顕微鏡の中と宇宙
何故か、最近ずーっと気になっていて、とても考えさせられることがある。 毛利宇宙飛行士の講演会で、コロンビア号の中で、彼が顕微鏡で見た猿の細胞の模様と、コロンビア号の窓の外を見た時の宇宙の模様が、何故だか同じように見えたこと。
「毛利飛行士も、不思議ですね。 同じように見えます。」と云っていた。 巨大なものと微細なものが同じなんて、とても神秘的なものを感じる。
何故か、最近ずーっと気になっていて、とても考えさせられることがある。 毛利宇宙飛行士の講演会で、コロンビア号の中で、彼が顕微鏡で見た猿の細胞の模様と、コロンビア号の窓の外を見た時の宇宙の模様が、何故だか同じように見えたこと。
「毛利飛行士も、不思議ですね。 同じように見えます。」と云っていた。 巨大なものと微細なものが同じなんて、とても神秘的なものを感じる。
昨日、夜7時頃、小雨のなか、駅から家ヘ歩く道路の側溝から、微かに子猫とも子犬の鳴き声ともとれる声が聞えてきた。足を止めて、鉄の格子の蓋の上から覗きこんでも、真っ暗で何も見えない。 確かに何か動物の赤ちゃんのような声がする。
このまま小さな生命が、溝のなかで、寒さに凍えながら死に絶えるのは放置出来ない。 一旦自宅に帰り、軍手、懐中電灯、タオルをもって、再び現場にやって来た。
重い鉄の格子を開け、懐中電灯で中を照らした。 何と、二匹の大きな薄茶色のカエルだった。 ほっとして、心の重荷がスーと消えた。 カエル君なら、側溝の中は天国のようなものじゃないか。
そばを通りかかった中年の女性が、動物好きなのか、この話を聞き、私に「ありがとうございました」と云ってくれた。 急に訪れた不安から一挙に開放された喜びに、カエルの姿が目に焼きついた。
「食品の裏側」東洋経済新聞社(阿部司著)を読んだ。 食品添加物の神様と云われた営業マンが、帰宅して見るとある日3才の我子がミートボール を食べようとしていた。そのミートボールを食べてみて、彼は「やめろ!」と止めてしまった。
端肉、即ちドロドロのクズ肉と、廃鶏の肉に、添加剤をじゃぶじゃぶに投入して作ったミートバールを我子が食べていた現実に、著者は、我に返ったように思ったと云う。
ポリリン酸ナトリウム、グリセリン脂肪酸エステル、リン酸カリシウム、赤色3号、赤色102号、ソルビン酸、カラメル色素、・・・・ それらを愛する子供達が平気で摂取していた現実。
添加物の複合摂取の害は実験されていない。だが、著者は、長年の経験で、現代の子供達の崩れ方は、食にあると考えている。
人間は、人工的に自然な食品と同じようなものを造り出せる、造り出せたと傲慢にも勘違いしていると私は思う。 食にも、しっかりした哲学・理念がないと、人生を台無しにしてしまう恐れがあると思う。
先週新橋で開かれていた国際LPガスセミナーに来日中の外国人ゲストの2人から、久しぶりに電話を受けて嬉しかった。 セミナーの合間に会い、昨日は午後、数時間、浅草と秋葉原を案内した。
来日7~8回とは云え、まだ浅草さえも見ていなかったとは、欧米人も仕事中心の出張振りで、驚きであった。小雨のなか、浅草の仲見世通りでは、暖かい甘酒を飲みながら歩いた。 観音通りの魚の乾物屋で、みがきにしん(乾物)を一匹を買って半分に折って、二人で、これも歩きながら食べた。 童心に帰ったり、江戸情緒を味わったりの小さな旅。
秋葉原では、フィギアの店を案内したら、最近の日本の若者文化にとても驚いていた。 こんな小さな驚きを、人に与えることも私は幸せを感じます。
高知の友人から、自分の畑で採れた文旦と八朔(柑橘類)が届き驚いた。無農薬栽培で、確かに見かけは賑やかだが、何だかとても、人間味を感じる果実だった。
何十年も忘れていた、何か九州の故郷を想い出させるものと似たような安らぎを感じた。 両親が生きていたら、庭で採れた作物を、送ってくれたかも知れないことを想像した。
人生の何気ない、このようなことのやりとり、出来事が、深い人生の味わいをもたらしてくれる。 文旦と八朔の素朴な味が、とても美味しく、穏やかな幸せを与えてくれる。
人に対して人との差を感じるとき、自分とは違うと感じるとき、所詮人間は一人孤独な存在と結論づける。人に対して同じだなーと感じるとき、人との連帯・共感を覚え、幸せな気持になったりもする。
同じも違うも感じ方次第、微妙な心理的な物差し次第。違う部分に着目するか、同じ部分に着目するか次第。
物差しの目盛りを細かくすればする程、細かく差を測れる。細かく測って孤独を味わうも、たまには好しか。
違うことに腹を立てたりするのは、もってのほか、勝手な一人相撲(または人権侵害?)かも知れない。
オリンピックのフィギアスケートの演技を見ていて、何事も一所懸命は心を打つものだと思った。
美や、社会に役立つことなど、に一所懸命なことは、特に心を打つ。
日常生活で、オリンピックの選手のように、一所懸命になっていることがあるだろうか? と自問する。そうだ、自分の価値観に優先順位をつけて、一所懸命になってみようと思う。 素晴らしい人生のために。
私が子供の頃、裏山から脱兎の如く駆け下りて逃げて来た時、それは小さな犬に追いかけられていたと云う。その話を、母は何度も、大笑いしながら、動作つきで、犬の小ささを手で表現しながら語っていた。
今、何故か、その話が、自分でも可笑しく、幸せな気分にしてくれる。 あの時、一緒に母と大笑いしていれば良かった。 小さな犬を、見かけると、時折想いだす。
「ビタミン外来」等ビタミン・ミネラルに関する本を数冊書いてらっしゃる 佐藤努医師(稲毛病院)の講演を聴き、医師や健康についての考え方に、驚きと共感を覚えた。彼の発言は、世間の医師と健康についての過大な期待に警鐘を鳴らすものとして好感を持った。
「医師は、健康の専門家ではありません。 病気の専門家です。 」 「医師は科学者としては失格です。 食べ合せの知識はありません。 栄養代謝学・運動生理学などの知識はありません。」
「健康と病気は、全く次元の違う領域です。病気じゃないと云うことが健康ではありません。 WHOの健康の定義は、肉体的・精神的・社会的・経済的にも健康であることです。」
食べ物は、薬のようにすぐ劇的な効果は生まない、劇的な効果があったら医薬品になってしまう。医薬品は、緊急避難、健康になるには、生活習慣と食べ物を見なおさずして実現は困難との見かたに納得した。
宇宙飛行士毛利衛さんの話を聴いた。 スペースシャトル(2,000トン)は約8.5分で宇宙に到達する。(秒速8km、時速3万km)。 印象に残ったのは、そんな4,000km も地球から離れた場所でなくても、わずか4kmや40kmくらい地球から離れた場所からの地球の昼間の映像。 緑の森林の部分と青い海の静かな球体。生物らしき存在は何も見えない。生物の痕跡は、青い海に少し白いさんご礁(珊瑚の死骸)が僅かに見える程度。
緑の部分のそばに一部灰色の部分があり、それが人の住んでる都市。 宇宙人から見れば、緑の部分を少しづつ灰色に変えていく微生物が、地球にいるのかと見えるかも知れない。
それぞれの人間が、大変な思いをして人生を送っているのに、こんなに騒々しい社会なのに、シーン と静まりかえった、静かな青い球体。
そうだ、人間は、微生物なんだ、宇宙から見れば。
人間が生まれて来る時は、精子の数、約2億匹の中からたった1匹が選ばれ勝ち残って来ている。 既に、宝くじより凄い、幸運に恵まれている。 散っていった約2億匹の仲間達は、代表としてその人を選んだことにもなる。余りにも凄まじい競争。
宝くじに当たった人が、その後、金を簡単に使い果たし駄目になっていく例も多いが、人生もそれに似ているかも知れない。
生きてると云うことは、まだ宝くじの財産が残っていると云うこと。 そのことに気づけば、先ずやることがある。
それは、盛大な祝賀会をやることと、散っていった仲間達への感謝、そしてまだ財産が残っていたことに泣く事。 そして、今日も朝日を見よう。
以前いた会社の安全標語募集で、落選した傑作安全標語の話を想い出し、想い出し笑いをした。
「ラーメンは塩・こしょう。 安全は指差・呼称。」
「豚は角煮。安全は確認。」
共に、審査委員会は憤慨。 脚きりで没。 私は、素晴らしい傑作だと思い今でも、傑作と讃え覚えている。
幼児が、「いないいない バー 」で、驚き笑いだすように、大人にもこんな、トンチンカンな驚きは、健康にとても好いと想う。
30人の真に親しい人、自分のシンパを見付けることは、人生にどれだけ素晴らしいことかと想う。 自分が何か、小さな事業をやり始めたとしよう。 一生懸命にやっていると、その30人は、サポートしてくれる。 その30人は、一人毎月1万円くらい、その事業を応援するくらいの気のある人達だ。
自分も毎月1万円くらいなら、その人を応援したくなるような人を想像して試る。妹、弟、娘、友達のあの人、この人・・・、30人集まれば、毎月30万円にもなる。
世の中には、親しい人を作るより、勉強や競争に夢中になって生きている人が圧倒的に多い。このような親しい人が居ないから、人間は一人で生きて行く為に、資格を取ったり、時間の切り売りのような仕事をしたりするのかも知れない。 誰にも頼らない為に、誰にも頼れない為に、自分に重たい鎧をまとって孤独に生きて行く。
30人の親しい人、優しい可愛い森の小人のような人達がいれば、どれほど安心なことか。周りが自分を守ってくれるような自分作りをするのが人生では大事だと想う。 そのためには、赤ちゃんのように、素直な生き方をすれば好かったんだ。
自分が願っていることを、「・・・・になりました。感謝します。」 「結局、あの時の・・・が良かったんだナー。」と述懐する。
そう想うだけで、凄い力を生む。 こんな、ボケ、幸せの勘違いは、人生の最高のコーチではないか。 もっと、やってみよう !
私は、何でも自由に考えてきたつもりだったが、余り深く考えてないことが沢山あることに気づいた。
自分が運が好かったと思うことのリスト。 周りの人間の長所・魅力と思うことのリスト。 自分の夢の具体的な内容のリスト。 これらのことのリストを沢山書き出してみようと思う。
これらのことをちょっと考えると、すぐ途切れてしまう。 これらのことを、沢山語れないと、人生は、好転・充実しないような気がする。 どう考えるかで、自分のなかに変幻自在な力が生まれて来るような気がする。
私が幼稚園の頃、私が 大きな"カニ"の絵を描いてたと母が笑っていた。
「あいうえお、まだ書けぬ子の絵手紙に、船より大きな魚一匹」、この短歌に触れ、自分の子供時代や、その時の母の想いが蘇った気がした。
母の実家近くの、長崎の京泊の海岸(あぜかり海岸)の砂浜のカニを描いたのだろう。 母と歩いた白い砂浜、岩礁、碧い海、かもめ、そして"カニ"、心の宝の光景。
昨日の朝のTV番組の短歌・俳句で、心に残る句をメモした。 冬の情景の寒さに、人の暖かさが映える。
「こうこうと鶴の啼く声かなしけれ、いずれの空や恋い渡るらむ」 ー昭和2年の岡本かの子作ー
「民話でも 読もうか 雪が深いから」
「オリオンの かぶさってくる 寒夜かな」
人生の1秒は1円くらいの価値はあると思うと、1日は60秒X60分X24時間=86,400円になる。1年では3,150万円にもなる。
人生は、毎年 3、000万円の豪華旅行をしているようなものだ。 80才まで生きるとすれば、24億円の旅。何処かで聴いた、宇宙旅行の値段と似ているなー。
待てよ、1秒が1円じゃ安過ぎるなー。 そうだ、凄い旅行をしているんだ !
心臓についての医学の記述を見る度に、人体に対する畏敬の念が湧いて来る。そして思わず、有難うと云いたくなる。 そして私は感じる「時間 」の重みを。
心臓が1回に送りだす血液の量は平均100ミリリットル。1日に約1000万ミリリットル(1分間に70回の収縮、1日に10万回)。これを一升瓶(1.8リットル)に換算すると約5,500本、重量にして約10トンもの血液を毎日全身に供給している。
寿命を78年としても、小さなポンプのような心臓は約28億回以上も、黙々と運動を続ける。最初に動かしてくれた崇高な意思に感謝の念が湧く。
これから、見る朝日も、小鳥のさえずりも、この崇高な意思が与えてくれている。
東横インの建物違法改造事件の社長のことで、人生の迷走を思った。 事件が発覚しなければ、世間的には、社会的にはリーダーシップのある、かっこいい経営者だったろう。 人々が目指すゴールのような存在だっただろう。
世間が目指すゴールが如何に、薄っぺらな表面的なものかと思う。 サラリーマンは社長になりたい、組織で偉くなりたいのが当たり前。しかし、TVに出て来る色々な会社の社長は、自分の組織のなかでもまれて、人間を磨いてきたと云うより、寧ろ、いつのまにか東横イン症状になっている人も多いと思う。 一見自信はありそうに見えるが、いざとなった時にもろい。雪印の社長もそうだった。
求める人生の目標の誤設定なのだろう。 迷走の人生ではないだろうか? 東横インの社長は、今回の事件で、人生の価値観の設定の間違いに、イヤと云うほど気づいたのだろう。 彼が、今回の事件で、正気に戻ることを祈りたい。 一生、気づかないで、人生を終えるよりは、よっぽど好いと思う。
ある本(「食べて元気、出してキレイ」義岡千恵子著、法研)に、"男は3回捨てられる"と書いてあるのを見つけ驚いた。 1回目は会社から。 2回目は家族から。 3回目は地域から。
なるほど、とわかる気もした。 仕事は、自分が主体となってできる仕事なら定年はないだろう。 家族で、孤立しない様な生活をしていれば、孤独感はないだろう。 町内会行事や近所の人に毎日沢山挨拶や声をかけていれば、地域からも孤立はしないだろう。 それが、男は会社優先で、出来てないことが多い。
サラリーマンは、何となく仕事に夢中になっている間に、無人島の一人だけの漂流者になっていることもあるかも知れない。 ドキッとする発見。
最近、吉永小百合さんや高倉健さんのポスターを見るだけで、何だか落ち着く。 その人の持ってる、人間性・精神性に、何か安らぎを感じるのだろう。
はしゃがず、落ち込まず、それでも、深い人生の意義を噛みしめて生きてらっしゃるような感じがする。 遠くを見つめるような目も好い。 自分を生ききってらっしゃるようなところが好い。
団塊の世代へのメッセージ、「それでいいのか蕎麦打ち男」を書かれた、残間里江子さんの講演を聴いた。団塊の世代は、蕎麦打ち、陶芸、NPO作り、ヘルパー資格等に関心を持つひとが多いと云う。残間さんは、それぞれの関心事を、趣味に留まらせず、小さな仕事にして、少しでもお金をもらって、社会からの批評も受け、道を極めて欲しいと云う。 北海道移住も、ラベンダーととうもろこしだけでなく、自分の特技を活かした新たな仕事をその土地で見つけて欲しいと云うメッセージであった。
団塊が故に、競争に明け暮れ、色々なことを我慢して生きてきたが故に、何となくやりたいことが一杯ある世代。だけど、彼女が感じる素敵な人とは、「このドアを閉めよう」と、目標に向かって絞り込んで行く人だと云う。限リある人生、その生きかたは潔い。 2番目以降を閉める勇気を持った人が、寧ろ素敵だと云う。
確かに、一芸を極めることは、素敵なことだ。 "目標に向かって、絞り込んで行く勇気"これが、私にとって、印象に残った。 私は、"健康・心・自然・時間"の私の価値観を具現できる目標を考える。
「こわい風邪薬」の著者、宮田雄祐医師(八尾総合病院免疫血液センター所長)の講演を聴いた。
風邪は、鼻と喉の病気で、脳や筋肉へは行かない。 風邪ウィルスが鼻、喉の細胞に突き刺さると、血管は、発熱物質(プロスタグラデイン)を出し、体温を上げる。 38度、39度の熱が出て数時間で、ウィルスは溶けてしまう。 人間の免疫システムは、人類始まって以来、熱を出すことで人体を守ってきた。
これに、アスピリンや、ボルタリンなど解熱剤を使ってしまうと、熱を下げ、治らず、また副作用で脳を痛める。風邪薬で、子供が嘔吐して、何人も亡くなってから、1998年12・25 "アスピリン系風邪薬の子供への投与を禁止"となった。 (ボルタリンは、本来リュウマチの薬で、解熱の副作用が大なので、風邪薬に使う邪道がまかり通って、被害を拡大している。 リュウマチの患者より風邪薬に使った方が経営上良い。)
ウィルスは 生き物ではなく物質。 風邪は、身体を温めて、休んで治せば良い。 日本ほど、風邪薬の危険にさらされている国は無いとのことであった。 風邪に効く薬はなく、また風邪薬と云う正式名称は世界的にもなく、日本では 厚生労働省の分類で、"精神神経用薬"の欄に、風邪薬の項目があると云う。
消費者、市民は、自分でも 色々な意見に耳を傾け、自分の身を守らなければならない。 ましてや、幼い命にかかわることは、なおさらである。
ある人が、自分の小学生の息子の話をしてくれた。 小学校で席変えがあった時、小学生自身が、誰のそばに座りたいかアンケートを取った時のことです。 みんな、自分の気に入った友達や、人気のある子、好きな子のそばに座りたがるなかで、自分の息子は、自分をいじめてくる生徒を敢えて選んだとのこと。
傍でみても、何故いじめている生徒を選ぶのか不可解な選択だったと云う。 先生が、その理由を問うと、「今まだ友達になれていないのが、この人です。 友達になりたいです。」と答えたと云う。
子供は素直に育てると、こんなにも美しい天使になれるのかと驚いた。 いじめも吹き飛ばすほどの輝きをもっている。 何かマザーテレサの人生観にも通じる、何か神々しささえも感じるほどの、力強い人間の美を感じた。
名古屋ヘ行く途中、浜名湖館山寺に立ち寄った。 湖のそばの曹洞宗館山寺の境内への階段に、沢山の市民入選の俳句が、飾ってあった。
「月待つや、浄土の如き、湖の景」、小雨に煙リ、ひっそりとたたずむ温泉街。湖も山も空も全て、淡い墨絵の世界。神秘的な静かな美の世界だった。
私は 他の句の、"月の舟"と云う表現がいたく気に入り、 「月の舟 、浄土の如き、湖の景」ってのも好いなー と想った。
小田原の妹と、珍しく名古屋の従兄弟の家を訪ねた。 色々な親戚の話に話題が盛り上がった。 その時、最近妹が、感動した話に、「集めてきたものは必ず失う。 与えたものは残る。」と云うことを云った。 水谷修と云う人の言葉らしい。 「与えたものしか、残らない。」 真理だなーと関心した。
そして、名古屋の従兄弟の家には、客間に「名利共休」と云うの座右の銘が書いて飾ってあった。 名誉も利益も共に休めと、いつも人生戒めでいる言葉らしい。 これも、心に残った。
政府の健康運動、「健康日本21」の理念の話を聴き、なるほどと思ったことがある。 健康の実現に必要な要素の指摘は、その通りだと思った。 私なりの解釈を付け加えると次のように表現できる。
(1). 健康は主体的な課題 : 自分がその気にない人には無理。 確かにその通り。
(2). 健康の意味の理解: 少々血圧が高くても、中性脂肪が高くても、自分が健康と思っていたら、進展なし。
(3). 健康達成の方法・資源の選択: 自分の感性・判断力を賭けた選択のようなもの。 この選択には勉強が必要。
(4). 自分への圧力: 生活習慣を変えずして、病気は治らない。 叱ってくれるくらいの理解者も必要。