飴色の輝き
古民家など古い木造の建物の木が、飴色に輝いているのをみかける時がある。 経年変化の何とも云えない味わいのある美だ。 新しく見映えの好い最近の建材は、時を経て、劣化し、醜く剥がれ落ちていく素材もある。
しっかりした木は、そこに住む人の全ての生活の営みや経験を包み込んで、優しさを醸し出すようなべっ甲飴のような色に変わっていく。 人間も、人生の経験が飴色のように表れるような生き方に私は憧れる。
古民家など古い木造の建物の木が、飴色に輝いているのをみかける時がある。 経年変化の何とも云えない味わいのある美だ。 新しく見映えの好い最近の建材は、時を経て、劣化し、醜く剥がれ落ちていく素材もある。
しっかりした木は、そこに住む人の全ての生活の営みや経験を包み込んで、優しさを醸し出すようなべっ甲飴のような色に変わっていく。 人間も、人生の経験が飴色のように表れるような生き方に私は憧れる。
2年くらい前に、知人から借りて中村天風著「盛大な人生」と云う本を借りて読んだ事がきっかけで、中村天風先生のことを知った。 東郷平八郎、原敬、松下幸之助、稲盛和夫、宇野千代とかが、"生涯の師"と仰いだ人物がいた。
明治9年生まれ、若くして死病と恐れられた肺病を患い、死病を治す為に欧米、インドを彷徨い、ヨガの師に出合う。 まさに、精神の修行で、病気を克服(90代まで長生き)。 その後、財界でも成功をおさめたが、突如一切の地位を投げ打ち、大道説法に転じた人。 彼は、自分が患った肺病をも愛した。 人生は、まさに"盛大な宴"のような気持にさせてくれる本だった。 彼が、説法を行った護国寺に今も中村天風専門書店がある。
天風先生を思うと、 "晴れて良し、曇りても良し 富士の山" と云う境地になる。
和英辞典で、ムササビを調べて見た。 "Flying Squirrel"(空飛ぶリス)との訳があった。 何と、可愛らしい訳であろうか。 リスも漢字では、"栗鼠"と書くことも知った。
カマキリ"蟷螂"は英語で、Rearhorse(お尻が馬)との訳があった。確かにカマキリの形は、よく見ると、馬のお尻のような形をしている。
子供のような目で、外界を見ると、童話の世界のような気分にもなれる。 和英辞典からの想像の世界です。
酒も含めて、摂り過ぎた栄養は、先ず脂肪細胞が蓄える、それでも蓄えられないものは肝臓が蓄える、そして肝臓は脂肪肝になり肝臓の細胞の死亡速度が早くなる。 それを20年続けると肝硬変になるという。
私も、脂肪肝と云われたことが、何年前だったか定かでない。 確か10年以上は 脂肪肝の状態であっただろうと思う。 最近の検査では、中性脂肪(TG)も正常化したが、 このようなことを自分は、今まで軽んじて来たと思う。 食によって運命を左右されるなんて考えてもいなかった。 沈黙の臓器、肝臓が、沈黙してる間に気づいて良かったと思う。
婉曲表現もここまで云えば、もうユーモアと云う例がある。 太った人を英語で、 "Horizontally Handicapped Person" 「水平方向に障害のある人 」と云っているのをみつけた時には、笑ってしまった。
「少し」"Slightly"を付け加えれば、 私を含めて、多くの人が、自己紹介に使える英語表現かも知れない。
ついでに、背が低い人の事を、"Vertically Handicapped Person"「垂直方向に障害のある人」と付け加えてあった。 表現も、時にこんなユーモラスな刺激も与えてくれる。
医師として、心の存在について考え、そして出した結論が、「本能を教育したものが心ではないか?」 と村上雅治医師はおっしゃっている。
インド、ヴェーダンダ哲学の本に、「意思の退化したものが本能」とある。
本能が種子で、心は樹木なのだろうか? 種子を、時に「魂」と呼んだりしているのだろうか? 色んな心が、樹木のように育つ。 山々に沢山の木々があるように、人の心も、そのように存在しているのだろう。
同じに見えたり、違って見えたり。 心は、それでも、自然の一部の表現なのだと思う。
「努力は、目標に対して水泡に帰すこともあるが、修行はそのようなことは無い。」 村上雅治医師(村上クリニック院長)の講演のなかの言葉です。 修行は、自分を強くする為の業。 修行はするものと云うより させてもらうもの。
確かに、人生における苦しみ、悲しみも、日々自分を強くする為の訓練と思えば、有り難い気持も湧いて来る。
辛いことも、何故か、わからないが、あの坂を超えれば、故郷が少しづつ見えて来るような、1歩1歩の心地良い歩みのように感じる。 「修行」、とても惹かれる言葉だ。
源頼朝、徳川家康が共に、戦いで大敗を喫した経験をもっている ことに気づき、人生で大敗の経験が、その後の人生に多大な影響を与えたのだろうと思った。
1180年、源頼朝は、伊豆、"石橋山の戦い"で大庭景観(平家方)に敗れ、命からがら対岸の安房に逃亡している。
1572年、徳川家康は、"三方が原の戦い"で、武田信玄に敗れ、命からがら浜松城へ逃げ帰っている。
その大敗を通じて、過去の自分への深い分析や、生き残ったおまけの人生のような感覚も持ったのだろうか?
いずれにせよ、大失敗が、何か大きな収穫をもたらしたのではないかとも思った。
ジェンキンスさんの母との再会と、その後の日本への帰国のニュースで私自身の体験を思い出した。
10数年以上も前、まだ両親が生きている時、横浜から九州の実家に年に1回か2回、私が数日帰省した頃のことを想い出す。、帰省最後の日が近づくと、重苦しい空気で親子お互いに押し黙り、寂しさをこらえた。
年老いた病気の両親との別れが、どんなに辛かったかを想いい出す。 何故、自分はこんな人生を歩んでいるのだろうかと自分が選択した人生を恨めしくさえも思った。 道路に面した実家の前の電信柱の陰で、私の乗ったバスを、ずっと見送る母の姿を思い出す。 私よりも、何倍も辛かったことだろう。 父は男らしく、外には見送りに出なかったが、その時の気持は親子だから十分わかる。 今も、建て替えられた新しい弟の家の前に以前と同じ、電信柱は立っている。 今でも、バスのなかから振り返ると、母が手を振っているような気がする。
私なりの職人的な、人生の送り方と思う事がある。
人生の指針としては、坐禅を通しての哲学・宗教の分野が、精神的にとても好い安らぎを与えてくれる。
日々の人生の味わいには、文学、音楽、絵画など芸術が素晴らしい。
身体的な健康については、「食と健康」の関係が神秘的で惹かれる。
昨日、TVで"新日曜美術館"を見た。 蕪村をやっていた。 学校で習った蕪村にはない、蕪村の魅力に触れた。
京都の北村美術館所蔵の、蕪村の「鳶、からす図」が心に残った。 降りしきる雪にじっと耐える2羽のからす、風の方を向き風に立ち向かう鳶の絵です。 静と動。 深い人生の味わいを感じさせる絵だと思った。いつか 本物を見てみたい。
絵画のような俳句と云われる蕪村の句。 13才の時 死別した母の故郷、丹後の国を訪れた時の感動を、「夏河を越す うれしさよ 手に草履」 と詠んでいる。 水の音が聞える。
老化、病気の元、活性酸素、吸い込んだ酸素の2~3% がこの憎き活性酸素になるという。 この活性酸素と戦う強い戦士の一人がビタミンE、活性酸素と相打ちになって死んで行くのだそうです。 そして、その戦場に何と、助っ人が現れ、死んだビタミンE をしっかりせよと抱き起こし、生き返らせてくれるのがビタミンC 。 ビタミンCはビタミンEの命の恩人でもあります。 ビタミンCはビタミンEのリサイクル作用をしていると云うことです。流石、ビタミンの王様、ビタミンC ですね。 戦いの様子が浮かんで来ます。
活性酸素も全て悪いのではなく、吸い込んだ細菌やウィルスを殺す為に意味があると云う。 但し、活性酸素が、悪玉コレステロール(LDL)と組んで、身体に悪さをするとのこと。
生活ホットモーニング などでも、お馴染みの本多京子先生の講演で聴いた話です。
日々戦いの人体、そして数々の戦場である人体。 自然に長い歴史で食べて来た健康食にはそのような、自然治癒力を高めてくれる要素があると思う。 自分の意思で、これらの戦いに援軍を送るのが、食育だと思う。
電車の駅の日経写真ニュースで、知床が、7月に世界遺産に登録される見こみと報じていた。 ヒグマ、シマフクロウ、オオワシ など棲息する大自然。 いつか行ってみたいと憧れる。 登山家の田部井淳子さんが、講演で、南極の光景を見た時、「この世に、こんなに美しいものがあるのかと思った。生きてて本当に良かった。」とおしゃっていたことを思い出す。
人は何故、大自然に感動するのだろう。 圧倒的な大自然の前では、人間は全てが剥がれ、素直な自分の内面を見るのだろう。そして、生物としての自分が、その大自然の一部であることを感じ、安らぐのだろう。
今の若貴兄弟の抗争は、弟の発言振りでは修復不能のようにも思える。 兄弟をこのようにしてしまったのは、横綱になる為には、人間性をも犠牲にする程の「醜い夢」の所産だったのかと思う。
大きな闇の毛布に覆われてしまった心に、光をいれる方法は無いのかと考える。 その時、"氷山に衝突した後のタイタニック号"を想像するのも好いと思った。 後、数時間で船が沈没すること、死が暗示された時、兄弟は どう向きあうだろうか? と思う。 その時は、もはや財産の事も意味をなさない。兄弟の本能的な魂が、子供時代に無邪気にはしゃいで遊んだ魂が、きっと彼らを抱き合わせるのではと私は思う。
ジェンキンスさん(65才)と母パテイーキャスパーさん(91才)の40年振りの再会、新聞に載った6/14の家族・肉親の7人の写真で、二人の表情をじっと見た。 生きている時に、再会出来た、寄り添う魂の安らぎを感じる。 魂は引き合っていたのだと思う。
人は、あるときは傲慢に、自分の強い意思で、様々な生き方を選ぶ、それでも安らぎの場所は、ずーっと変わらない。 親子が、お互いが、安らぎを求めて、寄り添った時、それは 大自然に出逢った時のような調和を感じる。 私も幸せな気持になる。
小腸に、人間の免疫細胞の70~80%が存在しているとの話を聞いた。 そんなところに免疫力の拠点があったのかと驚く。
小腸の栄養吸収細胞は約24時間で入れ替わると云われている。 細胞は たんぱく質で出来ている。 だから毎日、良質のたんぱく質(大豆等)を食べることが大切なことがわかる。 そしてきれいな小腸を保つにも、食物繊維が大切なこともわかる。アトピーも小腸の病気だと云う。 表皮面積がテニスコート1面分はあると云われる小腸、 掃除もひと仕事だ。
若者の心の病気と「食」の関係を指摘されている医師の話に、共感した。
食べることは、「身体を作り、心を作り、社会性を作り、生命への畏敬を作る」と解説されている。
生命への畏敬を作る「食」、手を合わせる気持になる。
「あやめ」を和英辞典で調べてみた。 Blue Flag , Sweetflag , Iris とあった。 青い旗、 甘い旗、・・ ・想像力をかきたてる表現だと思う。 "甘い旗"、今度そう思って「あやめ」を見てみよう。
Sweetflag,新鮮な表現だった 。 因みに、Sweetfishは「鮎」、Sweetheartは恋人。 連想は拡がる。
人体が骨の髄まで全て、入れ替わってしまうのが7年であるという。 60兆の細胞から成る人体。神秘で精巧で人間には、測り知れないシステム人体。 自分が、今、物理的には、8回目の人生の途中を送っているんだと思う。
身体は全て食べ物で出来ている。 今日食べるものが、私の心も身体も造る。
健康な人でも1日に100万個の癌細胞が生まれている(新潟大学 安保先生)。 60兆の細胞からすれば、病気の細胞が生まれるのは日常茶飯事、その病気を自然治癒させる、免疫機能を持つのも人体そのもの。 全ては、完結している精巧なシステムである人体。 その自然治癒力、免疫力が一番 働きやすくする環境作りが、食育だと思う。
ファーストフードの影響か、今や、米国人の1/4が肥満と云われる。
また、この10年で、米国人の体重が平均で4.5kg増加したと云うデータがあると云う。 そのことで米国の医療費が
約8兆円増加、そして、航空機の燃料も300億円増加したと云う試算があるらしい。 次いでに、ハーハー云う息でCO2の増加も試算したとか?
笑いを誘いながらも、ファーストフード大国の悲劇の一面。 ファーストフードは、動物性脂肪・砂糖の固まりのようなものが多い。 ファーストフードは、超カロリー過多、ビタミン・ミネラル・食物繊維の超不足の食品が多い、貧しい国も含めて、世界中に糖尿病も拡大させている。
昔、流行った歌の歌詞を不図思い出す。 「♪空に星があるように、浜辺に砂があるように・・・・ ♪」
ちょっと、力を抜いて、自然の力に身を委ねようと思う気分になる。 朝、小鳥の声を聴くと、小鳥のように自由な魂を感じる。 そして、今日も、いつもの日が始まる。 それでも、考える時間があるから、人生の意義を感じることができる。
子供にしてあげられることは何なのかと思う。 倒れても、倒れても、立ち上がる姿をみせること。 人生の大波、小波にもまれながらも、苦しみにも孤独にも耐え、生きて行ける力を与えること。 それは、子供への最高のプレゼントかも知れない。
成功の華やかな結果をみせること、成功の姿をみせることより、苦しみから、立ち上がる姿をみせることが、どれだけ深く力、真の力を与えることかと思う。 背中で教えるとは、そんなことだと思う。
両親は、子供の見ていないところでも、倒れ、苦しみ、誰も見ていないところでも 立ち上がっていたのだろうと思う。
私が見たのは、ほんの一部だったんだと今は思う。
市販のアイスクリームに砂糖が約50gも入っているとの話を聞いた。 角砂糖1個約3g として 50gとは角砂糖約17個分になる。 (因みに60kgの体重の大人の1日の必要量 30gをはるかに超えてしまう。)
以前私は、時々アイスクリームも食べていたが、知らぬが仏とはこのことか。 これでは、現代人が糖尿病になる訳だと思う。 また、砂糖は体温を下げ、免疫力を落とす。 砂糖の吸収の時、貴重なビタミン・ミネラルを消費し、ビタミン・ミネラル泥棒とも云われる。 ビタミン・ミネラルは代謝の要。 更にアイスクリームは、人間の体温では固まる動物性脂肪も多い。 そんなことは、何も意識せずに食べていた自分のアンバランスな勉強振りに、今は気づいたと思う。
身体は、食べてきたものの通信簿。 120日で入れ替わる赤血球、 毎日 食べるものについても考えることが大切だと思う。
二子山親方の人生に考えさせられる。 二人の息子を横綱にした偉業は凄いと思う。 しかし、親方の家族は崩壊した。 心を壊してまでに求める夢って何だったのだろうか?
鬼にならねば、夢は実現しないこともある。 だが、夢は何故それが夢なのか自己分析が大切だと思う。
表面に囚われた夢だと、非人間的な無機質な形でしかない。
私も自分の夢を考える。 そして、亡くなった両親が、愛情溢れる鬼であって欲しいと思う。
涙を貯めながら、厳しく見ていてくれるような気がする。
数日前、友人から、「梅雨時の鎌倉の紫陽花は好いですよ」とのメールをもらった。 その時、サーと頭のなかに、しとしとと降る雨のなか、小道に紫陽花の情景が浮かんだ。 確かに、梅雨に似合う花、鎌倉に似合う花だなと思った。
猛烈仕事人間だった頃には、気づかなかったことだ。 そういえば、花菖蒲も雨に似合うことにも気づいた。 今まで、何で気づかなかったんだろうと思う。因みに英語を調べてみた。 紫陽花は"hydrangea",花菖蒲は"iris"であった。 今度は、しっかり覚えると思う。
梅雨には、梅雨の味わいがある。
有楽町で、「4日間の奇跡」と云う映画のタイトルを見掛け、そのタイトルに惹かれた。 映画の内容は、まだ知らないが、色々な想像を思い巡らせた。
"4日間の奇跡のような日々" 自分だったら、どんな日々を望んでいるだろうか? と自問してみた。
そして、その4日間が、40日になり、40年になれば好いと思った。
時間の長さは、万人に一定ではない。 その人の感情の深さが決める。
希望が凝縮された「奇跡の4日間」を想像してみると、新鮮な元気がでてくる。
どんな映画なのか興味も出て来た。 映画も見て試みようかと思う。
人は夢を持つことは大切である。 しかし、夢の形より、その背後にある精神的な深い望みが何なのかを掘り下げておかないと、夢の実現で、燃え付き、むしろ失望すら覚えることになると思う。
お金、結婚、マイホーム、車、資格、役職・・・・・・ 何故、そのようなものを求める自分なのか? その先には 何を求めているのか? 通常、人は そのことを深く掘り下げず、表面的な形だけの夢を自分の夢と勘違いしてしまうものだと思う。
「人に受け入れてもらえること、穏やかに人を愛せること、生きていること自体への喜びを感じれること、」
そのような境地を求めて、その手段として、人は 表面的な 様々な夢を語っているのではないだろうか?
そうであるならば、人は、その夢の実現に、どれほど 回りくどいことを云っているのだろうか? と思う。
心の奥底に素直になれば、夢はすぐにも 実現してしまうと思う。 人生は、今 そのままでも素晴らしいと思う。
本屋さんの店頭で、ただ本のタイトルをみるだけでも、何かを感じる本がある。
"ロング ドリーム" 三宮麻由子著 副題に、「願いは叶う」 とあった。
"ロング ドリーム" とても ロマンテイック な言葉に感じる。
もう一冊、 "今がいちばんいい時" 絵本画家 ターシャ テユーダー 著
「89才になる今も、いくつもの計画がある。 バラの専門家になることも、そのひとつ」 と添えられている。
今まで 生きてきて、今を 今までの幸せの頂点と考えることは、人生に勇気を与えてくれる。
タイトルだけでも、豊かな気持になった。
横浜市の公共施設のなかに、時折見つける心が休まる喫茶店がある。 少し知的障害のある若い人達が、ウェイトレスで働いている。 彼女達が、一生懸命に働く姿が、とても美しく心を打つ。 人が人にできる事って、なんて素晴らしい事かと思う。 心に朝日がさしこんで来るような清々しい気持になる。
私は、昨年5月、60年前に父が過ごした旧満洲の鳳城と云う所を訪ねた。 大連から車で約4時間、北朝鮮との国境の街だった。 そして、偶然だろうか? 今年5月30日、高麗恵子さんの詩に出会った。
彼女の高句麗のルーツを辿る旅の詩に、心がふるえ、涙が込み上げた。
彼女も、大連から車で、高句麗建国の地 五女山へ向かった。
「朝を向かえ、町に出るとリヤカーをひく人、馬をひく人、道端で果物を売るたくましい女性、屋台でお饅頭をふかし売る老女、みた事もない光景でした。 その時、母の子供の頃はこんな光景だったのかしらとふと思い、元気な頃の母に会いたい気持で夢中になって母を探したのです。いる訳もない母を探すひととき。」
私も、亡くなった父を、若い頃の父を、鳳城の町に探していました。