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August 31, 2007

人格の完成

人生の目的と云われた時に、「人格の完成」と云う表現は、確かにと思った。

その人の人格そのものは、一種のその人の、語る前から、行動する前から漂う、一種のオーラみたいなものだと思う。

マザーテレサは、ただ、語る前から、そばにいるだけでもう、多くを語り、確固たるメッセージを伝えている。

坐禅道場の住職は、人生の目的を、「人格の絶対完成」と表現した。これを"成仏"と云う。

そして、目的と動機が繋がること、これを"発心"と云うとのこと。何だか崇高なものに包まれる。

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August 30, 2007

成す術もない人生の場面

人生には、成す術もなく、ただ呆然と見守るしかないことも在る。

群れを逸れた草食動物の末路を見るかのように、哀しくても、手も足も出ない場面が人生にはある。

ホームレスの人を見た時、病気の人を見た時。

子供が、愛する両親の深刻な夫婦喧嘩を見た時など。

どこか、遠くの世界に飛び出したいような、記憶を喪失したいような哀しみ、其れは、群れを逸れた草食動物の仲間を、ただ呆然と見守る、草食動物の光景に似ている。

それでも、自然の、宇宙の営みの一部。

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August 29, 2007

「病気とは、母との再会」

先日の坐禅合宿の道場の住職は、最近MRI検査で、異常が発見されたことを告白された。その病気についての住職の考え方に、禅の精神そのものを見るような思いだった。

病気のことは、自分が再び母のもとへ帰るようなものと、全てを母に任せられた境地を披露された。

病気は即ち優しい母との再会。病気に慌てるどころか、全てを「大いなる親元」のゆりかごにいるような境地を披露された。

寧ろ、聴いた私が、とても哀しくなり、日々の住職の教えが、愛しくなった。こうして私も修行して行く自分を見る。

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August 28, 2007

手で捕れる蝉達、また3匹

先週金曜日、昼休み、愛宕タワービルのそばの木々の低い場所に留まっているミンミン蝉を見付けた。蝉採り本能の在る私は、放っておけず、素早く手で捕えてしまった。数は3匹。オフィスへもち帰り、アラブ人のスタッフや、女性スタッフにも見せたら、とても驚かれた。

アラブ人は恐る恐る箱の中を覗き込んだ。女性スタッフは、「刺しませんか?」と思いもよらない質問をした。彼等の助命嘆願もあり、夕方には、3匹の蝉を、無事釈放した。

そして、休日のあと、月曜日の昨日の朝、通勤途上、また愛宕タワービルそばの木々の低い位置に次々と留まっている蝉を発見。素早くまた私の手は動いた。今回はアブラ蝉X2、ミンミン蝉X1の合計3匹。またオフィスに持って行き、箱に入れた。オフィスでは呆れ顔の反応。再び3匹の蝉を捕えて来た私に、私自身も、この展開に驚いた。

昼休みに、また蝉達を釈放しながら、こんなことってあるのかと思った。子供時代は、トリモチや竿を使って慎重に必死で捕まえた蝉達がちょっと簡単過ぎて、拍子抜けの思いもしたが、人生の神秘的な展開の一部と思えば、未知の世界が、生き生きと拡がった。

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August 27, 2007

「大いなる親元」

伊豆で、土日の二日間、朝4時起きの坐禅に参加して来た。早朝の坐禅は、特に、「自分が」の意識が弱い時間帯だから、修行がしやすいと云う。

「水の中にて渇を叫ぶが如し」の人生にちょっと気付く。"本具仏性"を想う。

"自他一如"、想い煩いが消える入り口の境地。

人間は、生き物は何処から来たのだろうか? 虚空世界からどのように生じて来たのだろう?人間も大いなる大自然の営みの中で、自然発生して来た虫みたいな存在に感じ、気が楽になった。

そして、何があっても、「大いなる親元」の中にいるような安心感を感じた。

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August 26, 2007

梅干、3年醸成もの

先日、小田原の老舗の梅干屋さん、"美乃政"で、梅干の塩分の心配は、岩塩で漬け3年寝かせば、塩分の害は心配無用と聴いた。

梅干もピンからキリまであるが、最低でも3年は醸成させるべきと云うことは聴いていた。好い自然塩で3年以上漬けた梅干なら、健康には太鼓判だと確信した。究極のアルカリ食品。

添加剤だらけの大量・促成生産の、変な梅干もあるので要注意でもある。

梅干は、冷蔵庫には入れない方が好いとのこと。水分が飛ぶから。

好い品質の、由緒ある梅干は、私の毎日の生活に、何故だか、とても安心感を与えてくれる。私は、特に、梅干には、こだわりたい。

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August 25, 2007

「たんこ、たん吉」

昔、九州の田舎で、駄菓子屋さんで、「たんこ、たん吉」と云う、くじ付きの菓子を売っていた。袋の中に小さなチョコレートが入っていたと思う。

そのころを想い出して、私の妹が、最近云った。「たんこたん吉」で、"あんみつ姫"に当たり、感激の余り、オシッコをもらしたとのこと。 "あんみつ姫"とは、特等賞のような大きな袋で、子供には、大金持ちになったような感動だったのだろう。

そんな話が、可笑しく、懐かしく、ほのぼのとする。

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August 24, 2007

圧倒的な夜空の句

「名曲を、夜空へ解(ほど)く、天の川」

「牛舎の灯、消せば圧(お)し来る、銀河かな」

数日前、朝のNHK俳句でメモした。

圧倒的な夜空。そんな夜空を時々、見たい。 

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August 23, 2007

坐禅合宿

明日、終業後から伊豆・天城の坐禅道場"一灯禅林"へ2泊3日で行く。最近は毎年行くようになった私の好きな行事の一つ。

朝4時からの坐禅。まさに、禅の林の中にたたずむ。

房総・館山の道場・能忍寺には"自照庵"と云う庵がある。視界いっぱいに拡がる布良の海を見下ろす丘の上にある。

禅は、私にとって、人生の羅針盤。

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August 22, 2007

何億円の光景?

美術館で見る、画家の素晴らしい絵画には、画家の心が映ったような表現がある。実際に見える光景を、画家が色、構図を、デフォルメ(強調・誇張)して、描くことで新たな光景に生まれ変わって見えることになる。

描き手の心が映った光景に、見る人は郷愁を感じ感動するのだろうと思う。

さすれば、実際に自分が見てる生の光景は、まさに、何億円の絵画よりも自分にとっては素晴らしいものであることに気付く。ミレーやゴーギャンの描いた光景よりも、それぞれの人が出あう自然の光景が、額縁に入った既に誰かに表現されてしまった絵より、素晴らしいことに気付く。

人生は、それぞれの人の目に独特に見える、デフォルメの世界だと思う。

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August 21, 2007

人工的なものへの憧れ

人工的なものへの憧れ、それが若さのようなものかも知れない。未熟さ、傲慢さとも云える。

自然と闘うような構築物、考えかた、システムなど、それは、人間万能主義、科学万能主義だと、危なっかしく単純に見えてしまう。

いずれは、自然の営みに還って行く物・事象に、長い年月で見れば、どうあがいても、一時的なものだと思う。

作ったら、どう自然に戻すかを、考えながら創らなくては、社会の平穏も心の平穏も無い。

人工的なものへの憧れから、自然への憧れに変わって行くのを、円熟して行くことと云うのではなかろうか。

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August 20, 2007

酔芙蓉の農道、クマ蝉の墓

先週、九州から持って来たクマ蝉の標本を、小田原の妹や妹の子供達に見せようと、土曜日に小田原へ持って行った。そして、得意げに、見せびらかした。

日曜日の朝は、妹の家の周りの、大好きな開成の田園風景の中を、自転車で散歩した。稲の香り、まだ青いイチジクの香り、朝日を浴びた畑の中の案山子(カカシ)、静寂と水の音、時折私の様子を見に来るかのような小鳥達、そして見付けた、ふくざわ公園前の"酔芙蓉農道"。

朝は白、昼はお酒に酔ったようにピンクに染まり、夕方には更に赤くなると云う酔芙蓉の花の農道があった。この花は美人の意味で"傾城"とも云われるそうだ。

この酔芙蓉の農道の入り口に、持って来た九州のクマ蝉の亡骸を埋め葬った。九州で、道路に死んで転がっていたクマ蝉を、酔芙蓉に囲まれたこの地に葬ってやれたことも、吾ながら、粋に感じた。そして昨日は、今年初めてのツクツクホーシの鳴き声を聴いた。子供時代のような夏休み。

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August 19, 2007

宮澤喜一さんのギャグ

今月号の文芸春秋に、宮澤喜一もと総理の娘さんが、父のギャグを回想して、書いておられた。

ピーターと云う人が、もう一人いたら、・・・ リピーターと云う。

沙良(さら)さんが、金さんと結婚したら、・・・・サラ金さん?

何故か、忘れられない文芸春秋抜粋ギャグ。

最近の自分のギャグは、英語ギャグがちょっと・・・。 「I was 盆 in 正月」
「西ドイツのボン(盆)、東ドイツの正月」・・・・。 うふふ。

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August 18, 2007

自由・平等・博愛

フランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」は有名になった。だが、自由・平等はよく主張されるが、"博愛"は忘れられてるのではないかと思う。 私にとって、"博愛"とは、"自他一如"と云えば分かりやすく感じる。

"博愛"は広く他を愛することで、自由・平等の主張し過ぎに対する、ブレーキ役のようなものだと思う。

自分の自由の主張が、他人の犠牲を強いてなされていないか。
自分の平等の主張が、他人の犠牲を強いていなされてないか。

自分と他が一体化したような、ともに愛する調和した気持ちを表す"博愛"の土台に、そのブレーキのもとに、自由も平等もあると思う。

先人が、血を流し、悩み苦しみの末に勝ち取った「自由・平等・博愛」の"博愛"を、三権分立のように、確固たる大切な大切な価値として、自由・平等の主張し過ぎの監視役として、思い出すべきだと思う。

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August 17, 2007

歌は人生の必需品?

TVのアラビア語の講座の中で、エジプトの貧しい農村出身の詩人が話してくれた。彼は、貧しい農民に伝わる労働歌を、方言で詩に詠う。

ロバに押された荷車のあとから、麦の落穂を拾って歩く貧しい子供の情景も浮ぶ。綿花を摘んだり、麦踏みをする農民達の情景も。

農民達は、辛い労働をしながら、その労働の辛さを分かち合うかのように、歌を唄ってきたと云う。そして子供達も、誰に教えられるでもなく、親達の歌を覚えてきたと云う。

それは、深い人生の歌であり、人生の必需品だと云った。方言で詠われる詩に、生活の重みや、深い想いが伝わり、ほのぼのとした気持ちになった。

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August 16, 2007

「お金儲け」とは?

「お金儲けしていけないんですか?」と、村上ファンドやホリエモンが云った。大勢の精神の未熟な若者もそう云う。年をとっても、そう思ってアクセクお金儲けに奔走している人もいる。時に滑稽にも見える。

「お金儲けはいけないことですか?」と云うことは、「食べ過ぎはいけないですか?」と置き換えればすっきりする。食べなければ死ぬが、食べ過ぎても病気になるのと似ている。

「お金儲けは、はっきりいけないことです」と云った方が、とても私の、心は落ち着く。食べすぎは毒です。

生活をする最小限のお金は確保したら、そのあとは、時間を費やすべきもっと大切なことが人生には沢山あると私は思う。

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August 15, 2007

"ラマダン"定期検査説

イスラム教徒の今年のラマダン(断食)は9月13日からと云うのを聞いた。一年の中で、この1ヶ月は、日の出~日没の間は、イスラムの人は水も食物も摂らない。

この様な、非日常の行為は、何か身体にも心にも、大きな意味があると、私は日頃から思って来た。

身体は断食することで、クモの巣がはっていたような、眠っていた生体維持機能を点検している。健康になる。心も日頃の食物への感謝や、貧しい人への思いやりを呼び戻す。当たり前のことと、日常に埋没していた心に、生きていることの意義を、思いださせるに違いない。

工場や機械も、定期的に清掃や分解点検などしなければ安全は確保出来ないように、人間の身体も心も、そのような点検修理が定期的に必要だと思う。

日本の定期健康診断などでは、到底追いつかない、深い意味が、イスラムのラマダンには、込められていると私は感じている。


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August 14, 2007

水木しげるさん、城山三郎さんの世界

九州から横浜へ帰ってきた8月12日の夜、偶然つけたTVで、水木しげるさんの戦争体験の番組にくぎづけになった。玉砕の意味する非人間的な組織の暴挙に強い憤りを感じた。

城山三郎さんの番組では、彼の戦争体験を経た、反組織論には沢山うなずいた。「旗振るな、旗振らすな」に彼の人生観が集約されている。戦争体験がもたらした、病的なまでの、組織への警告は、その熱意に打たれる。

このところ、「はだしのゲン」を始め、時節がらか、戦争からみのTVを連続して見た。改めて、戦争回避の努力の大切さを再認識した。戦争から60年を経て、再び、戦争へ繋がる危険水域に突入して行くことのないように、しなければならないと、つくづく思った。

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August 13, 2007

セミ取り成果、ガナガナ3、ワシワシ1

九州へ帰省している間に、蝉を捕まえた。蝉の鳴き声がすると、木の幹や枝を目を凝らして、どこに留まっているのかをたしかめたくなり、何度も木のそばで立ち止まった。

手の届くほど低い場所にも蝉が留まっていると、これはもう、本能的に、手で捕まえざるを得ない。何度か、蝉におしっこをかけられ逃げられたが、4匹は捕まえた。ガナガナ(あぶら蝉)3、ワシワシ(クマ蝉)1、合計4匹。

捕まえても、横浜へ生きたまま持って行く訳にもいかず、数時間後には、尋問の後、釈放してやった。一度は死を覚悟したであろう蝉も、びっくりして、一目散に青空へ飛び去った。1匹路上に死んだばかりのワシワシ(クマ蝉)が落ちていたので、これは、捨てられず、そっとハンカチに包んで横浜へ持ち帰り、ベランダの隅に置いた。横浜には、違う蝉しかいないが、近くにクマ蝉がいると、何だか気持ちが誇らしげになる。

やっぱり、セミ取り遺伝子のせいだろうかと、自分が可笑しくみえてくる。

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August 12, 2007

らくがん、飯江川(はえがわ)

昨日は、最近亡くなった大牟田郊外の飯江の親戚の叔父さん(82才)の家に、弟と一緒に、挨拶に行った。飯江川が流れる田園風景の中に家があり、40年振りくらいに叔母さん(75才)の顔を、しげしげと懐かしく見た。仏壇には懐かしい叔父さんの遺影があり、また懐かしい提灯や、らくがんが供えてあった。

子供時代に見た叔母さんとは随分変わっていたが、叔母さんの面影が確かにあった。40年の月日を思った。当時の私の両親のちらっとした話も新鮮に聴けて嬉しかった。家を出ると、空は青く快晴、木にザクロが実をつけていた。

午後は兄弟・姉とで墓参り。そして、三池中学(高校)の大同窓会に参加。当時病気で留年した私は、21回卒、22回卒のテーブルが、同窓のテーブル。近況や友の消息の情報交換も、楽しかった。 二次会は、同窓会には参加しなかった、友人と居酒屋で合流。私の大好きな鰯のつみれを食べながら、人生を語った。

姉の家へ帰宅した時、まだ「はだしのゲン」の後編をやっていた。今回の帰省の想い出に、「はだしのゲン」はふさわしいドラマだった。「生きること」って、野生の動物達のように厳しいことであり、また逞しいことだとも思った。

今日は横浜へ帰る日。短くても、大切な想い出の帰省だった。

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August 11, 2007

帰省初日、「いんにゃ」の響き

福岡へ帰る飛行機の中の機内誌に、「ゴッホが生きている時、37才の生涯で売れた絵は1枚だけだった」と書いてあった。彼はプロの絵描きでもなく、アマチュアでもなく、芸術家だったと解説に添えられていた。

西鉄大牟田線の電車の中では、久しぶりに聴いた懐かしい言葉、「いんにゃ」「そげんげな」。「いんにゃ」と云う響きが何とも云われん。

蝉のガナガナ(あぶらゼミ)が鳴いていた。

夕食は、姉と大牟田に帰ったら必ず食べる、大牟田駅前の松本定食を食べ、TVで、姉と「はだしのゲン」の原爆のシーンに絶句して、涙した。

今日は、ガーデンホテルで、三池高校の同窓会。"蒼穹万里天かける♪"の校歌を、益々神聖に感じる。

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August 10, 2007

落ち着きの無い政治

米国大使と民主党小沢代表との会談での平行線ニュースは、政治が心配な展開をして来たことを直感した。

双方が、余りにもストレートな意思表示を公開でやることに、不安を覚えた。双方に気負いがあり過ぎるのではなかったのかと思う。

米国追随では困るが、選挙結果は民主党にそこまで強く出てくれと頼んだ覚えはないのではと思った。双方の気負いと勘違いがなせる会談だったのではないかと心配になった。

驚くべき勘違いの展開。政治家には、パフォーマンスより、もっと落ち着きが欲しい。

昨夜は、夜のフライトで九州福岡に入った。今日から故郷の高校時代の精神モードに切り替え。

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August 09, 2007

心技体???

一芸に秀でた人は、其れなりに精神的に高いレベルにあると云われることもあるが、疑わしい。

朝青龍が、精神安定剤に頼るほどの精神不安定に陥っていると云うのが驚きであった。横綱の心技体って何だったのか? 横綱もたいしたことなかったと云う驚きだった。

また、周りにいじめられていると云う被害者意識で、物事を捉えるところにも、特に精神的修行が足らないと、寂しくなった。 余りにも普通の人過ぎる。

一芸に秀でても、何も目だった特技がなくても、精神的な成熟は・・・・・謙虚さに現われるのではないだろうか。

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August 08, 2007

子供達の話の魅力

昨日夜、横浜で、多言語学習クラブのヒッポクラブの会に出た。最近、台湾へ10日間くらいホームステイに行って来た、小中学生の体験を1時間くらい聴いた。小遣いは、10日間で、7000円を、持っていったんだって。それで2000円残して帰ってきたとのこと。子供の世界って、ガリバー旅行記並みの驚き。

子供達の話しを、長い時間聴くのは、とても可笑しくて、新鮮で、楽しかった。子供の見る世界、子供達の表現に、もう童話の世界。

自分の子供が成人して、忘れてしまっていた子供との会話。子供と一緒に、好奇心の海に放り出された気持ちになる。子供達と仲間になったら、どんなに、世界が拡がるだろう。

 

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August 07, 2007

懐かしい言葉、"汽車賃"

"汽車賃"とか、言葉自体がレトロで、また年寄りっぽい言葉だが、何か可笑しく、また懐かしい。父が使っていた言葉。

荷物を送る時に、"チッキ"とかも言っていた。今だに語源が分からない。チッキで"駅留め"でとか、糸みたいな針金のついた荷札をつけて鉄道で送った。あの荷札は、どこへいったのだろう。

大学に上京する時は、そんな送りかたで、九州・大牟田駅から国鉄・菊名駅まで、荷物を送った。

"汽車賃"はいくらですか? とか、誰かに聞かれたいくらい懐かしい言葉の響き。年寄りの可愛らしい言葉のひとつ。

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August 06, 2007

天然塩と精製塩の差

塩は血圧に大敵と云われているのは、精製塩・食塩のこと。

天然塩はナトリウムの他に、カリウム・マグネシウム・カルシウムなどのミネラルをバランスよく含んでいる。天然塩を摂ると、プラスの電気を作りだし、赤血球が反発し合ってバラバラになり、血液がサラサラになると云う。

老化や脂肪の摂りすぎで、赤血球の電気の力が弱まって赤血球同士が付着する為、血液がドロドロになり易い。そのときに、この天然塩は、血液をサラサラにして、血圧を下げるという。

主婦の友社の「血圧がみるみる下がる100のコツ」より抜粋。

天然塩なら、寧ろ、血圧を下げるというのが驚きである。天然塩で漬けた梅干は、最強の健康食品と云うことが分かる。 

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August 05, 2007

白楽、夏祭り、"わたあめ"係り

昨日は、地元白楽の町内会の夏祭り。模擬店で、"わたあめ"屋さんをやった。去年までは、フランクフルト屋さんばかりやっていたので、今年は、"わたあめ"屋さんを体験。

割り箸を大きく右に回転させながら、指は小さく左に回転させて、綿を大きくしていった。人生で初めての"わたあめ"屋さん。浴衣を着た、ちっちゃい子供達が店の前に並んだ。難しかったけど、何だか、嬉しかった。

盆踊りの櫓は1週間前に、町内の有志で建てた。現場の棟梁のようなおじさんもいて、頼もしかった。1mX30cmくらいの板っきれを見付けて、これどうしますか?と聞いたら、「其れは"リヤカーの蓋"だ」といった棟梁。

確かに、リヤカーの荷台の四方の留め板の一つだった。"リヤカーのふた"か・・・・。これも、楽しい発見だった。

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August 04, 2007

改札口の感動

昨日、会社帰りに、武蔵小山商店街の祭り見物をした。 駅の改札に、3才くらいの女の子が、お母さんに連れられて来ていて、突然、「パパー」と叫んだ。私の数メートル前を改札へ向かって歩く人がお父さんだった。

改札での親子3人の待ち合わせだった。駅で、「パパー」と、大きな声で、呼ばれた時の感動は、どんなに嬉しかっただろうかと、そばの自分も感動した。

人生でこんな場面は、ありそうで、めったにない場面。私も、娘が同じ年の頃、会社から帰って来る時に待ち合わせをして、武蔵小杉の改札で、お母さんに抱かれた娘に、遠くから、「パパー」と叫ばれたことがあった。そして、駅のそばのエルシーでケーキを食べて帰っただけだったが、人生には忘れられない光景になった。

娘が成人した今でも、たまに、武蔵小杉の改札を通ると、その時の「パパー」と云う声が聞こえるような気がする。


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August 03, 2007

一言文学

一言で情景が浮ぶような一言文学がある。

"貧しくて、行けなかった修学旅行"

"母と共に行ったキャバレーの面接"

"上京の日、工事現場の母がくれたクシャクシャの千円札"

"人生の最期に選んだ、子供達とのデズニーランド"

言葉には、密度がある。もうそれ以上云わないで下さいと頼みたくなるほどの、人生の傷みが伝わって来る。

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August 02, 2007

「あめんぼう」

「あめんぼう」が、長い足を巧みに動かして、水面の上を滑るように歩く様を、子供時代にはよく見た。

何だか、夏らしく、アニメの世界、お伽話の世界に誘われるような光景。

カエルが、水面から目だけ出してる光景も最高。ポチャンとまた、水音を立てて潜る。

人生が、美しい色取りの大自然の中で、アニメの中で展開している。


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August 01, 2007

目立ちたがり屋、または、保護色人生

よく目立つことは、悪く目立つことにもなる。目立つ事で、世間の尊敬や嘲笑の的になる。目立って尊敬される人より、嘲笑される人が圧倒的に多い。

人間を磨いてないのに目だったら、目も当てられない醜態をさらすことになる。

「お母さん、私はここにいますよ! 」と云う赤ちゃんのアピール感覚で、社会に目立ちたい幼児性の現われの愚かな有名人も多い。

一方、保護色で、自然に溶け込んで、どこにいるのか分からないように存在するのも、カッコ好い人生だと思う。むしろ充実した人生の極意ではないのか?

目立たないが、気付いた時は、大きな存在感が迫って来るような存在。そのような人生に憧れる。

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