守護神
昨日 昼、女房の父が、入院中の病院で88才で亡くなった。義母は3年前に亡くなり、私の両親は10年以上前に既に亡くなった。 これで、夫婦の両親4人が、全て亡くなったことになる。
両親は、ただ生きているだけで、子供を見守っている存在、守護神のようなものだと思う。 両親が、亡くなった後、夜空を眺めると、もうこの世に両親がいないと思うと、心細い、寂しさが込み上げる。
生死は、自然現象。 そのまま受け入れ、人生に精一杯、感謝しよう。
昨日 昼、女房の父が、入院中の病院で88才で亡くなった。義母は3年前に亡くなり、私の両親は10年以上前に既に亡くなった。 これで、夫婦の両親4人が、全て亡くなったことになる。
両親は、ただ生きているだけで、子供を見守っている存在、守護神のようなものだと思う。 両親が、亡くなった後、夜空を眺めると、もうこの世に両親がいないと思うと、心細い、寂しさが込み上げる。
生死は、自然現象。 そのまま受け入れ、人生に精一杯、感謝しよう。
昨日、人間の心について勉強をした。 心の本質的欲求は、(1)他人から愛されたい、(2)自分で自分を愛したい、(3)他人を愛したい であり、この3つのバランスも大事との分析。 これらの欲求に対する反応として、人間の感情がある。 感情の源は何なのか? これは 宇宙への旅。
物質を細かく細かくして、これ以上細かくならないところまで行くと、それはエネルギーになる。 物質は"気"に帰る。 "気"が具現化したのが生命だとも思う。
人間の心の本質を素直に感じ、素直に生きることは、宇宙のリズムに合っている。 素直は最高の知性だと思う。宇宙への旅、自分への旅。
横浜の県民センターのともしびシュップと云う喫茶店・レストランでは、軽度の知的障害のある若い人たちが働いている。 店に入ると、「こんにちわ、 いつも有難う。」と云う澄んだ声の言葉が返って来た。
障害があっても、一生懸命に働いている姿をみると、ただその姿を見るだけで、心が洗われる。綺麗な花園の中にいる様な気がする。
平成4年7月3日には、天皇皇后両陛下も、ここに立ち寄られている写真も飾ってあった。 ちょっと、元気と、心の洗濯をしたい時に訪れたい場所です。
新潟の知人が、自分の子供が小さい時にもらったプレゼントで一番嬉しく、楽しかったのが、肩たたき券の綴りだったそうです。 小さな女の子からお父さんヘ、肩をたたいてもらえる券をプレゼントしたんです。考えるだけでも楽しそうです。
私が、新潟から横浜ヘ転勤した後も、その女の子は、時々私になぞなぞの手紙を書いてくれました。 又、手紙にみかんの汁を使ったあぶり出しの絵や文字も書いてくれました。 その女の子も 今では可愛い 二人の女の子の母親です。
会社に入り、誰も知り合いのいなかった新潟の、会社の独身寮のそばの家の家族の方の話です。 何十年経っても続くお付き合いになりました。
森が山火事になった時、小さなハチドリが、川の水を一滴ずつ、木の葉に乗せて運んで消火を続けたそうです。決して、そんなことでは、消えるはずもない山火事。
でも、その懸命に、小さな水の雫を運ぶ小さなハチドリの姿は、森の動物達のみんなの心を打ちました。 みんな頑張って、力を合わせて、森の火を消したんだそうです。 小さな童話。
こんな、素敵な話を、 世界的に"もったいない運動"を提唱しているマータイ女史がしたそうです。 ー新潟にてー
父の権威の崩壊は、長く聞いて来たが、母の権威の崩壊の話も最近聞いた。 それは、「食卓の喪失」 から来ているとのではないかとの分析。 個人が、好きなものを別々に、自分の都合の好い時に、勝手に、好きなだけ食べる時代。 即ち個食、孤食の時代。
個人の自由・権利を追求する余り、その事で、自らの精神も病んでいるような気がする。 半分くらいは自分を抑え、誰かの為にと云う気持が無ければ、人との関わりで幸せにはなれない。 家族や集団・社会の為に、ちょっとは自分を抑える気持を取り戻さないと、人は お互いに、ドンドン孤独になって行くと思う。 自由のパラドックスみたいなものだろう。
病院で産まれ、病院で死んでいく時代。 こんな生き方の為に、日々頑張っているのだろうか? 貧しくとも、ちゃぶ台のあった、家族団欒のあった時代の日本の精神性も、大切だと思う。それは、軍国主義に繋がる全体主義などとは縁遠い、崇高な人の絆だと思う。
何年か前、鎌倉 円覚寺の住職の講話で、人はいずれ、「貴方は何者ですか?」と云う問いを、自分に対してするとの話しを聴いた。
先日、館山の坐禅の会に参加されてる人が、悩んでいる時、苦しんでいる時に効く魔法の言葉があるとおっしゃった。 「・・・・・と思ってるお前は、一体何者か?」
悟りは、得るものではなく、捨てて、捨てて、捨てきるところに、現れるような感じがする。
坐禅の道場で、住職が教えてくれた、マザーテレサの新たな一面。
彼女は、救済はしていない。 彼女は苦しんでいる人のなかに神を見出していたのだ。 自分はやらせて頂く、神の意のままに。 自分は喜びを与えられている。
この様な気持で、彼女は、カルカッタの路上で死に逝く人に接していたと住職は云った。 道徳感とかを、はるかに、はるかに超える世界。
私の娘(21才 大学生)が小さい子供の時の時間を時々思い出す。 肩車が好きで、肩車のことを"頭抱っこ"と云ってせがんで、疲れた私を困らせていた。
自転車のハンドルにつけた台に娘を乗せて、武蔵小杉の多摩川の河川敷などによく行った。 私が、「虎の赤ちゃんがいる!」 と云って娘を驚かすと、あれは 「ネーコ、ネーコ」と云って、私を安心させていた。 家に帰ると、"お馬パカパカ"、"飛行機ブン"とか云って、私の背中や、寝転んだ両足に娘を乗せて遊んだ。
そんな娘と、大学卒業前に、二人で旅行する計画を立案中です。 今の私にとって、人生で、もっとも大切な部類の時間です。
インデアンの言葉、"ミネハハ"とは、"母の微笑み"とのことですが、ミネハハと云うコマーシャルソングの女性歌手の方の本格的な歌を聴いたら、凄かった。 "人形のきゅうげつ"とか"石丸 石丸ー" とか "ソフランママ" とかで、聴けばすぐわかる声の方です。
人生観の滲み出る、癒しの美声でした。 例えば 蘇州夜曲、 サトウキビ畑 など。
ステージの合間に彼女が云った言葉を書き留めました。 「50を過ぎたら、お返しをする人生」 「人の為にならなければ、自分の為にもならない。」 とても好い歌手にめぐり会えました。
"水に輝く女たち"として、TVで、Women's Swim Festival が紹介されていた。 木原光知子さんが提唱して、今では、1500人もの中高年の女性の参加者があるのだと云う。
そのなかで、東美代子さん(59才、東京五輪、水泳 )の人生の紹介があり、心を打った。 東京五輪では不調、その後 結婚、離婚、トラック運転手、交通事故。 現在、足が不自由で、膠原病を患ってらっしゃる状況のなか、木原さんに薦められ、再び、手だけでも泳ぐ事で、生きる力を見出しておられた。 交通事故は、大事故で、後遺症で、何度も死にたいと思ったそうです。 療養中で、出れなかった娘さんの結婚式で、娘さんがマイクに向かって云っている姿をビデオで見て、彼女は生きる力が蘇った。 「お母さん、生きていてくれて有難う。」・・・・・ そして今、彼女は、娘さんと水泳を楽しむ日々を送っていた。 単なる水泳ではない、水を得た、輝く女たちの姿があった。
現在生きてる人間は、勝ち組み遺伝子だったからこそ、36億年の生存を獲得して来た。 (その人間は、生きている間に3~5%の遺伝子の能力しか使わず、死んでいくとも云う。)
休眠している遺伝子の凄い力を、呼び覚ますのは、「感動 」だと云う。 そして、遺伝子は、「貴方は素晴らしいと云い続けている。」 素直にその声を聴けば、遺伝子は喜ぶ。
誰の下にもつく必要の無い自分への尊厳、自分を大切にする事に真に目覚めた時、寝ていた遺伝子は、目を覚ます。 究極の知性は素直さ。
こんな話を講演 (パーソナル イメージ コンサルタント 稲垣節子さん) で聴けた。
何日か前、水害の大被害に合ったニューオリンズの被災者が、何を送って欲しいかと問われた時、"楽器"と答えた話が心に残った。 映画、戦場のピアニストを思い出した。 どん底の状態で、何処からか流れて来る、心惹かれる懐かしい調べ。 かすかな、生きる力も、呼び戻す音楽。
水害前年、2004年夏にニューオリンズで買って来たCDをかけてみたくなった。
何でも思い通りになったらどうなるのだろう? もしかすると、思い通りにならないことも、人生で大きな、役割を果たしてくれているような気もする。 そのバランスが問題で、適度な、未達成感が、日々の生活の動機付けをしているように思う。
人体における、活性酸素や、悪玉コレステロールも、人体では何らかの役割を果たしているはずだ。 過剰になったら病気になるが、無くなっても病気になるのではと思う。
濁り過ぎても、きれい過ぎても、魚は棲めない、適度な混ざり方が大切なのだろう。
昨日、目白(デサント)で行なわれたオリンピック参加者のトークショー、「トータル・オリンピック・レデイース会」 に行ってみた。オリンピック参加経験のスポーツ選手達は、独特の雰囲気をもっていることに気づいた。
明るさと自信と清潔感、清清しさだった。 厳しい練習が成果をもたらす成功体験から来る精神的な強さか、 いやなことでも厭わない強さのようなものが感じられた。 ピリッとした緊張感のある人達だと思った。 緊張と弛緩のリズムの調和、私はその弛緩の部分の彼らを見せてもらった感じが 好くわかった。 自分へのチャレンジの覚悟のある人は、輝いている。
次の人達のトークショー で、会場には、他にもオリンピック 参加者が、沢山いらっしゃったようでした。
萩原智子さん、2000年 シドニー 水泳、現在 山梨学院大
三宮恵理子さん、98年 長野他 スケート 、現在 トヨタのレーサー
福原(旧姓高柳)鈴江さん、68年 メキシコ 、バレー 、現在ママさんバレー指導
泉 浩さん(男性)、2004年、アテネ 、柔道 、現役 旭化成、
司会: 木原光知子さん(東京五輪 水泳)、 大林素子さん(バレー 182cm)
今朝の新聞を保存しておこうと思った。 郵政民営化法案成立、"「大」を飲みこむヒルズ族(楽天vsTBS) " 日経新聞の見出しに、時代の変わり目を感じる。 激変する時代に、新鮮な可能性を感じる。
室町時代の官位にこだわる今川家のような由緒ある大名が、名もなかったような武将に滅ばされて行く状況を思う。 新たな価値観、自分の価値観、視点を しっかりもっていないと、混乱に巻き込まれ、不満タラタラで、人生を生きて行く事になる。 ゲームと、ルールが変わったのだと思う。 まさに、色んなことに、個性ある感性を求められる時代のように感じる。 考えることが、楽しくなる時代でもあると思う。
人は、それぞれの人生の段階ごとに、関心事も変わって行く。 自分は知らず知らずに、「この指 とーまれ」と、周りにメーセージを送って、人間関係を形作っていく。 また、他人の 「この指 とーまれ」のメッセージに反応して、行動していく。 人間関係は、その人の関心事の鏡のような部分でもあると思う。
TVに出てくる人、初対面の人でも、凡そ、その人の関心事は、顔に書いてあるようにも思う。 浅く考えれば、浅い価値しか返って来ない。 良心に基づかなければ、良心は返って来ない。 人が、どんなに忙しく活動していても、人前でかっこよく振舞っていても、空虚なものが残るのは、たぶん自分の発する「この指 とーまれ」の価値観の未熟さが故なのだろうと思う。
自分は、何を 「 この指とーまれ」と 云うのか、自分に問いかける。
人体の赤血球は、標準で、約35兆個あり 1mm立法のなかに450万~500万個も入っているのだと云う。それを一列に並べると、何と、地球5周になると、生物の本に書いてあった。 ー大森徹著、中経出版「高校の生物を復習する本」ー
血管の長さが、地球2.5周。 心臓が一生(80年計算)に送りだす血液の量は20万トンの巨大タンカーと同じくらい。 返す返すも、驚愕のデータ。
巨大な宇宙を、小さな蟻のような人体に精巧に凝縮させている人体の神秘を感じる。 自分が巨大な恐竜であったリ、小さなアメーバーであったり、そう感じながら、朝日を見る。 生きてる事は、神秘的に素晴らしい。
この芸術的に複雑で、巨大な身体を動かしてるのは、日々の"食べ物"。 おにぎりは、インド大陸のように見える。 味噌汁は地中海? 日本はお新香かな? 今日も、巨大なシステムを繊細に動かそう。 余りにも素晴らしい生命に感謝。
人生を考えると、何かに夢中になって生きてる時とか、何かに流され渦潮に巻き込まれている様な時がある気がする。 何か崇高なものを感じ、夢中になれる事は、幸せな事だと思う。 そんな時期が、人生であったかなー?と考える。 そうだ! これから、そう云う生き方をするんだと自分に云い聞かせる。
世間的に、こうすべきだから、一般的に幸せになるには、こうすべきだから、と云う事で、選択して来た道。 これは何かに流されて来た事のように思う。 成人してから、親との時間、兄弟姉妹との時間を失っていた様な気がする。 芸術に対する感性も徐々に失って生きてきた様な気がする。
何かに流されると、あっと云う間に人生の大切な時が進んで行く。 感動する事を大切に、崇高な感動に夢中になれる人生を送りたいと思う。
10月9日午後は、曇り空のなか、横浜Jazz Promenadeに出かけた。 (午前中は、根強い人気のある リコーのパソコンソフト、My Tool ユーザーの全国大会で沢山勉強して、パッと変わって、一人Jazzの散歩に出かけました。)
今年は、今まで行かなかった、生麦のキリンビアビレッジから始めた。 ビール工場の芝生の上での野外ライブ。 さっきまで降っていた小雨が止み、雨に濡れた芝生とやまぶき色の枯葉の上に、白い椅子。 ビニールを覆ったスピーカーさえも趣きを感じた。 雨空でも、人生の詩を歌うぞと云う意気込み。 "松井イチロー&La Noche"の ラテンジャズです。
雨の合間の曇り空に響く トランペットの叫び。 パーカッションの音にリズムを刻む自分の足。 雨上がりの蛙のように、生命の賛歌を感じました。 それから、赤レンガ倉庫を廻り、夜8時過ぎまで、Jazz の世界に浸りました。 Jazz は命の叫びです。
TVのプロジェクトXで、"日本の工業用ミシンを世界一に育てた男"と紹介された、小塚忠さん(76才)の講演を聴いた。 彼は、彼が見た原爆直後の広島の模様から話を始めた。 彼の人生は、全てがゼロになった時が、何度もあった。 回顧すると、全てがゼロになった時を、寧ろ 楽しむかのような、力強さが、彼には漂っていた。
「夢中だった。 ごまかさなかった。 逃げなかった。」 ・・・・・・・何と云う人生の美学だろう。
彼は、色んな事を、自分の頭で解決するまでやるタイプで、沢山の転職や、戦後の共産党活動家としての挫折、失恋など、死にたくなる事が沢山あった。 そして、死にたいと思った時、母の言葉は、彼が一生忘れない言葉として心に刻まれていた。 「頭だけでは人間は理解出来ない。 生きる為に働く事。そのなかでこそ生き方も掴める。」
彼は、世の中の価値観に挑戦するかのように、自分の良心に、自分の内なる心に愚直なまでに忠実に生きて来た。 76才の彼に、少年の心や、青年の逞しさや、張り詰めたような武士道が漂っていた。
ものの価値は、ちょっと不足くらいの時が、一番好い。 十分過ぎるほど豊富になると、急速にその価値は衰えていく。 欲しいものが、簡単に、充分に手に入る事は、幸せとは限らない。 努力や感謝の気持も薄れて、人生を怠惰にしていく。 まだまだ、欲しいものが沢山ある事は、目を輝かせる。
食べ物も、禅では、腹 7分目を教える。 ちょっと食べ足りないくらいが、身体にも精神にも、丁度好い。 足りない食べ物を身体の組織が、目一杯、利用しようと、機能をフル活動するのだろう。
現代は、充分すぎて、心も身体も病んでいる社会のように思う。 意図的に、技術的に、不十分にする事も、健康に生きる技術だと思う。 それは、人を謙虚にし、穏やかな幸せをもたらすような気がする。
遺伝子組み換え作物は、害虫や雑草に強い耐性のある細胞を加えて、作物の収穫を上げ、コストを安くすることと云う。 大豆には、何と大腸菌の細胞を加えて、収穫の効率を上げている。
虫もつかず、近くに雑草も生えない大豆が、どんなものか? 未だ解明されない、生体系への影響、人体への影響。私は、「自然は、あらゆる不自然を罰する」と思う。 現在、納豆や豆腐も醤油も殆ど、遺伝子組み換え大豆から製造されていると云う。 何十年後、ダイオキシンのように、又 人間が騒ぎ出すような気がする。 有害物質だらけの現代、身体から それらを排出する食生活(食物繊維、ビタミン・ミネラル)も極めて大切と思う。
喫茶店などで、コーヒーについてくる、ミルクが、椰子油で出来ている事を知った。 椰子油に乳化剤をいれて白くしているとのこと。 椰子油は、植物由来でありながら、動物性油脂の性状をしていると云う。 椰子は暑い国の植物だから、常温でも固まる動物性脂肪の性状に似ているのだろうか?
何気なく、見かける食べ物にも、沢山の気づかなかった不思議がある。
5~6年前、私は、ラジオ日本放送の「お早う中年探偵団」を早朝、毎日聴いていた。 高島秀武アナウンサー、石川みゆきアナウンサーの声が、素敵で、又 話しも面白くて、とても楽しく聴いていた。
ある時、視聴者の集いのような旅行があって、箱根日帰り旅行や、山口・別府・広島の2泊旅行にも行った。約40~50名の参加者。 誰も知り合いもいなくても、同じラジオを聴いてることで話題も弾んだ。 会社を休む時、上司に、「お早う中年探偵団の旅行です。」と云ったら、上司が大笑いしていたことも思い出す。
高島・石川両アナウンサーもバスに同乗して、話をしてくれたり、素晴らしい思い出。 あのような旅も、忘れられない旅 。 時々、楽しく思い出している。
人は、自分が、どれだけ愛されていたか、どれだけ愛されているか知らない事が多い。 静かに、一人、大自然と対峙している時、一人でいる時、そっと心や耳を澄ませてみるとわかる事がある。
今、両親が亡くなって10年以上経って、どれだけ自分が愛されていたか、その愛情がどれだけ深かったを、今やっと察することができるような気がする。 そして今、誰から愛されているか、どれだけの強さで愛されているか、そのことを感じる受信機を整備しておかねばと思う。
人は、自分が愛されていることに、気付かなかったことに対して、後で、哀しくて、口惜しくて、涙が溢れる。 人は日常生活で、あわただしく、よそ見もしながら、薄っぺらな価値観に惑わされて生きていることが多い。 強い愛情も微弱な愛情も気づかないことも多いと思う。そして身勝手に、一人ぼっちの気持で、何となく生きていることが多いと思う。 でも、自分が愛されていることに気づくことで、生きることは、ずっしりと重い、感動のひとときの連続になるように思う。
先日、広重の江戸百景の絵と対比しながら、王子界隈を、シテイーガイドの研修で、散策した。 飛鳥山も紀州出身の徳川吉宗が、故郷を偲び、沢山の桜を植え、その後 江戸の庶民の桜の名所になったと云う。 王子駅からすぐ近くの親水公園も、駅の雑踏から、一瞬にして、憩いの世界に入れる。
江戸時代に、広重が見た、音無川や滝、狐や稲荷神社や田園風景も、お伽の世界のように蘇る。 1799年創業の扇屋の玉子焼きは、今でも王子駅前で売られていた。 知らないで、通リ過ぎていた街が、凄い江戸のロマンの世界だった。 東京をもっと、もっと知りたくなった。
昨晩、TV で、「届かなかった手紙、 "ハルとナツ"」を見た。 凄い時代の、凄い人生。 別れ別れにならざるを得なかった時の子供の姉妹の気持が、余りにも過酷で、耐えられない思いだった。 生きていく事の、辛さ、逞しさ、自然と人間の美しさが、伝わって来た。 生きるって、生半可な事じゃない。
満洲を夢見て渡った両親の人生を思った。 数十年前、命をかけるような沢山の出来事が起きていたんだ。 私も、命をかけて、泣いたり笑ったりして、ずっしりと、生きて来た証になるような人生を送りたいと思う。
人は、色んな事に、自分は運が好いとか、悪いとか、思いながら生きていると思う。 松下幸之助さんは、政経塾に入る候補生に対して、「自分は運が好い」と思っている事、「愛嬌が好い事」、を条件に考えていたと云う。面白い、変わった条件に、ちょっと考えさせられた。
そこで私は、「自分は運が好い」と思う事は、車で云えば、前進ギアを入れるような事を想像した。 「運が悪い」と思う事は、後進ギアを入れる事。 運が好いとか悪いとかは、全て相対的な事で、絶対的な事実ではない。 その時点、そのポイントから、前進するか後進するかは、自分の運転次第。 その時、上がるのか下がるのか、進むのか退くのかは、そのギアの入れ方次第。
人生には、運が好い事も悪い事も、例を挙げればきりがない。 そのなかで、運が好い方を集中して見る力、考える力、それを生命力を云うのだろう。 今、生きてる人は、そのように考える力があったからこそ、適者生存で、サバイバルしてこれたたのだと思う。 まだ、夜明け前ですが、朝日が出たら、感謝しよう。
「近くにお越しの時は、是非 お立ち寄り下さい。 -足利義政ー」 そう云った主旨の、京都・銀閣寺 と、白い砂の庭のポスターを、新幹線のJR名古屋駅で見かけた。
室町8代将軍 義政からの手紙か、嬉しくなった。 粋なポスターに、気分が爽快になった。
もし、京都・銀閣寺ヘ行ったら、義政は何と云うのだろう? 「よく、来られた。 ゆっくりしていって下さい。」 とか 「応仁の乱の時は、まいりました。」 とか云うのだろうか?
義政に、心のなかで、ちょっと会話した気がした。