~ちゃんのお父さん
アラブでは、子供の名前の前にボ(Bo)をつけて、゙ボ・アハメッド゙(Bo Ahamed) とか呼びかけることがある。 これは、親しい友人どうしで使う、呼びかけの言葉。
「アハメドちゃんのお父さん」と云う意味。「~ちゃんパパ」とか「~ちゃんママ」と云う感覚。
これが、アラブ人どうしのE.Mailの中で、よく見かける表現。自分の名前でなく、子供の名前を使って間接的に当事者に呼びかける。何か、ほのぼのとする、名前の呼び方だと思う。
アラブでは、子供の名前の前にボ(Bo)をつけて、゙ボ・アハメッド゙(Bo Ahamed) とか呼びかけることがある。 これは、親しい友人どうしで使う、呼びかけの言葉。
「アハメドちゃんのお父さん」と云う意味。「~ちゃんパパ」とか「~ちゃんママ」と云う感覚。
これが、アラブ人どうしのE.Mailの中で、よく見かける表現。自分の名前でなく、子供の名前を使って間接的に当事者に呼びかける。何か、ほのぼのとする、名前の呼び方だと思う。
知人から、戦艦三笠保存会主催の日本海海戦記念式典の情報を知った。5月27日横須賀であると云う。靖国の桜とかに直ぐ反応する、仙台の先輩にも連絡しなきゃと思った。私も、関心があり。是非行って見たい。
日露戦争を、三笠に乗艦することで体感してみたい。数年前に中国大連に行った時に、旅順にも立ち寄った。203高地、乃木将軍など、私も、祖父や父からよく聴いた。
東郷平八郎元帥のロシアバルチック艦隊撃破の戦法は、真田幸村にも似たりと感じる。腹を据えて生きた大人物達の歴史ロマンの世界。
東急東横線の駅に祐天寺(ゆうてんじ)と云う駅がある。昨日通勤電車の中で乗り合わせた小さな男の子が、駅名の車内案内に、「ゆうちゃんち?」と反応した。おじいちゃんに抱かれた2才~3才くらいの男の子の頭の中の世界。
確かに、駅名が、実際に、「ゆうちゃんち」とか、「ウサギさんち」とかだったらと想像したら、通勤電車も遊園地の電車になってしまった。
元いた会社の知人と飲んだ時、彼が隠し芸で、"便所コーロギ"の鳴き声をやっていたことを想い出した。彼は鈴虫をやっていたつもりだったのに、彼はいつの間にか、"便所コーロギ"の大家になった。傑作な芸だ。1000円くらい払ってでも聴いてみたい。
案外、退職後、"便所コーロギ"で全国ツアーをやったら好いのにと、彼に提案した。苦笑い。
私の蒸気機関車に乗りたい希望が、5月中旬に会津若松・新潟間で実現することになった。あのSLの汽笛の音、蒸気のシューと云う音、考えるだけで嬉しくなる。
子供時代、九州・大牟田から、母の実家・長崎へ、SLに乗って、何回も行ったことを想い出す。鹿児島本線から長崎本線に乗り換える鳥栖は、乗り換えの緊張を想い出す。長崎本線では、よくトンネルの数を数えた。トンネルに入ると、黒い煤が車内に入らないように窓を閉めた。
SLは鉄のかたまりながら、"頑張ってるお父さん"のような、人間的な雰囲気がある。畑の中を、赤い夕日を浴び、白い煙をはきながら走るSL。SLの座席に座る自分の姿。指定席・2号車13Aの切符を時々見て、夢が膨らむ。
会社帰りの駅から家への道すがら、周りの景色や人を見て、不図思った。これから100年後の人々には、これらの風情は、今の我々が昭和30年代村を見る様に、あるいわ江戸の街の風情を見るように、ノスタルジックなものになるかも知れない。
家々の造りや街路樹、街灯など、時代考証は要らない。私は現場にいるのだから。
道行く人々はエキストラ、すごいなー。"本物そっくり"なんて思いながらほくそ笑む。
時代考証を経た、ロケのセットの中にいる庶民。これが私。益々好奇心の塊りになる。
上杉謙信・真田幸村・土方歳三、これらの人物には、何か止められないエネルギーを感じる。何故自分が、そう行動してしまうのか、自分でも止められなかったエネルギーが、火山のマグマのように、自分の内部にあったように思う。
それが、義のようなものであれば、どれ程、力強かったことか。毘沙門天、六文銭、誠、これらの旗の翻る空を、時々心の中で想像してみる。私も人生が鼓舞される想いがする。
JR東日本の"トランヴェール"と云う車内雑誌の4月号の冒頭に、内館牧子さんのエッセイがあり、壮絶な和歌を紹介してあった。
「吾れ死なば、焼くな埋(う)むな、野にさらせ、痩せたる犬の腹肥せ」。”私が死んだら、焼く事も埋葬することもするなと云っている。野晒しにして、腹を空かせた野良犬に食べさせてくれ”と云っている。この歌の作者が小野小町ということで、また仰天した。
クレオパトラ、楊貴妃と共に世界三大美女とたたえられた美貌の歌人の歌である。「花の色は移りにけりな・・・」の歌人が、このような歌も詠んでいたことに、どのような人生だったのか、はかり知れない人生を思った。
先週、朝の電車の駅のホームの端っこで、小学1年生くらいの女の子が一人で、駅と道路を隔てた金属の格子越しに、外の道路で見送る母親のそばに、じっと寄り添っている姿を見た。
励まして送り出す母、母親から離れるのが不安な小さな女の子の姿。金属の格子を隔てた、女の子の心と母親の心を想った。人生の厳しさや愛情を想った。
そのシーンは、一瞬にして、私も幼稚園や小学校に行き始めた頃の自分の心を蘇らせた。
昨日は夜、会社主催のボーリング大会があり、随分久しぶりにボーリング2ゲーム をやった。ボーリングのスコアが自動的にデスクに、電子表示されるシステムも出来ていて、とても便利になっていた。
「アイロンを、真っ直ぐレーンに送り出すように投げる」と云うコツを、いつかTVで聞いていたので、実験してみたら、確かに、以前より成績がちょっと好くなった。 服のしわを伸ばす重たいアイロンを、真っ直ぐレーンの中心へ、押し出す。ウインタースポーツのカーリングも想い出した。私にとっては、成績改善の、ちょっと好いイメージ療法だった。
ボーリング場の、ピンが倒れる、フロアに響く高い音は、何故か、高度成長時代の日本も想い出した。
今週は、来日中のアラブのゲストと昼も夜も一緒に食事をするスケジュールが続いている。 昨日は、たまたま元寇の時に日本が台風に助けられた話をしながら、蒙古の大軍を前に、日本は本当に運が好かったことを思った。
また近々、旧満州行きを計画している私は、過去の日本の満州進出の話もした。この事では、イラクのクウェート侵略の記憶が生々しい国の人には、ちょっと説明に慎重な表現をしないといけないことを感じた。
中東の人には人気がある日本が、日本の満州進出と、イラクのクウェート侵攻と、どう違ったのか、整理して考えておかねばと改めて思った。
昨日は、米国の大学での銃乱射事件や、長崎市長の銃撃事件で、人生や人間の無常を思った。精神的に、極限に追い込まれている大勢の人の存在、人間の心の魔性、突然の災難の可能性。
これも、まぎれもない人間社会・人生の現実。これらのことも、何かのメッセージに確実に伝えようとしている。
一見、平凡に真面目に生きているつもりでも、突然の縁で、この様な凄まじい場面に出くわす可能性もある。人生とは、それほど綱渡りのように、危ういものかも知れない。
不条理な世界、無常な世界に生きていることを再認識し、故に、今日の平凡な1日にも感謝して生きなければと思う。
昨日は同期会で、元の会社の本社食堂の白いタイルの壁を久しぶりに見た。30年前の新入社員が、20人くらい会社の食堂に集まった。食券をもって、お盆(トレイ)を持って並んだ食堂は、今も余り変わっていなかった。
色んな人生を経て、現在の職場や仕事の内容が御互いに、よくわからない人ばかり。それより、"今、何にこの人は関心を持って生きているのか?"と云うお互いの関心が交叉するような、久しぶりの会話だった。
大学を卒業したばかりの、小生意気な顔々に、夫々の人生観の表情が積み重なり、ちょっとした風景をなしているようだった。
人は、話さなくても、沢山の情報を発信している。穏かに自然と調和しているように存在して、全てをあるがままに受け入れているような表情の人もいる。先日、禅寺で修行中の知人からのEMailに、お寺の老師様の写真があった。
サラリーマンは、特に勤務時間中は、無機質な効率・利益・表面的な事などに関心が大き過ぎて、随分と対照的な表情をしている人が多いものだと思った。
私は、人は会った瞬間に、その表情で、何に関心がある人か直感でわかるような気がする。そして、同じ人でも、人生のそれぞれの時期で、また同じ1日の中でも、目まぐるしく、その表情を変えることもある。
昨日は、8年前に病気で亡くなった会社の先輩の家にご焼香に行った。当時海外駐在で、葬式に参列出来なかった知人が、どうしても焼香に行きたいと云う希望で、私も同行した。
子供時代から見て来た息子さんも今は立派に成人していて、亡くなった父親のエピソードを私達から聴いた。たぶん父親の知らなかった部分を聴いたことだろう。
家族の中で見せる顔と、友人関係の中で見せる顔、色々な顔が人間にはある。私自身は、両親についての友人からの話は、余り関心もなく聴いて来なかった。今聴けばとても、興味深く聴けるだろうと思う。両親の友人が生きている時に、もっと聴いておけば好かったと思う。両親は、社会に周りにどんなに写っていたんだろう。
時々、親としての両親の人生ではなく、一人の男や女として、両親を眺めてみたい気持ちがする。自然を探求するのと同じように、時に、大切な身近な人間の人生を探索してみたい気がする。
昨日は大学の先輩の情報で、政治学者の内山秀夫先生の喜寿(77才)祝に出席してみた。先生は、体調が悪く欠席されたが、教え子達約60名が集まった。弟子の大学教授さん達が、「現場としての政治学」と云う本を記念出版もされていた。 私は、30年前の先生をちょっとだけしかの知らず、ただ何となく先生のお姿を久しぶりに見たり、先生の政治学への考えかたを知りたく、出席してみた。
集まった人達のレセプションの出席者と雑談しているなかで、40代のサラリーマンの方から、先生の教えの一部を聴いた。人は、常に権力志向の誘惑に陥り、傲慢さから判断を誤りがちであることを云われたとのこと。戦時中に、銃の「油を吸った鉄」を見ると、何故か権力の象徴のように思えたと云っておられたとのこと。 黒く重厚な、油を吸った鉄は、何となく、見たことがあるが、確かに、人間に大きな過信・傲慢さを与える誘惑があるような気がする。
そして、代読された先生からのメッセージ曰く、「手を振り上げてはならない。話して話して話ぬけ。そうしないと、戦争を破棄した意味がない。大日本帝国になってしまう。後は諸君らに任せた」とあった。戦争を体験された先生の言葉が、重たく心に残った。
たまたま見たTVのアラビア語の講座で、アラビア語の朝の挨拶は、素敵な合い言葉であることに気づいた。サバー・フル・ハイル(善い朝)と誰かが云うと、相手は光の朝(サバー・フン・ヌール)と答える。
「善い朝ですね」、「光の朝ですね」。 砂漠の朝を想像する。何という、人生礼賛の合い言葉だろうか。
楽しそうに仕事をしている親をみると、子供は親の職業をやってみたいと興味を持つと云う。確かに、楽しそうに活き活きと仕事している人をみると、自分も出来ないか考えるだろう。
また、それに、大人達が、人の為に社会の為にと苦労努力している姿も、子供達に、使命感のような仕事への高度な価値観を与えるだろう。
何の職業であれ、本心では、親の職業を継ぎたがらない子供達が多いのは、親が楽しく、使命感を感じさせるような生き方を見せてないからなのだろう。親の生き方を見せる場面も少ない現代の社会、親がどんな仕事の時間を送っているのか、見える場面は少ない。例え見ても、金の為のやむを得ない仕事だったら、親と同じ不満足を感じることだろう。
時に楽しく、時に社会や人の為に苦労する姿を見せて生きることは、子供達には大きな希望になるだろう。そんな生き方を人生の先輩はやらねばと思う。
色々な出来事は時に必然に見えたり、時に偶然に見えたりする。運命もあれば、運命を変える立命もある。同じ種子でも流れ着く土地の土壌によって育つ植物は違ったものになる。
やはり人生は神秘に満ちている。必然への畏敬、偶然への感謝の気持ちも湧いて来る。
そう云えば、団塊の世代の大量退職が最近始まったことを思った。辞めて直ぐのころは、まだ会社の延長のような気分や、開放感、寂しさ、不安、希望など入り乱れて現われることだろう。
私は、一度28年勤めた会社を早期退職で辞めたことがある。その時の開放感は、すごかった。まるっきり別人になれるような気がして、とても新鮮な世界が広がった。会社を辞めてからの朝のすがすがしい開放感は、何とも云えなかった。
その後、時が経つにつれて、自由の持つ混沌とした孤独感のようなものも感じた。そして、自由と不自由のメリハリこそが、絶妙の人生の知恵だったことに気づいた。それは陰と陽のようなもの。両方あってこそ安定するものだと思った。
何から何まで、全部自分で選択して生きて行くほど、人間は、賢くも有能でもないと思う。機械的に何かをやらねばならないことが、半分くらいあっても、精神的には楽になるものだと思った。
雨が降り始めた屋根の瓦を描いた絵に何故か心惹かれる。一昨日のTV日曜美術館でも紹介された福田平八郎の"雨"と云う題の絵である。
降り始めの雨の水滴の様子を黒い瓦の上に描くことで、彼は"時"を描いている。
自宅のベランダから見える近所の家の屋根の瓦を見る度に、この絵と"時"を想う。
昨日、選挙の為、小学校の体育館に入った。娘が通っていた小学校の体育館が懐かしくてジーンと来た。体育館の中をシゲシゲと眺めた。ここで、私は町内のバレーボールをした事もあった。
校庭を歩いたりしながら、運動会で、シートをひいた運動場、確かあのへんだったなーとか想い出した。帰りは、桜の花びらが舞い散る小道を通って帰った。追憶に耽り、「ところで、誰に投票したっけっ?」て感じだった。
今、自分に希望を与えてくれるものは何か?を考えてみる。それは、知らない未知の世界への好奇心。小さな驚きの世界。
人生には自分が知らなかった世界が延々と広がっていたことに気づく時、ちょっと先を、ちょっと先を覗いて見たくなる。
最近は、時間の経つのが、以前よりゆっくり経つように感じて来た。と云うことは、世界が好奇心に満ちて来たことの証拠でもある。
子供時代に見えたように、道行く、おじさん・おばさん・友達の表情が拡大して見え、社会が余りにも残酷に見えたり、幸せに見えたりもする。そして、心はびっくりして、自分が身を置いてる世界が、どんなところかを確かめている。
そんな気持ちの中で見る自然は、また驚異的にも美の調和の世界にも見える。
昨日は、終業後、日本橋で知人との会食の後、夜9時過ぎの新幹線で小田原の妹の家へ行った。開成の田園風景が私は好きで、いつも朝、畑の中を散歩する。今朝も小田原の山々を見ながら、畑の畦道を歩いた。
そして昼は、妹と小田原城の桜を見に行った。桜の並木や、ボートが浮ぶ堀、赤い橋、それは、それは美しい光景だった。妹と二人で、穏かに桜を愛でるひと時。これも私が描いた人生の大事なシーンの一つ。
二人、のんびりと歩きながら、駅のそばのレストランで海鮮定食を食べた。店内には、本物の桜が咲いた桜の枝が数本飾ってあり、桜の時期のほんの数日間の小田原に来たことを実感した。
英語のOccupationと云う言葉には、占領と仕事と云う意味がある。自分を占領されることが仕事のようなものとは、意味が深い。そのような指摘を友人から聞き、はっとした。確かに、と思った。
"仕事と云う占領軍"と、折り合いをつけながら、生きて行くのも、人生の知恵。占領軍の統治の中でも、少しずつ、自治を拡大していくのも人生の知恵。
先日の帰省の時も、西鉄大牟田線沿線の車窓から見えるある看板を探して微笑んだ。柳川駅そばの大和町の宣伝の看板 「よって いかんかんも」。 都会から来ると、どひゃとする"ど田舎方言"。「ちょっと 立ち寄って行きませんか?」の意味。 潮干狩の船が入り江に停泊している有明海の海辺の街。
また、博多・天神そばの中央区役所前には、博多の祭りのハッピを着た小便小僧の彫刻に"すんまっせん"と名前が付いていた。
「よっていかんかんも」、 「すんまっせん」、芸術的な田舎ぶり。参った。
今朝、出勤途上、駅までの道に、選挙カーが通り、候補者が手を振り、道行く人に愛想を振りまいていた。曇り空の朝、人通りもまばらだったので、候補者としては、ちょっと寂しい場面のように見えた。
その状況下、道路脇の大きなケヤキの木の影で、何と立ち小便をしているおじさんがいた。そのおじさんにも、選挙カーで、宜しくおねがいしますとスピーカーで云ってる様子が、余りにも滑稽で、吹き出しそうにになった。
立派なケヤキ並木のケヤキも、おじさんの立ち小便にはまいっただろう。選挙の候補者も、こんな状態の人には、見て見ぬ振りもしたかっただろうと、一人想像しながら、変な光景だったなーと思いながら駅へ向かった。
昨日、会社にアルメニア人の24才の男性ビジネスマンが訪ねて来た。アルメニアは、旧ソ連のグルジアと国境を接している国。隣国アゼルバイジャンとの国境紛争は絶えない。スイスのルガーノ に4年、米国に1年、そして日本に10年住んでいるとのこと。ビジネスのことより、アルメニアのこと、彼自身の家族や人生のことに興味ひかれた。
夜は、新潟勤務時代の独身寮の仲間数人でおじさんの街・新橋で一杯飲んだ。帰りの京浜東北線の電車で、また知り合いにあって、結局鶴見で途中下車。 ここで、また飲んで、これでは、昔のパターンに逆戻り。ちょっと、反省。
だが、色んな人の人生を、眺めるような1日であった。
高校1年生の時、私は風紀委員をやったことがある。朝、校門で、生徒の帽子をチェックしたり、体育館での応援歌指導などもあった。昨日故郷の三池高等学校を訪れた。校門の柱が昔のままで、懐かしかった。
昭和41年4月、昨日と同じように桜が満開の三池高校に、入学したころを思いだす。1年8組、ミジンコ先生。あのときの、ま新しい教科書のにおいを想い出した。
想い出の自転車置き場や、下足箱。 校庭では、時折、野球部の硬球の打撃の音が響いていた。
6月2日、東京で、その三池高等学校の同窓会がある。楽しみにしている。
龍ちゃん、和也君、ヒロムさん、足立つぁん。公民館の花見、面白かった~。40代~70代の懐かしい人達。近所では、隣のなおちゃん、よっこちゃん、裏のしのぶさんも見かけた。なおちゃんは子供ん時、美空ひばりば真似しよらした。
私の10才下の弟の遊び仲間の電気屋さん和也君が、私が英語の新しい辞書を古く見せる為に、「和也君、辞書ば、足で踏んでくれ」と云ったそうです。面白がって、私の弟や和也君が、踏んだのでしょう。
私より5才年下の自転車屋さんの龍ちゃんは、近所の梨山の梨を食いに行ったら、蛇が木の上から落ちて来て、逃げ帰ったげな。龍ちゃんは、弟や和也君に、岩山などで高いところからでも、飛び降りろって命令しよったげな。
足立つぁんのおっちゃんは、ストローばもって、スイカ畑さん行って、スイカに刺して中ば、吸いよったげな。蚊のごたる。面白か"おっつぁん"。