かくれんぼ、お手玉の素晴らしさ
子供の遊びの"かくれんぼ"、鬼ごっご"は、緊張と弛緩の訓練で、心臓・筋肉・肺の機能も高め、子供の脳の前頭前野を発達させ、心を育てる最適の遊びと云う。
またゲーム脳(動物反射だけの脳)を回復させるのに、三つ玉のお手玉は最適と云う。立体視力を使い、前頭前野を刺激する、高度な脳と身体の連動の運動と云う。
伝統的な子供の遊びは、健全な脳の発達にとても役だっていたことに驚き。
子供の遊びの"かくれんぼ"、鬼ごっご"は、緊張と弛緩の訓練で、心臓・筋肉・肺の機能も高め、子供の脳の前頭前野を発達させ、心を育てる最適の遊びと云う。
またゲーム脳(動物反射だけの脳)を回復させるのに、三つ玉のお手玉は最適と云う。立体視力を使い、前頭前野を刺激する、高度な脳と身体の連動の運動と云う。
伝統的な子供の遊びは、健全な脳の発達にとても役だっていたことに驚き。
母乳の中の、カリウム・ナトリウム比率は5:1とのこと。母乳に一番近い食べ物は玄米と云う。
玄米も カリウム・ナトリウム比率は、同じ5:1。東洋医学の先生の話で聴いた。 不思議な符号。
昨日の展開は、まさに1日がどんな驚きをもたらすかと云う不思議さを感じる。
大学時代の同窓数人で集まる会に来ないかとの午前中の急な誘いであったが、行ってみると、中に32年振りに会う同窓生が3人いた。大学時代同じクラスでも、そんなに話した訳ではないが、確かに大学時代に見たクラスの光景。色んなことが連動して思い出されて楽しかった。
この年になると、妙に落ち着きがあり、それぞれの人生観が滲み出ている。二次会まで盛り上がり、それぞれの話に円熟した、シルエットを感じた。
物質を細かく細かく原子よりも先にまで見ていくと、それは一種の波動のようなものと云う。それは「気」のようなもの。 物質と精神の融合を感じる世界。
今私が吸っている空気は、波動がいっぱいあるのだろう。波動の海の中で生きているってことを感じる。波動の海の中にいる魚のような存在である人間。
人間も、遠くに離れていても、特別な波動をキャッチしたり、発信したりしているのだろう。その様なことを思うような神秘も、たまに感じるのは好い。
全ての生物の遺伝子DNAは4つの塩基からなる。その中で、3つの塩基からなる遺伝子暗号は64通り。
そして、2000年前の中国で書かれた「易経」の64卦(け)、即ち64通りのモデルの一致に関する書物を読んで驚いた。「易経の謎」今泉久雄著、光文社。
易経は、宇宙の神秘を見とおしていたのか? 易と先端科学の符合。
現代の日本の母親の70%は、TV・ビデオ、メール等を見ながら授乳すると云う。赤ちゃんの視力は、先ず25cm~30cmのところから焦点が合ってくる。それは、授乳中の母親とのアイ(眼)コンタクトの距離だと云う。
人生の第1歩、一番親近感を抱く相手に、よそ見・拒絶された時の寂しさ・辛さは、その後の赤ちゃんの人生にどんな影響を与えるのだろうか?
生身の人間の声が、うざったく聞え、電子音や機械の音に、妙に親近感を覚える人間を造るかも知れない。
先日聴いた元NHKデレクター清川輝基氏の講演の中で印象に残った部分です。日常のたわいもないこと(TV・ビデオ・メール)に惑わされず、大切なことを判断し、想いをかけることがどんなに大切なことかを考えさせられます。
地方公務員向け雑誌(約2万部発行)、社会保険出版社の「ゆとりくらぶ」夏号に、私の食育指導士としての活動の紹介記事が載りました。 私の講演を聴いて頂いた家裁調停委員の方が私を紹介してくれました。私の写真入りの記事です。
今度、7月20日東京二子玉川で、地域の方々の集まりで、また、食育の講演をやる予定です。
食は、人生に取って極めて大切です。食の乱れは精神も乱します。犯罪を犯す子供達の食は、必ずと云っていいほど乱れています。インスタント食品、スナック菓子、缶ジュース等で身体も精神も崩れていくように感じます。
安藤昌益の「自然直営道」は英訳もあり、海外でも読まれていると云う。この中に、「直耕」と云う言葉で、彼は自然界を表現していると云う。
全てのものが、「自分で耕し、自分で食べている」と云う考え。真の営み、地球の実態。
陰と陽は対極にあるのではなく、「一気の進退」。気が進んだ状態を"陽"、同じ気が退いた状態を"陰"と云う。坐禅の呼吸を想起する。吐かねば吸えぬ、吸わねば吐けぬ。共に自然界の営み。
もとNHKデイレクター清川輝基さんの講演を聴いて、現代の電子メデイア漬けの子供達の脳や心が壊れて行く危険を感じた。
日本の小中学生は1日6時間以上、TV ビデオ パソコン等の電子メデイア に時間を使っていると云う。即ち年間2200時間。 一方、授業は50分授業を1時間とみて計算しても1100時間と、電子メデイアの半分。
電子メデイアは、脳の前頭前野を使わないから、思考や人間らしい反応がなくなっていくと云う。視線が合わせられない無表情の子供達も増えていると云う。子供達の心が壊れていく。
昨日朝から、私も試しに、TVつけない生活をしてみた。何とも云えない、静けさに、小鳥の声、雨の音など、感覚が鋭敏になるような感じがした。静けさの感動もあることに気づいた。
人生に夢を持ちなさいとはよく云われることだが、この夢の中味が、物質的なものや、形や地位になると、人生を迷走させる落とし穴になることになると思う。
幼児は スポーツ選手、オリンピック金メダル、社長、お嫁さんなど、イメージを膨らませて夢を語る。まだ精神が発達していないから仕方がない。
形や物質にとらわれて、人間の持つ内面の美を犠牲にしてまで追い求めてはならない。夢に到達しても、社会からブーイングを受けることもある。また、自分が燃え尽きてしまうこともある。
結局は、人間誰しもが、こころから拍手喝采を送れるのは、その内面の美を感じる時だと思う。
煌びやかな形を求めることは、寧ろ、精神性の幼稚さを表しているように思う。
「ゾウの時間・ネズミの時間」(本川達雄著・中公新書)によると、哺乳類の心臓は、その一生に約20億回、拍動するように出来ていると云う。ネズミ のように小さい動物の拍動間隔は短く、早くゾウは長い年月かけて20億回に達すると云う。ネズミの寿命は数年、ゾウの寿命は100年近く生きるのもいると云う。
因みに、人間は大体50年で、20億回に達すると云う。ー青春出版社 「理系の話が面白いほどわかる」-
この説の根拠は定かではないが、とにかく人間が50才以上生きていることは、もうけものと考えることもできる。
今、三鷹美術ギャラリーで、高島野十郎と云う画家の没後30年展が開催されている。彼は今思えば凄い才能でありながら、生前無名だったことが不思議でしょうがない。画壇に属さず、清貧に甘んじた生涯であった。生前は無名であったが、1986年福岡県立美術館での個展、1993年のTV日曜美術館等で世に知られるようになったと云う。
彼の絵は、初めて見た時、まさに衝撃を受けると云った感じだった。彼は、描くことを、まさに生きている証のように描いた。 彼の絵には、人生を厳しい修業にとらえた様な凄い緊張感が漂う。
蝋燭や月、桜を好んで描いた。彼の絵を見ていると、人生の深い味わいが、押し寄せる波のように迫ってくる。私の故郷福岡県大牟田市のそばの久留米出身に、このような画家がいたとは衝撃だった。同郷の有名な画家、「海の幸」の青木繁に優るとも劣らない迫力であった。
「違う」と感知するのが感覚の力。動物は感覚が鋭い。自然の中にいると感覚が磨かれる。現代人は、感覚を縮小していく世界に住んでいる。
「同じ」と感じるのが社会生活、都会生活。「同じ」の感覚を発展させるのが科学。同じの感覚の象徴が「言葉」「お金」。
「お金で買えないものは無い」と云う人の発想は、お金で買えるものしかみて来なかった人生。そこで、私は思った。お金で買えるものしかみて来なかった心には芸術は存在しない。
昨日夕方、新潟から横浜ヘの帰りに、東京で養老猛先生の講演を聴いた。 「違いがわかることが感性」との彼の言葉に、自分の考え・芸術論が整理された。
現代人の大きな傷(致命傷)は、戦後の混乱期・生活苦の時は、かすり傷みたいなものだったろう。
戦後の生活苦の時代には、かすり傷だったようなことが、現代人にとっては致命傷的になってるのだろう。
そう思えば、人間の幸福観・不幸観が、滑稽に思えて来る。
高校時代に一緒にヒッチハイクをした高知の友達が、急遽出張で上京、昨日夕方の羽田からの飛行機の時間まで、午後、喫茶店で話した。文学のこと、人生のこと、仕事のこと、食と健康のことなど。人生の戦友同士。
人生の忘れ得ぬ旅となった17才の頃の夏のヒッチハイク、1週間以上かけて、大牟田から北九州、下関、山陰、広島とまわって大牟田ヘ帰着した。青春時代の大冒険だった。海や山や、出逢った人との交流など、NHKの「小さな旅」のように、美しい情景と想い出が蘇る。
村上雅治医師の、心の定義は「教育された本能」。医学生の頃、解剖で、人の心は何処にあるのか色々、考えた末の彼の結論。「生の機能」としての脳の活動の中に本能の活動がある。その本能を、どう教育するのかで、色々な心が形作られる。
心が引かれる時、確かにそれは本能のように思う。 「教育された本能」何と素敵な表現だろう。
マルコポーロが、ジェノヴァの獄中で、同じ牢獄にいたバステイケロと云う人物の協力を得て、その旅行記を編纂したのは、帰国後およそ30年後の、1298年頃とのこと。平均寿命も短い時代に、何という、ゆったりとした展開と驚いた。パリ国立図書館に、東方見聞録の写本が保存されていると云う。
ヨーロッパ人が、日本の存在を知った最初の書物がこの「東方見聞録」だと云う。この後、3世紀を経て、1543年のポルトガル人の種子島漂着、1549年の宣教師ザビエルの来日に繋がって行く。
ー「外国人の見た日本」宮口仁著、紀伊国屋書店からー
動いているものも、沢山の静止画像の集まり。動くアニメーションの画像が、沢山の絵をパラパラめくるのと同じ。
人間も、生きているようで、動いているようであっても、静止画像のようなものの集まりとも思える。完結した瞬間の集合体が人生。静止した瞬間は、云わば「死」と「生」の瞬間なのかとも思う。
「一期一会」とは、この境地のことではないかと思う。そう思うと、「時」は二度と同じ時はなく、「時」は宝石のように輝く。
左脳(論理脳)と右脳(芸術脳)をつないでいる部分を脳梁と云うとのこと。女性はこの脳梁が男性より発達していて、左脳と右脳を行ったり来たりしているらしい。男性は、この脳梁が、女性ほど発達してなく、比較的直線的に物事を考え易いとの説を聴いた。新鮮な驚き。-日本内分泌撹乱化学物質学会の森田昌敏会長の講演資料ー
JT生命誌研究館の中村桂子館長の特別講座を聴いた。
外の自然の破壊は環境破壊、内の自然の破壊は人間の破壊。彼女が内なる自然とは、「身体」、「心」、「時」と説明した時、私の中に電流が走った。
私の人生の最優先価値観は、内なる自分自身と対話して、「健康、心、自然、時間」と約3年前に決めた。それが、生物科学者の彼女が云う、自然の範疇に全て美しく、整理されていた。
圧巻は、生きてると云うことは、「時」そのものですとの言葉に、まさに時間をどう使うかが人生そのもののように感じた。生物は、無駄があり矛盾があるが、それが結局38億年の継続を支えて来た。効率の好い結果(人間の科学崇拝)が大事なのではなく、プロセスが大事なのですと彼女は云う。
彼女は、隅に鶯と梅の花の描かれた色紙に「愛づる」と云う言葉を書いたスライドを披露した。これが、彼女の生命研究のアートだと思った。彼女は芸術的に生命を探求しているのだ。
昨日は、20代~60代までの20人くらいの職場同窓会が新鮮だった。根岸の製油所の同じ職場の歴代の担当者が、現在61才の先輩を慕って、集まった。
会社に入って間もなく、製油所の原油輸入の仕事を、この先輩に教わった時代が、みなとても懐かしい楽しい想い出でなのだろう。この先輩のそばにいると、何故だか優しい気持と、穏やかな気持になれる。これが人間力と云うものだろう。
以前、仕事で行き詰った時など、駆け込み寺のように、この先輩と職場を想い出していた。これからも、この会は、心の安らぎの基地みたいな存在になるだろうと思う。
心とは何か?
住職の説明は、心は(1)過去の経験、(2)私にとっての考え、(3)思考能力、の3つによって形作られるととのことであった。
そして、心の動きが分別となる。修業は、心の動き(波)の先にある、高尚な無分別(大海)の境地を味わうことである。遥かに遠くとも、微かに感じる、悟りの境地のような世界の存在。
業生身(ごうしょうしん)とは、惰性で生きる・宿命で生きることと云う。
願生身(がんしょうしん)とは、自分のことより他を優先する心、菩提心。
業(ごう)の世界から願いの世界ヘ。人間本来の美への修業だと思う。坐禅道場の住職からの教え。
米国の胃腸内視鏡外科医、新谷裕実先生のベストセラー、「病気にならない生き方」からの抜粋です。マーガリンより、まだバターの方が好いようです。
マーガリンは植物油から溶剤抽出法で抽出されたトランス脂肪酸を含む油。トランス脂肪酸は、自然界には存在しない油。マーガリンほど、身体に悪い油はない。常温で液体の不飽和脂肪酸(植物性油の特徴)を水素添加して、飽和脂肪酸(動物性脂)に変化させている。マーガリンは原料は植物性であるが、動物性脂肪のように常温で固まっている。マーガリンは、悪玉コレステロールを増やし、善玉コレステロールを減らす。癌・高血圧・心臓疾患の健康被害をもたらす。
マーガリンと同じくらい、トランス脂肪酸を含んでいるのが、「ショートニング」。クッキー、スナック類、フライドポテトに沢山入っている。欧米では、食品中のトランス脂肪酸に上限を定め、超えるものは販売禁止。
昨日、ある会合の懇親会で、私は何を目指して生きているのかと問われた。
問われてみて一瞬戸惑ったが、私は、「一種の美」を感じることを目指して生きていると思った。大自然に感じる美、人間の思いに感じる美、そんな感動を、人生のたまらない魅力だと思う。
人間に感じる美は、その人自身の立身出世を考えることと対極的に、己を捨てても守りたい小さな存在のようなものを持ってる人に、圧倒的な美を感じてしまう。倒れても倒れても、守りたい人を守り続けて生きるなんて、最高の人間の美のように思う。それは、大自然の営みのような、魂の発現なのだろう。
苦労をしながら人の為に何かが出来る人は幸せだと思う。その苦労が心を打つ。そして、燃え尽きても、永遠の輝きになる。苦労そのものが、価値を産んでいるのだと思う。
どんな高価なもの、どんなことであっても、与える人が簡単に得られるものであった場合、軽さが伝わり、心を打たない。その意味では、お金は無力だ。
身を捨てて、苦労をしても本望なくらい、大切な人を持てることは、人間のかけがえのない幸せだと思う。
私は、時々「博、負けるな!」と云う母の声が今でも聞こえる。私が結婚した時、披露宴の出席者に絞るような声で、「博を宜しくお願いします」と云った父の声をはっきり覚えている。
「日本沈没」の試写会を見た。巨大な災害の中で、命がけで災害に立ち向かう人間の行動に、日頃忘れていた、真剣に生きる尊さのようなものを感じた。
自然の巨大な破壊は、日本の歴史の中でも、案外多く起きている。ただ、自分の身の周りに、最近起きてなくて、巨大な災害の実感が湧かない人が多いと思う。だが人生には、戦争や、このような災害と云う、避け難い運命に出合う人の方が、むしろ多いのではないかとも思う。
今、自分が生きていることに改めて感謝し、災害が訪れた時のことも考え、貴重な人生を納得いく生き方をしなければと思った。人生を真剣に考えさせてくれる、とても良い映画だった。
現在 横浜開港資料館(大桟橋前)で、横浜開港150年を記念して、外国人カメラマンの撮った幕末日本の写真の展示をしている。(4/26~7/30)
当時の横浜の田舎振りが、余りにも田舎で、150年が、こんなに風景を変えるものかと驚嘆する。生麦事件の現場の畑や、麦わら屋根の家の風景も、強く印象に残る。
当時の日本人の、緊張感のある顔付きが、凛々しく,羨ましくも思える。