間の1年だったと嘆く人が多い。それが嫌で、私は、5年前に会社を辞めた。
あっと云う間に、1年が終わるのは、驚きが無くなる為。子供時代にはピカピカだった受信機もさび付いて、驚きを無くし、人生もあっと云う間に終わるかもしれない。
会社を辞めて、旅を知り、サラリーマン以外の人達の人生を知った。そして、もう一つの人生が始まった。
今年は、母の住んだ旧満洲のハルピンへの旅が、私に何十年分にも匹敵する沢山の想い出をくれた。
先週の日曜美術館で紹介されたムンクの人生観が、私は好きだ。ムンクの「叫び」や、ムンク晩年の眩しい「太陽」の絵が、今はとても愛しい。
昨日は、アラブの産油国の石油会社のCEO(社長)が来日し、顧客との面談・ホテルでのReceptionだった。何度も日を変更しての、日程で、大変だった。日程の頻繁な変更は、文化の差とは云え、私にとっては、大きな驚きで、肝を冷した。
何はともあれ、無事に終わってホットした。
Receptionでは、沢山の友人・知人にも会えて嬉しく思った。
Receptionの会場の花を貰って、深夜帰宅した。今日、代表団を離日・送り出して完璧に一段落。
これも、今年の大きな想い出になりそうである。
余りにも、自然が美しいから。余りにも人生が美しいから。
色んなことが諦められる。
悔しさなど無い。勿体無い気持ちの大きな海原の中で。
余りにも、人生が美しいから、色んなことが諦められる。
例年訪れている三田祭に行って見て、今年は、また小さな驚きを体験した。
屋台では、水餃子・おでんを食べ、東北学生会ブースで日本酒と干した鮭(鮭トバ)を楽しんだ。西校舎531番大教室では、Big Band Jazz を, 南校舎458番教室では、中東関連のゼミの発表の資料(500円)を買った。中央ステージでは、「Fifty Fifty」 と云うグループの、それはそれは青春のエネルギーの爆発するようなステージ・演奏を聴いた。
ボーと、これらの情景を見ている自分と、その大学生当時の私の生活振りを見ている母を、同時に感じた。 あの当時、たぶん母もこんな情景を現実に見たかっただろうと思った。そして、今の私の目を通して、母も確かに、この文化祭を私と一緒に見ているのだと思った。
油汚れは水では流れない。油は油で流す。人間の身体の油汚れ(動物性脂の汚れ)、血栓も、アボガドオイルやオリーブオイルの植物油で流れる。
同じ様に、不幸は、別の不幸で流れるのではないかと、私は人生の仮説を立てた。幸せのみが人生の解決策と思い、青い鳥を求めて生きることは、思慮が未熟・単純ではないかと。
頭の中で、今自分が味わっている不幸は、「致命傷なのか?」「かすり傷なのか?」考えてみる。かすり傷に思えた時、その不幸は流れ去る。
自然は、何かを所有している訳ではない。自然は、ただそれぞれに存在しているのみ。
人は、何かを所有していると勘違いし、また所有しようと、あくせくしている。子供の単純なわがままにも見える。
今、私が持っているものは、今たまたま私のそばにあるだけ。私のそばを通りかかっただけ。
元々、何一つ所有していない存在に気付くことは、大いなる安らぎでもある。そこに、私は、精神性の高さを感じる。
昨日、出勤前に、大手町での早朝勉強会で、駐日イラク大使の講演を聴いた。紀元前5000年から始まるイラクの歴史、つまり7000年の歴史に触れて、世界史が好きだった私は、吸い込まれるような歴史大ロマンを感じた。
紀元前5000年のシュメール人の国家、今のイラク。第1期バビロニア王朝時代のハムラビ法典(目には目を)は紀元前1792年。
紀元前1760年のアッシリア時代に60進法発明。60進法は、年を360日として、農業を行うのに、60日毎に季節の変わりを計っていたと云う。因みに10進法は、人間の手の指の数に因んだと云う。
シーア派・スンニー派の宗派対立を殊更に挙げるのは可笑しいと大使は云った。イスラムの前から、イスラム教誕生からも、この地域は、何千年もの共存の歴史がある。対立は国外からもち込まれ、煽られていると。米国の民主主義は300年くらい要かっている。イラクにもある程度の時間がいると。
今朝は、まだまっ暗い早朝に、大昔の朝を想い出した。練炭に火をつける為に、新聞紙に火をつけ、下から熱する情景。練炭は、炬燵にいれる七輪用に毎朝、火を起こしていた。七輪の下の方に、空気を調整する窓がついていた。
炬燵は、みんなの朝食の頃には、少し暖まっていた。
あの時の、白い七輪の色、冬の朝の空気の冷たさ、家族がそれぞれに、もくもくと、自分の役割を感じながら、朝から何かの作業に従事していた。
私は、自分が起きて早朝、両親の布団の脱け殻をみると、既に働き始めている姿に、いつもすごいなーと思っていた。両親が遠い世界の、とっても偉い人のように思えた。
大学入試で上京した時に泊めてくれた先輩は、千駄ヶ谷の新聞配達屋さんの下宿で、私が起きると、もう布団は脱け殻で、新聞配達に行っていた。あの時、私を泊めてくれて、ご馳走してくれた先輩の笑顔を、私は一生忘れない。
英語のPassionは情熱と私は覚えているが、意外な別の意味もあると云うことを最近知った。辞書をひくと確かに載っている。
Passionとは、「受苦」「悲哀」である。キリストの受難ともある。
苦しみと情熱の意味を持つPassionと云う言葉に何か哲学的な深い意味合いを感じた。
そして、辞書には、one's ruling passion を「ひたむきな感情」と続けて書いてあった。
昨日の昼、高校の時の10人くらいの小さな同窓会に出席した。50代半ばで、すでに、脳梗塞・くも膜下出血の友人・知人が多過ぎることに改めて驚いた。
普通に生活しているつもりが、社会には、すごい怖いリスクが存在していることを思った。余りにも、ひど過ぎる。
平和な良心的な社会に住んでいたつもりだったが、この社会は、ジャングルのような弱肉強食の身勝手な経済原理の中で生きているような気がした。
人間を病気にさせるような劣悪な食品が世間に溢れ、形だけは、寝たきりで長生きさせる残酷振り。
食を侮ってはいけない。食が乱れれば、人生が破綻することが見えてきた。
昨日の驚きは、朝行った床屋さんとの会話。頭を洗う時に、いつも「痒いところはありませんか?」と云われるが、痒いところを、頭の右の方とか云う人が実際いるのかと聞いてみたら、殆どいませんとの答え。でも中には、足の裏が痒いとか冗談を云う人はいるとのことだった。痒いところはありませんか?とは、髪を洗う時の挨拶言葉だったんだ。
「いつでもどうぞ」とか云うことが、仕事でも、プライベートでもよく耳にする。これも、早朝4時や、深夜11時とかだったら、良い訳ないのにと思う。「コンビニでもあるまいしね」と床屋さんが云った。
円形脱毛症は何故、四角や三角にならないのだろうか?と床屋さんに聞いた。床屋さんは絶句。我ながら、自分のひょんきん振りに内心大笑い。私も、高校生くらいの時など、円形脱毛になったことがある。
血圧は、降圧剤を飲んで下げても、単なる対処療法、根本の体質・食習慣は変わらず、いつの日か、色々な病気の形になって現われる。そこで、食の勉強が大切。
高血圧を正常化するのは、カリウムの多い食品。
1、ほうれん草・トマト・バナナ・アボガド・イチジクなどの野菜や果物。
2、大豆やきな粉・インゲンなどの豆類。
3、サツマイモ・ジャガイモなどの芋類。
4、干し柿・干しブドウ・プルーンなどのドライフルーツ。
5、サワラ・カジキ・カニなどの魚介類。
家森幸男著「脳と心で楽しみ食生活」生活新書より。
「食で治せないものは、医もこれを治せない。」医学の祖ヒポクラテスの言葉です。薬は一生のみ続けるものではないと私は思う。人工的なものは、身体と云う自然・宇宙には異物であり、いずれ副作用が、身体を傷めると云われる。対処療法は、緊急避難の方法。私は、食を学び、大自然の治癒力を感じて生きていきたい。
右へ偏ったら、次に左へ行く。上に偏ったら、次に下へ行く。「行って、戻る」プロセス。これが「中道」
矛盾において統一が生まれる。迷いが無ければ、悟りは無い。悟りを追えば迷うだけ。
バランスが、狂うと、統一しようとするエネルギーが生まれる。 先日出席した菩薩の会の時のメモを読みかえした。
意識的にでも、ちょっとだけバランスを崩してみて、「中道」を確かめ、人生を味わう境地に私は憧れる。
坐禅の中で、「気分」とは自分への拘りのようなものを指すと云う。坐禅は云わば「気分」の無い、即ち「自分」の無い状態を造りだせる。それがサマーデイーと云う状態と云う。
坐禅のやり方は、覚悟してやるとか、やり過ぎても駄目で、気を抜き過ぎても駄目だと云う。自分を追いこんでも駄目、腑抜けになっても駄目。
坐禅の極意は、「ポーンとそばにおいておく程度」、ちょっと気になる程度にそばにおくと好いとのこと。
何事も、人生も、力み過ぎても、リラックスし過ぎても駄目と云うのに似ている。組んだ手の親指の先が、触れるか触れないかの緊張は、背筋をピーンと伸ばすのには不可欠と云う。その微妙な緊張も、坐禅の極意と云う。
今の私にはほど遠いが、何だか、すごい境地に触れた気がする。人生には、すごい達人がいるものだと思う。
昨日は、新宿の哲学カフェに行ってみた。 感動をテーマに約10名くらいで話し合った。
感動って、私にとっては、「嬉しい驚き」、「Happy Surprise」 だと思った。 他の人から「あっぱれ!」って感じも感動ですねと云われて、確かにと思った。 やはり、感動の大部分を占めるのは驚き。
最近の私の心の受信機は、思いがけないものにも反応した。
数日前、洗濯屋さんの壁に飾ってあったストッキング。 子供時代に、母が生活の足しにと、デンセン(ほつれた)したストッキング を、細かな針金みたいな棒で、修理する内職をしていた光景が、何十年も忘れていた光景がパーと浮かんで来た。そして、内職の光景と、6人兄弟・姉妹で、私だけが大学へ行ったことを思った。 この気づきは、気づかなかった哀しさと、感謝の入り混じった、何十年後の気づきであった。
私に人生の沢山の示唆を与えて下さっている坐禅の住職は、最近発見された自分の脳にある、未破裂動脈瘤を指して、私は、いつ死んでもおかしくない状態ですと云っておられる。
その動脈瘤を潰すのは、亡き母の手の指だと、穏かに身を任せておられる。
元々、人間も生物も、いつ死んでもおかしくない存在。考えてみれば、特に動脈瘤があろうが、無かろうが、大差は無い。ただ動脈瘤の存在で、人間の生死の身近さを改めて感じさせてくれただけ。
どんなに健康な人でも、云わば、未破裂動脈瘤があって、いつ死んでもおかしく無いような存在に変わりはない。そう思えば、死んでまたこの世に戻って来たかのように、この世に里帰りしたかのように、このひと時ひと時が、貴重に輝く。
あしなが募金の時に貰ったパンフレットに載っていた「あしながウオーク」と云うイベントに昨日横浜で、午前中、参加してみた。横浜スタジアム前の噴水そばから、遺児や関係の人達が100人くらい集まってみなとみらい地区や山手元町地区を7kmくらい歩いた。初めて、見る大勢の高校生くらいの遺児たちを見るだけで・・・・胸がいっぱいになった。彼らがとても、頼もしく立派に見えた。
途中の中継地点で、パキスタンの2005年の地震で亡くなった人は阪神震災の10倍(73,000人)ととか、紛争のインドネシア・アチェの平均寿命が44才とか、最貧国のニジェールの識字率が17%とかを、画用紙にマジックで書いてクイズ形式で教えてくれたりした。
ウガンダの遺児の作文に触れた。「私はまだ12才で、働いていなかった為、父を病院に連れて行くお金がありませんでした。学校や病院へ行く最低限の望みも叶えられません」
でも、遺児達は、苦難の中で健気に逞しく今を生きていることを想い、これは先日坐禅の住職に聴いた、無意識の自己犠牲の自然の大きな摂理、宇宙の摂理の中にあるのではないかとも思った。
横浜スタジアムの中の公園の花壇で緑のボランテイアのような人達が、大勢でチュウリップの球根を植えていた。声をかけると、約7万個の球根を昨日植えたと云う。3月末には、色とりどりのチュウリップが咲くのを、あしながの遺児達を想いだしながら見に来たい。
「自然全体」「生命」が完璧な自己犠牲の世界だと云う。
住職は、蝉が、虫の状態から脱皮して行く様を例示された。蝉の脱け殻を見なさいと。
吐く息、吸う息を想いなさいと。
自己犠牲と云うと息苦しくなるが、吐く息・吸う息を考えると、蝉の脱け殻を考えると、自然界は大きな自己犠牲の営みを繰り返していることが感じられる。
その自己犠牲が故に、自然は美しいと住職は答えてくれた。
人の掲げる色々な目標に「何故?」と云う問いを、繰り返して行くと、人間探険・自分探険が出来る。
医者になりたい。弁護士になりたい。社長になりたい。スポーツ選手になりたい。金メダル取りたい。金持ちになりたい。もてたい。政治家になりたい。地中海クルーズがしたい。などなど・・・・・・人が掲げがちの目標らしきものに対して、「何故?」を繰り帰していくと、不思議な心の旅が出来る。
1回の「何故?」を繰りかえすことで、ぐーんと地底10メートルくらい進む感じで、自分の心の奥底に近づいて行ける。「何故?」を20回も繰りかえすことは、考えることに疲れてかなり難しい。
そして、繰り返して問うていく中で、いつの日か、人生をお釈迦様の手の平の上を何千里も旅して来たことが分かるような気がする。
棒磁石のN極とS極。どこで、切っても、どんなに細かく切っていっても、N極とS極が出来ると云う。
自然界の掟の神秘。どこで切っても、より幸せと、より不幸が同居するのと似ている。
人生は、新たなN極とS極を作りながら、試しながら生きているようだ。可笑しな気付き。
人は幸せへの変化、過激な変化を望むことがある。好いことばかり、沢山起きないかとか、望んでしまう。びっくりするような幸せが起きないかと望んでしまう。
私は何となく自然界には「スピードの掟」がある様に思った。人間の身体も、社会も、好い方向にも、悪い方向にも過激な変化には耐えられない。
飢餓のあとには、少しずつ柔らかいものを食べて慣らす。封建時代に、いきなり普通選挙をやったら、国は混乱する。
大きな急激な不幸にみまわれると人は適応出来ない、死ぬこともある。大きな急激な幸せに恵まれると、人は適応出来ない、気の緩みで自滅する。其れが自然界の掟。
私の人生哲学で、直感的に「小さな驚き」に拘り、「大きな驚き」を動物的に、その危険を避けたのは、今すっきり自分の中で納得出来る。 ちょっとした不幸・問題を引きずりながら生きることは、自然界のリズムに合っていると思う。徐々に、控えめに自然界のスピードのリズムを感じながら、ちょっとずつ好くなるような、「小さな驚き」を感じながら生きていきたい。
紅葉3日と云う言葉があり、紅葉も一番の見ごろは3日間だと云う。桜のように、短い期間に驚いた。よく観察している人にとっては、そうなのだろう。雨の紫陽花もそうなのだろう。
桜はその衝撃的な絢爛さは、人の出会いを象徴しているように思う。
雨の中の紫陽花は、人の別れを象徴しているように思う。単なる哀しみではなく、哀しみを通して今自分が生きている実感を与えてくれるような穏かさがある。
紅葉は、感謝の象徴に見える。人生がこんなに綺麗だったんだ、ありがとうって気持ちになる。木の葉は冬を向かえる前に、役割を終え、散らねばならない。青かった葉はそれぞれの思い思いの色鮮やかな葉に変色し、そして土に帰り腐葉土になって行く。春・夏・秋への感謝を伝えて、姿が見えなくなるまで手を振ってくれているように感じる。
1本のリンゴの木は、自然だと最盛期には約800~1000個/年の実(小さめ)をつけると云う。それを300個くらいにして大きめの商品になるように育てるのだと云う。確かにリンゴの木は、1本の木から重たいリンゴがたわわに実ってる様子を、田舎の光景で見かけることがある。
マツタケは17度以下まで温度が下がる期間が一定ないと育たないと云う。
先日行ったハトバスの紅葉日帰りの旅の時、リンゴやマツタケの田舎の光景の中で、バスガイドさんが云っていた。
自分の周りにある自然や出来事すべてが、「ヘー、そうなんだ」と小さな驚きに満ちている。
光を観ることを「観光」と云うとは、数年前に知ったが、衝撃的な気付きだった。観光と云う日常の言葉、行為に、極めて深い哲学が込められていたとは・・・・・。
余りにも美しい景色を見た時は、人は光を観たような思いになると思う。自分が生きている周りがこんなに美しい場所だったことに気付くのは、人生の賛歌・祝福でもある。
芭蕉が、松島を見て絶句したように。
今朝の驚きは小沢民主党代表の辞意表明。連立協議も驚いたから、連日、私は政治の展開に目を覚まされる思いだ。
云われて見れば、この展開も、政治手法としては、理解出来る面もある。私には、「民主の力不足」と云う彼の言葉が、一番分かり易く理解出来た。
政治も社会も、激動の中に生きていることを感じさせる朝の新聞の見出しだった。
私の家から15分くらいの場所にある神奈川大学は今は文化祭シーズンで、今年も昨日、神大フェスタを覗いてみた。今年も、中央ステージでは、若者のエネルギッシュな、キビキビしたストリートダンスを、生命の祝福・躍動のようなものを感じながら見た。歩きながら食べる食物もちょっと楽しみで、今年は水餃子を食べた。
屋台に、「じゃがいもバナナ」と云う看板があり、食べたくなったが、じゃがいもにバター(マーガリン?)がたっぷりのっていて、バナナにはチョコレートが塗ってあって、食育指導士としての私は、即、断念。大学近くでは、柿も売っていたが、種なしと聞いて、これも食欲喪失で断念。神奈川大学の門の前の学食にはマクドナルドが入っていることにもちょっと気になった。大学生の元気な姿を見ると楽しいが、社会全体の食育の意識の低さには、やはり心配。
午前中は、新横浜近くの新羽(にっぱ)と云う場所の西方寺を初めて訪れた。1194年の頼朝による建造で、萱葺きの、「わび」を感じさせる、素晴らしいお寺であった。新横浜そばに、隠された京都の発見であった。寺の境内で見た歌碑に「やわらかき 秋のひかりのさしこみて このよに生きる 身にしみわたる」とあった。
社会は次から次へと色んな問題が発生し、その対応に新しい制度を作っていく。それでも、制度には限界があり、抜け道・悪用が出て来る。
結局は、確固たる理念の存在・精神の気高さ・品格の高揚なしに、制度だけ作っても有効に機能しないと思う。
制度の設計も重要であるが、制度の設計だけでは問題は解決せず、要は、精神・理念の気高さ・充実が、根底に重要だと思う。現代の世界・日本に欠けているものは、それではないかと思う。
日本の原油購入代金を試算して試ると、年間約13兆円になる。(例えば64万KL(400万バレル/日)X58000円/KL($80/バレル)X365日)。サウジの石油収入はその倍の年間約26兆円程度の規模。
日本の医療費、年間31兆円と比較すると、日本の原油輸入代金は医療費の40%。 日本の医療費の30%は薬代。即ち10兆円。その半分は捨てられていると思うので5兆円。 原油代の40%(5兆円)くらいのお金を、捨てている日本とも云える。
極めつけは、日本のパチンコ産業は30兆円産業と云われて久しい。パチンコ産業の40%くらいの原油代。大きい小さいは、比較するときに風景は変わる。
女性の心臓死の割合は男性の3割~4割と少ないと云う。女性ホルモンは、血液をサラサラに保つ働きがある、肌も男性より綺麗に保つ働きがある。
その女性ホルモンと同じ働きをするのが、大豆のイソフラボン・ぶどうのポリフェノール中のレスベラトロールと云う物質とのこと。
そして、老化のもとの活性酸素を除去するのがアボガドやトロピカルフルーツに含まれるビタミンE。
大豆・ぶどう・アボガドは最強の食べ物。ー家森幸雄著「脳と心で楽しむ食生活」からー